【読めたらスゴイ】鹿骨、小豆沢、人里… 東京都の難読地名〜上級編〜

東京都の難読地名シリーズも3回目。今回は上級編です。 東京都在住だけでなく東京都出身者でも一筋縄ではいかない難読地名を集めてみました。 読み方だけでなく、地名の由来やその歴史、地域の特色をお届けします。これが読めたらあなたも難読地名マスター!? ぜひ挑戦してみてくださいね。

鹿骨(江戸川区)

鹿骨は江戸川区の新中川と江戸川に挟まれた住宅地です。鹿本橋、大杉橋など、水辺の景色を楽しめるスポットも点在しています。


↓その答えは?

読み「ししぼね」

鹿を「しし」と読むのが難読ポイントです。日本では、獣、特に食用のイノシシや鹿を「しし」と呼んでいました。映画「もののけ姫」で、鹿のような生き物を「シシ神さま」と呼んでいたことを思い出した人も多いのではないでしょうか。

さて、江戸川区の鹿骨の由来ですが、その昔茨城県(旧常陸国)の鹿島大神という神様が、奈良県(旧大和国)の春日社に向かう最中にお供の鹿が病死、この土地の人々が手厚く埋葬したことから名付けられたといわれています。その鹿のために作られた塚を「鹿見塚(ししみづか)」といい、現在も鹿骨3丁目の「鹿見塚神社」に残されています。

現在の鹿骨は、花の苗の産地として有名。朝顔やほおずき、シクラメンやポインセチアなど、季節の 花々が鹿骨から出荷されており、東京の季節に彩りを添えています。

小豆沢(板橋区)

板橋区小豆沢は、板橋区民のスポーツのメッカ、「小豆沢公園」があるエリア。子どもも大人も本気で楽しめるアクティビティが目白押しで、板橋区民をはじめ多くの人々が集まります。


↓その答えは?

読み「あずさわ」

あずきさわ、しょうどさわなどと読んでしまいそうですね。小豆沢と呼ばれるようになった由来は、船が嵐に遭って、小豆を積んだ袋が流出したとする説があります。また、川の上流から流れてきた米を腐らないうちにと食べたところ、裁判で評価されたため、祝いの小豆飯を炊いたことにちなんでいるという説も。小豆沢の「小豆沢神社」では、米を食べた故事にちなんで毎年6月15日には餅つき祭が開催されているとのこと。

小豆沢には古くから人が住んでおり、小豆沢一帯にわたる大きな貝塚もありました。明治16年に発見された「小豆沢貝塚」は、縄文後期に形成されたもので、土器や石器、ハマグリやシジミなどが出土しています。

小豆沢の有名なスポットといえば冒頭に 紹介した小豆沢公園ですが、小豆沢の北部に位置する「小豆沢河岸広場」も桜の名所として知られています。 また、夕暮れ時には夕焼け空と新河岸大橋が美しい景色を見せてくれます。

小豆沢公園、小豆沢神社、小豆沢河岸広場は隣接していますので、体を動かしてリフレッシュするもよし、歴史に思いをはせながら神社を散策するもよし。板橋区は、小豆沢公園の、スポーツ施設が集中するエリアを「あずさわスポーツフィールド」として再整備して、2020年7月24日にリニューアルオープンしました。これまでのテニスコートやプールだけでなく、多目的広場にバスケットゴール、ジャングルジム、複合遊具なども加わり、1日では遊びきれないほどの多彩な施設があるので、アウトドア好き、スポーツ好きな人に特におすすめです。

人里(西多摩郡檜原村)

人里は、東京都唯一の村である檜原村(ひのはらむら)の集落。 コテージやバーベキューハウスを有する「人里休暇村」や「人里もみじの里」など、本格的に山遊びを楽しめるスポットが盛りだくさん。


↓その答えは?

読み「へんぼり」

人里を「へんぼり」とは、知らなければ読めませんね。人里をなぜ「へんぼり」と読むのかについては諸説ありますが、いまだに分かっていません。

朝鮮語で、人里を「へんぼっり」と読むというエピソードもあれば、アイヌ語という説もありました。また、モンゴル語や新羅語という説もあります。いずれも確証はなく、推測の域を出ません。

人里は、第七版広辞苑によると「人の住んでいる里。人家が集まっている所」という意味です。

人里には、「玉傳寺」というお寺があり、枯山水を眺めながらお茶を楽しめる寺カフェも。現在は新型コロナウイルス感染症の感染拡大を防ぐため営業を中止していますが、平常時は、抹茶や煎茶、コーヒーだけでなく精進料理も楽しめます。ひっそりとした山奥で気持ちを静めたい人には最適です。人里バス停近くの八重紅しだれ桜も有名で、多くの観光客が訪れます。

檜原村には、マスの釣り場や温泉、「東京都檜原都民の森」などの自然を楽しむスポットがたくさんありますので、自然好きの人はぜひ立ち寄ってみてください。

乞田(多摩市)

乞田は鎌倉街道沿いの店舗が連なり、にぎやかなエリアです。多摩ニュータウンの一角を担う地域で、乞田川沿いは桜の名所です。



↓その答えは?

読み方「こった」

乞田と呼ばれるようになった由来は、領民が領主に田を乞うた(要求した)ことにちなんでいるといわれています。今でこそ多摩ニュータウンとしてひらけている地域ですが、昔は山林が広がっており、領民が開墾をしたいと申し出たとのこと。

乞田が、歴史の舞台に登場するのは、「乞田鍛冶」の浜田兄弟が最初です。実際には乞田に隣接する貝取地域にいたのですが、幕末にかけて、新撰組の隊士の刀や農兵隊の武器を作りました。明治維新後は、鍛冶で得た経験をもとに自転車文化の世話役となり自転車のメンテナンスに携わり、日本の自転車文化の発展に助力します。

現在の乞田には、「乞田・貝取ふれあい広場公園」があり、子どもが喜ぶ巨大遊具が設置されています。1年を通じて楽しめるスポットですが、4~11月には水遊びも楽しめます(利用可能時間9:00~16:00)。

回田町(小平市)

回田町は小平市の新興住宅地を有する地域です。現在でも、畑が残る緑豊かな地域でもあります。


↓その答えは?

読み方「めぐりたちょう」

回田町は、享保9年(1726年)に東村山の廻り田村から土地を購入して新田開発した地域を、廻り田新田と名付けたことにちなんでいます。廻り田村の人々は、この地で馬の食べ物となるまぐさや、肥料の材料になる草を刈り取っていました。開発当時は雑木林や畑でしたが、天保8年(1837年)頃に、玉川上水から引かれた水路に沿って、水田が設けられたようです。

廻り田村は現在も、東村山市で廻田町(めぐりたちょう)として存続しています。廻田町が廻田と呼ばれるようになった理由は、丘陵を取り囲むような地域で、隣の村と行き来するためには田から田を巡っており、「廻っ田先の村」と呼ばれていたからとのこと。小平市の回田町と東村山の廻り田村は親戚のような存在ですね。

東村山市の廻田町は廻り田村の「廻」の漢字が現在も使用されている一方で、小平市の回田町は、「回」が用いられています。なぜ回田町には「廻」が用いられなかったのか、理由は定かではありませんでしたが、東村山市の公式ページによると、廻田は回田と書かれることもあったようです。

両者を判別しやすくするために、あえて差をつけたとも考えられますし、古来より両者とも表記が一定しておらず、近代にかけて定着したとも考えられます。

現在の回田町近隣には、東京学芸大学やサレジオ学園、中央大学附属中学校・高等学校など文教施設が充実しています。また玉川上水を望む水辺の風景を楽しめるエリアです。回田町に隣接する鈴木町には、「鈴木遺跡資料館」が設けられており、回田町の歴史を知ることができます。3万数千年前から江戸期に至るまでの回田町の歴史を紐解きたい人は、ぜひ訪れてみてください。

 

東京の難読地名、上級編何個読めましたか? 難読地名にはさまざまな由来があり、その歴史をたどっていくと時間を忘れて没頭してしまいそうです。 ふと目にした地名の由来や歴史を調べると、いつもは何気なく通り過ぎた風景にも愛着がわきますよ。

執筆者:平林 亮子