「派手な蹴り技はあまり出さないので、戦略や闘い方を見てほしい」。東京2020パラリンピックのパラテコンドーで61kg級の代表に内定している田中光哉はそう語る。今年1月の代表選考試合でも、そのクレバーな闘い方が光った。この大会でもダークホース的な存在だったが、飛躍的な成長で代表の座を射止めた。東京パラリンピック本番でも「誰にも警戒されてない位置からメダルを狙う」と笑顔で語る“戦略家”の実像に迫ってみたい。

スポーツ少年から障がい者スポーツの指導員に

子どもの頃からスポーツ少年だったという田中。先天性の両上肢欠損ながらも、剣道やサッカーに熱中していたという。とくにサッカーについては今も国内外の試合を映像でチェックするくらいのファンだ。

田中光哉(以下、田中) 男3人兄弟の末っ子で、2人の兄もやっていたので、幼稚園の頃から剣道を始めました。ほかに選択肢はなかった感じですね(笑)。サッカーは2002年の日韓ワールドカップを見て『自分もやりたい!』と思って小学校のクラブに入りました。それからはサッカー三昧の日々。中学ではクラブユースに、高校ではサッカー部に入って大学も監督のつながりで進学しました。頭の中はサッカーのことばかりで。実は今もそうなんですけど(笑)。

田中はスポーツに関わる仕事として障がい者スポーツの道に進んだ

健常者と同じチームでサッカーに取り組み、自身の障がいについて意識することはあまりなかったとのことだが、大学時代にオーストラリア留学を経験したことで、パラスポーツの世界に興味を持ち、卒業後は東京都障害者スポーツ協会に入職する。

田中 小学生の頃は練習の行き帰りで、僕だけ合う自転車がなくて乗れなかったことくらいしか不自由は感じていませんでした。それも足で操作できるブレーキをつけてもらったら、とくに問題なかった。大学では、高校の教員になりたくて、というかサッカー部の監督になりたくて、英語の勉強のために留学をしました。向こうでも地域のチームでサッカーをやっていたのですが、僕に対する視線とか居心地の良さを感じました。街でも障がいのある人をよく目にしましたし、僕の手を見るとニコッと微笑んでくれる人が多い。そういう日本との違いはどこから来るんだろう? という思いもあり、障がいに関わる仕事をしたいと考えるようになりました。

東京都障害者スポーツ協会ではパラスポーツの選手発掘事業にも関わる。そんな中で自分も選手として取り組んでみたいという思いが強まり、多くの競技を体験したとのこと。数あるパラスポーツの中からテコンドーを選んだのは、どういう理由だったのだろうか。

田中 サッカーが好きだったので、(上肢・下肢の切断の選手がプレーする)アンプティサッカーは真っ先に体験しました。ただ、上肢障がいだとゴールキーパーをやらないといけない。フィールドでボールを蹴りたいという思いが強すぎて断念しました。水泳や陸上競技なども検討したのですが、やるからには東京パラリンピックに出たいと思っていたので、タイムなどのレベルを見て『4年後までにあと10秒は縮められないな』とか、なまじ知識があるので考えてしまって。パラテコンドーは障がいも該当しましたし、協会も選手発掘事業をしていて競技人口も少ないので、東京パラリンピック出場を狙えるという計算もあって選びました。

テコンドーの面白さに気づき、戦略家として花開く

運命の代表決定戦でライバルたちに勝利し、日本代表の座を掴んだ

サッカーと同じく蹴る競技で、剣道で対人競技の経験もあったことから、それも活かせるのではないかとの思いもあったということだが、実際にはそんなに甘いものではないことは身を持って痛感する。しかし、そんな中でこの競技の持つ面白さにも気づいたという。

田中 今だから言えることですが、最初に体験したときの印象は『面白くないな』というものでした。テコンドーは対人練習の前に基礎のステップや蹴りのフォームを繰り返す練習が多いので。でも、3回目の体験会に行ったときに組手をやらせてもらって、そこでボコボコにやられたんです。この競技のパイオニアと言われる伊藤力選手が相手だったのですが、3回目なのにこんなにやるのか?っていうくらい(笑)。でも、その中で基礎鍛錬の意味とか、これだけ強い人と競い合うのがテコンドーなんだなという面白さも身を持って知ることができました。そこからですね。本気で取り組もうと思ったのは。

選手の中では長身だったことから75kg級で試合に出場していた田中だが、国際大会ではなかなか結果が出なかった。東京パラリンピック出場に向けて手応えが掴めたのは、階級を61kg級に落としてから。10kg以上の減量となるが、とくに大変なことはなかったと事もなげに語る。

田中 当時は工藤選手(75kg級の東京パラリンピック日本代表内定選手)もいなくて、身長が一番高かったので75kg級に出場していましたが、通常体重は66〜68kgくらいでした。試合のために増量していた感じだったので減量もあまり大変ではありませんでした。運動量は元から多いので、食事で炭水化物の摂取量を減らして有酸素運動を増やしたくらいですね。3ヵ月かけたので、あまりキツくありませんでした。パワーは少し落ちましたが、それ以上にスピードが上がる効果のほうが大きかったですね。

階級の変更とともに飛躍の大きな要因となったのが、現在のコーチとの出会いだ。それまで地道に基礎練習を積み重ねてきたところに、戦略という武器が加わり、クレバーな闘い方が一気に花を開いた。

田中 所属する道場の師範が基礎を大切にする人なので、はじめの2年くらいは嫌になるくらい基礎を繰り返し練習していました。パラテコンドーの選手は皆キャリアに大差はないですが、間違いなく僕が基礎練習は一番やっていると言い切れるくらい。その師範が、1年ちょっと前にコーチを紹介してくれて、その人がすごい戦術家なんです。テコンドーはただの蹴り合いに見えるかもしれませんが、相手の技を誘ってカウンターを合わせたり、さらにその先を読む戦術が大切な競技なんです。パラテコンドーは攻撃部位が胴に限られていて、どちらの腕に障がいがあるかでも闘い方が変わるので戦術がさらに重要。その部分をコーチが一緒に考えてくれて、試合でも『こんな闘い方ができるんだ』と思うくらい変わりました。そこからですね。東京パラリンピックに向けて自信が持てるようになったのは。

そして迎えた今年1月の選考試合。61kg級は伊藤力、阿渡健太という実力者揃いの中、田中はこの2選手に連勝して日本代表代表内定を勝ち取った。相手に寄って闘い方を変える冷静さは、戦術家の片鱗を感じさせるもの。また、両上肢欠損のK43クラスだが、(より障がいの軽いK44との統合クラスとなる)東京パラリンピックでの活躍にも期待が高まる。

自粛期間中も多くの練習量をこなし、1年後に備えているという

田中 阿渡さんは距離を詰めて来るタイプなので、リーチの長さを活かして前足の蹴りで止めて後ろ足の回し蹴りを狙うという戦略でした。伊藤さんは逆にカウンターを狙うタイプなので、自分からは攻め過ぎず先に手を出させるという作戦。自分から前に行くフリをして、伊藤さんがカウンターを合わせてきたところに、さらにカウンターを合わせる闘い方を心がけました。それぞれの苦手な部分を突く作戦をコーチと考えたのですが、こういう闘い方は得意ですね。性格が悪いので(笑)。

ダークホース的な位置からメダルを狙うゲームメーカー

日本代表に内定し、これからというタイミングでのコロナ禍による大会延期。多くの選手がモチベーションの維持に大変な思いをしているところだが、もちろん田中も例外ではなかった。そんな中でも厳しい練習を続けて来られたのは、師範の言葉があったからだという。

田中 集中し切っていたところで延期と自粛が決まったので『気持ちが持つかな』と思いました。そんなときに師範から『家にいたら落ち込むから道場に来い』と声をかけられて、マンツーマンで練習につき合ってくれたんです。そこからは週6日で朝昼晩の3回、2時間ずつ。この期間、誰よりも練習していたと思います。正直、キツかったですが無心になることができました。この自粛期間で強くなった実感がありますし、1年伸びたことでメダルを獲れるチャンスは大きくなったと感じています。

戦略が重要なテコンドーにおいては、試合前の情報戦も重要なポイント。その点においても61kg級での国際大会出場がほとんどない田中は有利だともいえる。

東京パラリンピックで初お目見えするテコンドーの初日に登場する61kg級の田中光哉

田中 試合映像もあまりないし、世界ランキングも低いので誰も警戒していないでしょう。映像を見たとしても、この1年で大きく成長できて、闘い方の幅も広がっているので意味がないと思いますし、ダークホース的な位置からメダルを狙います。競技歴が短くてもパラリンピックで活躍できるんだと、障がいのある当事者の子どもたちにも思ってもらえたらうれしいですね。

尊敬するアスリートは小学校の頃から変わらずサッカーの小野伸二選手だという田中。冷静なゲームメイクに憧れたというが、その要素は自身の闘い方にも反映されているようだ。冷静に自分の実力を見極め、相手に合わせて戦略を立てるクレバーな試合運びは、来夏の本番でも注目したい。

text by TEAM A
photo by Hiroaki Yoda