〈2〉発売前なのに!? レースや速度記録に挑戦して世界記録達成!|トヨタ2000GT開発者座談会 Vol.2|その開発秘話に迫る

Vol.1から続く

──トヨタとヤマハの大きな違いはどのようなものがありましたか。

松田 「トヨタはコスト意識が徹底していました。例えば1回の電気スポット溶接を使うと電気代がいくらかかるとか、4点を3点にできないかと考えました。」

田中 「ヤマハでは「時間を金で買え」というのが川上社長の口ぐせでした。両社の社風の違いがありました。ヤマハは焼き入れ性のいい合金鋼を使いたがるのですが、トヨタにはその方法が通用しない。トヨタは安い炭素鋼を熱処理して使おうとする。でも高い技術力が必要になります。」

──レース用3M型エンジンのパワーはどれくらい出ていましたか。

高木 「河野さんは市販する前にレースで熟成させるという考えでした。レースという過酷な舞台で悪いところをすべて洗い出し、完全な形で市販したいというポリシーでした。レース用エンジンの目標は最高出力200ps(市販エンジンは  150ps)でしたが、実際は190psしか出てません。そこからなかなか上がらない。」

松田 「シリンダーのひずみの仕上がりの精度が100分の1ですから何度も焼き付きました。短時間で鋳物を作ったので、加工するときはひずんでしまいます。」

田中 「シリンダーブロックは量産型を使用する構成だったからそれは仕方ありませんでした。その頃の技術力では仕方なかったんです。」

──第3回日本グランプリで細谷さんは赤いトヨタ2000GTで大健闘して3位に入賞していますが。優勝は砂子義一プリンスR380でした。

田中 「アルミボディのトヨタ2000GTを2台用意した。福沢くんが乗っていた時、第1号車のスチールボディが燃えてしまった。3台目のアルミボディを用意していたが、途中で中止しました。ヤマハが作った手叩きのアルミボディは武骨で仕上がりの重量もそんなに軽くならなかった。その後の67年4月8、9日の「富士24時間レース」や67年7月9日の「富士1000kmレース」では市販車をベースにレース用車両を作りました。」

高木 「私は第3回日本グランプリには田村三夫さんのピットマンを務めました。田村さんのシルバーのマシンもアルミボディでした。残念ながら新聞紙が飛んできて、ラジエーターをふさいでしまい、オーバーヒートでリタイアしました。」

田中 「アルミボディを完成させるのに腕のいい名人を東京近辺から連れてきました。トヨタ2000GTを基本的に1人で1カ月間で叩き出しました。」

松田 「トヨタにも腕のいい板金工がいました。神谷繁正、勝田照夫、川合竜治、井上博之、杉山利勝なども上手でした。」

田中 「私は66年2月からレース部隊に入りました。それまで4輪に触ったこともないし、部品名称もわからなかった。見るものすべて新鮮でした。」

松田 「私は夜中によく田中さんに依頼したい部品があって電話しましたら、深夜0時でも会社におられました。」

田中 「スタッフは新人ばかりでした。安川 グループから1人くれたのが実験担当の渡瀨治朗くんです。あとは長崎屋で呉服を売ってた者や農業学校出身者などで、経験者が欲しかったですね。それをまとめるのは最初大変でした。でも安川グループもトヨタ2000GTの市販車の製作で忙しかった。私も深夜まで残業していました。」

──78時間スピードトライアルは3つの世界記録と13の国際記録を作っていますね。

高木 「本番まで4回のシミュレーションテストをやりました。1回目が66年7月8〜17日、2回目が8月5〜8日、3回目が8月26〜30日、4回目が9月14〜19日です。本番が10月1〜4日。」

田中 「1回目はピストンに穴があき数時間で中止。タイヤの偏摩耗があり田村三夫車がバーストしました。2回目は15時間で足回りにもトラブルが発生しました。3回目が20時間でトラブルが出ました。目標の78時間よりはるか手前でストップしました。4回目は本番用のクルマを使用し、雨の中1万km、35時間走りました。」

松田 「実は本番前にクラッチが壊れてしまいました。市販のクラッチディスクを使っており、ねじれ振動が原因でした。摩耗の少ない材質の違うものが会社に置いてあった。夜中、山崎進一さん(トヨタ2000GTのシャシー担当)が外山工場にすでに用意していたのを知っていましたから、すぐ谷田部に運びました。」

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