ともに長い間作り続けられ、多くのファンを育てたフォルクスワーゲン(VW)「ビートル」と「ミニ」。この2台には、厳しい時代に発売され、人々の生活を支えたという共通点がある。コロナ禍に見舞われた今だからこそ、危機下のドイツと英国で誕生した2台の偉大な大衆車を振り返ってみたい。まずはビートルの物語だ。

  • フォルクスワーゲン「ビートル」

    危機下で生まれた大衆車「ビートル」の歴史を振り返ってみたい

ポルシェが作った大衆車は数奇な運命をたどった

多くの人が知っていると思うが、ビートルを設計したのはフェルディナント・ポルシェである。ポルシェはその後、自らの名を冠したスポーツカーのブランドを構築したことでも有名だが、第1号車であるポルシェ「356」はビートルをベースとしたクルマだった。

  • フェルディナンド・ポルシェ

    「ビートル」を設計したフェルディナンド・ポルシェ

幼い頃から機械に興味を持っていた彼は、オーストリア・ハンガリー帝国工科学校を卒業後、同国のローナーやドイツのダイムラーなどで自動車の設計に従事した。このうちダイムラーでは、最高出力250ps、最高速度200km/h近くという当時としては超高性能なスポーツカー、メルセデス・ベンツ「SSK」などを生み出した。

しかし、ポルシェは同時に、多くの人々が安全快適に移動できる、経済的かつ実用的な小型大衆車の開発も目指していた。ここまで在籍してきた自動車会社では、このプロジェクトの実現は難しいと考えたポルシェは1930年、ドイツのシュツットガルトに自らの設計事務所を構えると、大衆車の開発に没頭することになる。

初期の作品のひとつが、マイクロカーのツェンダップ「ヤヌス」を紹介した記事でも触れた「タイプ12」だった。ポルシェは続いて、ツェンダップと同じ2輪車メーカーのNSUからの依頼に応じて「タイプ32」も設計した。

タイプ32では、タイプ12で採用したバックボーンフレームやリアエンジンという内容に加え、エンジンは空冷水平対向4気筒、サスペンションはトーションバー(ねじり棒)スプリングを用いた4輪独立懸架とした。ビートルの原型は、この時点で出来上がっていたのだ。

ツェンダップもNSUも、まもなく本業の2輪車の人気が上向いたため、自動車への参入を中断してしまう。そこに登場したのが、1933年にドイツの政権を取ったアドルフ・ヒトラーだった。ポルシェは早速、大衆車の構想をまとめて政府に提出する。ヒトラーは共感し、生産に向けて援助を行っていくことを決めた。ポルシェは早速、プロトタイプの製作に取り掛かり、国は工場の建設を進めた。

このクルマの販売方法は一般的なものではなかった。ヒトラー政権の組織で積み立てを行い、満額になると車両が手に入る方式が取られたのだ。車名は政権が作った余暇を提供する組織「KdF」(歓喜力行団)から取って「KdFワーゲン」(ワーゲンは自動車という意味のドイツ語)と付けられた。

ところが、量産が始まろうというときになってドイツはポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が始まった。KdFワーゲンは軍用車に姿を変え、戦場に送り出された。そして、1945年の終戦を迎える。

敵国軍人が築いた成功への礎

敗戦国となったドイツでは、同じ境遇に置かれた日本同様、飛行機などは兵器と見なされて生産が禁止された。KdFワーゲンも生産禁止となる可能性があった。事実、設計者のポルシェは戦犯のひとりとして収監されてしまった。

ではなぜ、ビートルは販売できたのか。それは、工場の管理のために派遣されてきた英国軍のアイヴァン・ハースト少佐のおかげだった。彼はKdFワーゲンの優れた内容にいち早く気づき、連合軍への賠償として生産を命じたのだ。まもなくオランダやスウェーデンなどに輸出が始まり、この年だけで1,785台を作った。

  • フォルクスワーゲン「ビートル」

    「ビートル」の輸出風景

連合国向けの供給が十分になると、ハースト少佐はドイツ国内での販売を考え、サービスネットワークを整備し、エンジニアを養成していく。車名はドイツ語で「国民車」を示す「フォルクスワーゲン タイプ1」に変えた。

連合国側の占領期間が終わり、東西ドイツが独立した1949年、このクルマは米国に初上陸を果たした。合理的な設計を評価する知識人などを皮切りに少しずつ支持者を増やしていき、その過程で「ビートル」という愛称が生まれた。

一方で、同じ1949年にはオープンカーのカブリオレが登場し、翌年にはタイプ2のデリバリーバンが生まれた。さらに1955年には、後に日本のいすゞ「117クーペ」も手掛けたイタリアのカロッツェリア・ギアの流麗なデザインを、カブリオレのボディ製作も担当したカルマンが仕上げた「カルマンギア」が加わっている。

  • フォルクスワーゲン「ビートル」
  • フォルクスワーゲン「カルマンギア」
  • 左がオープンカーのカブリオレ、右がカルマンギア

この間、ビートルは2分割だったリアウインドーが一体になり、楕円形から長方形になるなどの改良を受け、エンジンの排気量は当初の1.1リッターから次第に拡大していった。しかし、それ以外の部分はほとんど変更なし。当初から高速道路を100km/hで巡航できるなど、ポルシェの設計が並外れて高度だったからだ。

  • フォルクスワーゲン「ビートル」

    もともとは2分割だった「ビートル」のリアウインドー

VWは西ドイツを代表する企業として戦後復興の立役者となり、ビートルは2,000万台以上という、4輪車の単一モデルとしては世界一の累計生産台数記録を打ち立てたのだった。

  • フォルクスワーゲン「ビートル」

    2,000万台を超える累計生産台数は4輪車の単一モデルとして世界一の記録だ

ヒトラーのドイツで軍用車として世に出たビートルは、敗戦の危機で存続そのものが危ぶまれたものの、その価値を見抜いた敵国軍人に救われるという数奇な運命をたどり、のちに世界的な人気車となった。危機の時代でも、本質的に価値あるクルマは生き残るということの好例と言えるだろう。

それでは、もう1台の偉大なる大衆車「ミニ」は、どんな歩みを経てきたクルマなのか。その歴史には中東戦争、そして石油危機が深くかかわっている。

著者情報:森口将之(モリグチ・マサユキ)

1962年東京都出身。早稲田大学教育学部を卒業後、出版社編集部を経て、1993年にフリーランス・ジャーナリストとして独立。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。グッドデザイン賞審査委員を務める。著書に『これから始まる自動運転 社会はどうなる!?』『MaaS入門 まちづくりのためのスマートモビリティ戦略』など。