ハロプロ黄金期を支えた男たちの、あの頃。「モー娘。で仕事を失うことも」劔樹人&吉田豪

2000年代初頭。誰もがハロー!プロジェクトの曲を知っていた、あの頃。中でも、ハロプロ──モーニング娘。を愛してやまないディープな“モーヲタ”が放っていた熱量はある種異様だった。当時のファンのリアルを知る吉田豪と、それを自伝的漫画『あの頃。男子かしまし物語』に落とし込んだ劔樹人(つるぎ・みきと)に、改めて“あの頃”の異様さを語ってもらった。(前後編の前編)
──劔さんと吉田さんは以前から面識があるようですが、『あの頃。』に描かれている2000年代前半、当時はどんな関係だったんですか?

吉田 ボクが大阪でイベントをやるとき、「恋愛研究会。」(※1)の人たちが手伝ってくれていたんですよ。呼ぶのも「恋愛研究会。」だし、PAとかを担当してくれたのも「恋愛研究会。」。それで打ち上げに行くと、いつもその場にいたのが劔くんでした。

劔 そうですね。だから豪さんは本に出てくる登場人物も全員知っているはずです。

吉田 あの時代のことが漫画になった時点でどうかしていると思ったけど、映画化とはね……。しかも劒くん役が松坂桃李さんという(笑)。

──劒さんが恋愛研究会。とつるむようになったのはどんな経緯で?

劔 僕がハロプロにハマったのは松浦亜弥さんがきっかけですが、少し遅めで2003年に入ってからなんですよ。その前も『ASAYAN』(※2)は観ていたから、もちろんモーニング娘。の存在は知っていましたけどね。好きになってからもしばらくは1人でヲタクをやっていたんですけど、会場かどこかで配られたフライヤーをきっかけに、のちに「恋愛研究会。」になる、「ハロプロあべの支部」という関西のモーヲタ(モーニング娘。ファン)組織と出会うんです。

吉田 当時の状況を整理すると、まず『BUBKA』が主導してモーヲタのシーンを作ろうとしていた。その中で、ビバ彦さんという人が「爆音娘。」というDJイベントを主催するようになった。これがかなり大規模なイベントに成長し、とんでもないレベルで集客できるようになったんです。もはや事務所無許可のイベントとは呼べないレベルでしたね。やがて爆音娘。は地方にも進出するようになり、おそらくその流れと連動するようにして、全国各地でモーヲタが組織化されていったんじゃないかと。

劔 そうですね。大阪でやった爆音娘。を取りまとめていたのが、『あの頃。』にも登場する友人(※3)でした。

吉田 当時、東京のモーヲタ論壇は「ビバ彦派」と「杉作J太郎(※4)派」の2つに大きく分かれていたんです。ざっくり言うと、ビバ彦さんの方が「過激派」、杉作さんの方が「穏健派」という感じ。

劔 それは本当にそう! もう思想が根本から違っていた(笑)。

吉田 ビバ彦さんというのは、プロレスでいうところの村松友視(※5)になりたかった人なんですよ。つまりプロレスというジャンルを踏み台にして有名になった村松さんのように、モーニング娘。を利用したかったわけですね。爆音娘。周辺が親ビバ彦派の筆頭になります。



──対して杉作派というのは?

吉田 純粋にメンバーを支えたいと考えている一派ですね。彼女たちの目の前に水溜まりがあったら、そこに敷かれる上着になりたいと主張していましたから(笑)。そういう、「成り上がりたい人たち」VS「尽くしたい人たち」で、対立構図になっていたんです。でも実際の話、コイタくんをはじめとして、爆音娘。周辺にいた人が成り上がった人がいたのも事実。でんぱ組.incのいるディアステージを創設したもふくちゃん(※6)も、モーヲタ界隈にいた人が今も仕事仲間として繋がっていると話していました。

劔 一方、杉作さんはのちに男の墓場プロダクション(※7)を作るわけです。でも、これだってモーヲタのみで構成されていましたからね。

吉田 ボクはどっち派でもなかったけど、だんだんビバ彦さんの周りからは人が離れていったんです。それはやっぱりお金の問題での不信感も大きかったのかな。逆に言うと、それくらい爆音娘。が儲かっていたわけなんでしょうけど……。

劔 正直、大阪に住む僕はそのへんの細かい事情がピンと来ていなかったですね。

吉田 でも大阪でやった爆音娘。には、ハロプロあべの支部の人たちも関わっていたわけでしょ?

劔 それはありました。僕の場合、最初にハロプロあべの支部のトークイベントをお客として観に行ったら、そのまま知り合い全員で爆音娘。の会場に移動することになったんです。

吉田 そのときのトークイベントは、どういう内容だったの?

劔 いや、普通にモーニング娘。のことをああだこうだと話しているだけ(笑)。東京ではロフトプラスワンとかでトークイベントを頻繁にやっていたから、そういう文化に対する憧れがあったんだと思います。

──どうしてトークイベントだったんですか?

劔 僕ら関西のハロプロあべの支部は、どちらかというと言論派だったんですよ。なので、ヲタ芸とかも特に打たずにトークライブやネットライブを主戦場にしていました。

──言ってしまえばインテリ系?

劔 まぁそういうことになるんでしょうかね(苦笑)。ただ一方で、関西にもヲタ芸をするような行動派も生息していたんです。「ヲタ芸四天王」と奉られている連中もいましたから。その四天王はすごく身体もできあがっていたし、確かに動きもキレがあって見事なんですよ。ヲタク系のDJイベントでも朝までぶっ通しで踊っていたから、とんでもない体力だなと感服しました。



──他に印象に残っているモーヲタはいますか?

劔 当時、僕も普通に『BUBKA』は読んでいたし、雑誌の中に出てくるごっしーさんとか好きでした。

吉田 ごっしーは今、ボクがやっている連載でカメラマンを担当してくれていますよ(笑)。もともとボクがライターとして世に出たきっかけは『マンガ地獄変』(水声社)と『悶絶!プロレス秘宝館』(シンコー・ミュージック)の2冊なんですけど、『マンガ地獄変』の編集をしたのがビバ彦さん。そして『悶プロ』編集がごっしーだったんですよね。そして結局、この2冊は両方ともスタッフがモーニング娘。に狂ったことで打ち止めになってしまった。『マンガ地獄変』に至ってはVol3まで順調に刊行されていて、ボクも含めライター陣はVol4の原稿も書かされたんです。それなのにビバ彦さんがモーニング娘。にハマって仕事をしなくなったせいで、お蔵入りしちゃったという……。

劔 ひどいなぁ(笑)。

吉田 本当にひどい話ですよ! ただ当時の編集者やライターは、モーニング娘。のせいで仕事を失うということがザラにあったんです。最近、杉作さんがしみじみ言っていましたよ。「当時は自分の結婚式があったとしても、モーニング娘。現場と重なっていたら娘。を取っていた」って。娘。がすべてに対して優先していた。あのときは、みんな完全に頭がおかしかったです(笑)。

──自分の周りの仕事仲間がモーニング娘。の魔力でダメになっていく様子を、当時の吉田さんはどうご覧になっていたんですか?

吉田 単純に面白かったですけどね。でも、ボクが口を酸っぱくして言っていたのは「モーニング娘。だけがアイドルではない」ということ。だからDJイベントでもハロプロをほとんどかけずにチェキッ娘(※8)とかを流していました。アイドルが好きと言っておきながらチェキッ娘すら聴かないなんておかしいですよ! って宇多丸さんにチェキッ娘のベスト盤を渡したりして。

──でも、当時のアイドルはハロプロの寡占状態でしたよね。Bon-Bon Blanco(※9)とかはありましたけど。

吉田 あぁ、ボンブラは爆音娘。界隈はみんなハマっていましたね。

劔 それで言うと、誰かが爆音娘。でPerfumeの『スウィートドーナッツ』(※10)をかけていたことを強烈に覚えているんですよ。

吉田 『スウィートドーナッツ』はボクもDJでかけたなあ。

>>後編に続く

(取材・文/小野田衛)
▽劔樹人(つるぎ・みきと)
1979年5月7日生まれ、新潟県出身。ベーシストであり漫画家。妻はエッセイストの犬山紙子。ハロヲタ夫妻として、ファンからも親しまれている。
Twitter:@tsurugimikito

▽吉田豪(よしだ・ごう)
1970年9月3日生まれ、東京都出身。プロ書評家、プロインタビュアー。タレント本やグッズの収集家としての一面もあり、「サブカル界のスーパースター」の異名もとる。
Twitter:@WORLDJAPAN
※1:大阪時代、劔が仲間内のモーヲタを集めて結成したバンド。
※2:『浅草橋ヤング洋品店』(テレビ東京系)からリニューアルしたバラエティ番組。モーニング娘。は同番組内の「シャ乱Q女性ロックヴォーカリストオーディション」の落選組で結成。
※3:味園クイズ研究会の会長で、関西のクイズ王として知られる西野ヒロシ氏のこと。大阪で開催される吉田のイベントでは、PAを務めることが多かった。
※4:漫画家、ライター、タレント、映画監督、ラジオDJなどマルチに活躍するサブカル界の重鎮。男の墓場プロダクション代表。
※5:作家、エッセイスト。編集者として活躍したが、『私、プロレスの味方です』(新風舎)で鮮烈デビュー。閉鎖的なプロレス村に新たな価値観を提示し、時代の寵児となる。1982年に『時代屋の女房』で直木賞を受賞。
※6:アイドルプロデューサー、実業家。でんぱ組.incのプロデューサーで、ライブ&バー「秋葉原ディアステージ」やアニソンDJバー「秋葉原MORGA」を運営していた。
※7:杉作J太郎が立ち上げた映画プロダクション。『任侠秘録 人間狩り』など挑戦作4本をこれまで世に送り出している。
※8:フジテレビが「平成のおニャン子クラブ」を目論んで1998年にプロジェクトを発足。結果的には短命に終わったが、楽曲のクオリティは当初から定評があった。
※9:ガールズラテンバンドとして2002年に結成。ファンキーでオリジナリティあふれる世界観でハロプロ寡占状態にあった女性アイドルシーンに風穴を開けた。
※10:2003年リリース。この作品を機に中田ヤスタカが楽曲プロデュースを務めることになる。作詞は木の子。