特別な逸品の「保存作業」│スポルマチックのポルシェ911Sを残すため

この記事は『スポルトマチック再発見│ロイヤルパープルの2.4 カレラ 911Sをレストア』の続きです。

ギアチェンジの操作は簡単だ。フィルに解説してもらおう。「通常の915ギアボックスのシフトレバーで1速の場所がP(パーキング)で、その下の2速の場所がリバースです。L(ロー)とD1は通常の3速と4速の位置にあります」

「(AT同様ブレーキを踏んだ状態で)走行ギアを選ぶと、駆動系から小さな振動を感じるはずです。これはクラッチがつながってトルクコンバーターに負荷がかかった合図です。ブレーキを離したら、もうクルマは発進できる状態です。スロットルペダルを踏めば、エンジンからのトルクが滑らかに伝わり、クルマが動き出します。ローを使うのは駐車場の中と坂道発進くらいです。かなりローギアードで、通常の1速と同じような感じでしょうか」

「普通の走行ではD1を選んでください。このギアが絶品なんです。クルマが特別なものに感じられます。D1だけで静止状態から80mph(約130km/h)近くまで走行できるうえ、911Sエンジンの胸を揺さぶる凶暴なまでのサウンドも聞くことができます。4000rpmを超えると最高ですよ。田舎道もひとつのギアで楽しめます。2.4リッターのエンジンはトルクが太いので、40~65mphでこの秀逸なマシンを充分堪能できます。D2は中間のギア比で、幹線道路をゆったり走るのに最適。D3( D2の真下にある)は高速道路に理想的なオーバードライブレシオです」
 


スポルトマチックの911は油温計がユニークだ。温度を示す目盛りが数字ではなく、色分けされたバーになっている。「気温が高いときにオイルも高温になる可能性があったので、この形にしたのではないかと思います。エンジンオイルをトルクコンバーターと共用するためです。オイルをコンバーターに送り込むポンプは左側のカムシャフトで駆動します。その周囲にはメカニカルインジェクションポンプの駆動装置もあって、過密状態ですよ」とフィルは説明する。
 
次はインテリアに目を向けよう。車内がほとんどオリジナルのままだと聞いても、もう意外ではない。おかげでドライビングがいっそう魅力的なものになる。「シートは当時のダブルロック式スポーツレカロ(超がつく稀少品で、カレラRSツーリングと同じもの)で、横方向のサポートが抜群です。ステアリングは380mmと大径で、握ると細く感じますが、現代のクルマには真似のできない繊細なバランスを味わい尽くすことができます」

「このクルマのステアリングは古艶が魅力的です。完全なオリジナルで未レストア、ステッチも完璧です。何年も日光を浴びて(そして使い込まれて)、レザーがちょうどいい具合に茶色味を帯びています。カーペットは少々くたびれた感じだったので交換することにしましたが、オリジナルのカーペットも付属品として取ってあります。フロアの防音材まで手付かずの状態で残っていますよ」
 
イギリス仕様の911にはサンルーフとパワーウィンドウのオプションパッケージがあった。また、オプションにはホイールアーチを飾る特徴的な光沢アルマイトのアルミニウム製トリムもあった。加えて、リアバンパーの下にのぞく"見苦しい" 排気管をマフラースカートと呼ばれるステンレススチール製パーツで隠し、光沢アルマイトのアルミニウム製シルトリムを装着すれば、ピカピカのフル装備が完成する。


 
フィルから詳細を聞くと、レストアというより"保存作業"といいたくなるほどだ。「オリジナルパーツを大切にする私たちのこだわりの代表例がホイールアーチトリムです。私たちは交換ではなくレストアを選びました。まずオリジナルからアルマイト皮膜を取り除き、磨いて、ファクトリーと同じ光沢アルマイト加工を施しました。こうしたパーツは極めて希少かつ壊れやすいので、それぞれ修復を行うワークショップに自分たちで持ち込みました。配送会社に頼むと、途中でなくなったり傷が付いたりする恐れがあるからです」

「オリジナルのサスペンションコンポーネントも正規の亜鉛めっきで仕上げ、必要に応じてパウダーコートを施しました。オリジナルのアルミニウム製フロントキャリパーは、世界有数のブレーキのレストアラーであるアメリカのエキスパートに託しました。オリジナルのグリーンがかったアルマイト皮膜を守るためです」

「エンジンフードのグリルとバッジの古艶も本当に気に入っています。アルミニウムパーツは黒いアルマイトでしたが、アルマイト皮膜が年月と共に日光で退色し、何ともいえないメタリックパープルを帯びているのです。これを再現するのはまず不可能でしょう」
 
フィルの言葉の端々に、クルマへの熱い思いが溢れている。オークションで新しいオーナーを見つけるより、手元に残ることを密かに望んでいるのではないかと思うほどだ。

「6J×15のフックス製フラットホイールにもオリジナルの仕上げが残っています。ホイールのレストアで失われてしまうことが多いですよ。磨き出し加工と、光沢と艶消しのアルマイト、ペイントの組み合わせです。正しい"花びら"は、スポークの表面は磨き出し加工のあと光沢アルマイトを施し、スポークの側面は艶消しのアルマイト、そしてウェルの部分はサテンブラックでペイントされています」



「ペイントと接するリムの側面も艶消しアルマイトで、最後にリムの縁は、スポーク表面とマッチした磨き出しの光沢アルマイトです。このクルマのホイールはレストアをしないことにしました。オリジナルのようですし、説明したようなディテールが残っている上に、古艶が加わっている。ほれぼれしますよ…」
 
このクルマを購入すれば、特別な逸品の所有者になれるのは間違いない。塗色がめずらしいだけでなく、イギリスに納車された右ハンドルの2.4リッター911Sは、今や十数台しか残っていないと考えられている(うちスポルトマチックは2台輸入された)。そして、右ハンドルの2.4"S"で今もスポルトマチックを搭載するのはこれ1台だけなのだ。その希少性を考えれば、貴重なコレクションとして空調完備のガレージにしまい込まれても仕方がない。今後も本来の目的通り使われることを祈ろう。
 
スポルトマチック搭載の911Sの走りには、かのヴィック・エルフォードも惚れ込んだ。エルフォードはハンス・ハーマンとヨッヘン・ニーアパッシュと組んで1967年のマラソン・デ・ラ・ルートに出走し、ニュルブルクリンクのフルコースを84時間にわたって全開で走り続けた。その結果、スポルトマチック車で優勝したのだ。感嘆したエルフォードは、日常使いにスポルトマチック" S"を選んだ。「実に素晴らしかったよ。疲労は少なく、信頼性は抜群。とにかく延々と走り続けるんだ!」
 
ヴァイザッハのプロダクションマネージャーだったヘルベルト・リンゲは、911はすべてスポルトマチックにして、マニュアルはオプションにすることを提案したという。幸いというべきか、リンゲの提案は実現しなかった。ところが今やマニュアルの911の将来は風前の灯だ。時代はすっかり様変わりした。ひょっとするとこのスポルトマチック911Sをオーダーした人物は、未来が見える水晶玉を持っていたのかもしれない。