ポルシェとシングルシーターマシン│インディーカーへのチャレンジの後には

ポルシェは、1950年代後半にF1やF2に挑戦するなど、シングルシーターのレース歴もスポーツカーレースと同様に長い。アメリカのレースにも関心は高く、1970年代にインディーカー・レースにちょっと手を出したことを皮切りに、1980年代にはCARTシリーズに目を向けた。アメリカ独自のオープンホイールレースをポルシェはどのように支配しようとしたのか、そして果たせなかった理由は何かを探る。

1970年代にインディカー・レースの世界に入り込めなかったことで大きな失望を味わったあと、なお、ポルシェは彼の地での雪辱を期していた。インディーカーでの耐え切れないほどのいやな思いとはアメリカ特有の制度であり組織であって、ヴァイザッハでは到底理解できないことであった。
 
ポルシェは依然としてシングルシーターの世界に入り込むことを目標にしており、インディーカー・チャレンジ後は、別のものに挑戦することにした。それはF1である。ポルシェがエンジン設計力に強みを持っていることは定評のあるところだが、F1エンジンを開発できる願ってもない局面が訪れたのだ。
 
TAG支援のもとで作ったターボチャージドV6は6年間、おおいにF1のフィールドを席巻した。しかし1989年シーズンに向けてのレギュレーション改訂が差し迫まると、TAGとマクラーレンはポルシェに見切りを付けることになる。
 
なぜマクラーレンはポルシェを見限ったのだろう? ポルシェは新しいレギュレーションに合致したエンジンを本当に開発できなかったのだろうか? 答えは簡単である。マクラーレンの新しいパートナー、ホンダがある条件さえ満たせば喜んでエンジンを提供しようと言ってきたからである。その条件とは、売り出し中の若手ドライバー、アイルトン・セナと契約することだった。
 
話はふたたび大西洋を越える。アメリカでポルシェのモータースポーツを統括するアル・ホルバートは、ポルシェ・オブ・アメリカの社長、ペーター・シュッツにインディーカー・レースに復帰するとしたら今が最適だと進言する。ドイツ生まれだがアメリカで出世したシュルツは、北米市場でフォーミュラカーレースが重要だとはあまり考えていなかった。だがホルバートの言葉を聞いて2人の意見はひとつになった。
 


次に決めなければならないのは、F1でのマクラーレンと同じようにポルシェは既存のチームにエンジンだけを供給するのか、それともすべて自前の車を作るのか、ということである。ホルバートの考えはこうだった。

「ポルシェはエンジンもシャシーも自製の車でインディーに挑戦すべきです。ポルシェの能力を誇示できる最高の技術チャレンジなんです。どんなレースでもそうですが、車とチームとドライバーがひとつになって初めてレースに勝利できるんです」と熱く語った。
 
インディーでは自らエンジンを造り、自ら製作したシャシーに載せて勝利した自動車メーカーはこの40年間ひとつもない。1940年にマセラティが果たしたことと同じことを、ポルシェは1980年代に実現したかったのである。
 
設立から20年余りの歴史の中で初めて自前のシングルシーターを製作するという試みには、タイプ2708のプロジェクトナンバーが与えられた。だが、それが終わりの始まりになろうとはそのとき誰も知る由がなかった。まず、CART自身が反応した。ポルシェはF1におけるマクラーレンとの共同作業を通して数多くのシャシーデザインを学び、1984年のCARTレギュレーションに合致するカーボンファイバー・モノコックを作る知識もあった。それを認識したCART は規制変更を実施し、モノコックはすべてアルミ製であることを規定に加えたのである。 

1985年中頃までに新しく製作するシャシーにどのエンジンを載せるかという点が設計のポイントになった。CARTで広く使われているコスワースDFXは750bhp強の出力、380 lb-ft(約52.5kgm)のトルクを有して競争力があり、ポルシェも最低限そのレベルが要求された。


次回へ続く