精神病を偽り20年生きてきた男の「誰も救われない悲劇」

残忍な殺人事件の余波を受け、米オレゴン州は精神医療制度の落ち度を突きつけられている。長文ルポで迫る問題の真相。

2017年1月9日の朝、アンソニー・モントウィーラーは元妻のアニタ・ハーモンをアイダホ州ワイザーの自宅付近で誘拐し、州境を越えて20マイル(約32キロ)先のオレゴン州に向かった。マルヒュア郡にある人口1万1000人の町オンタリオのシンクレア・ガソリンスタンドで、彼はディーゼル代40ドルと水2本分の代金を払い、良い1日を、と店員に言った。外はまだ暗く、身を切るような寒さで、道路は前の週に降った吹雪の残骸に覆われていた。警察の調書によれば、給油係のマイケル・マッキンタイヤがモントウィーラーのダッジ・ピックアップが満タンになるのを待っていると、車の中から声がした。助手席にいたハーモンが両手を掲げていた。手首はプラスチックの結束バンドでシートベルトに縛り付けられていた。「助けて!」と彼女は叫んだ。ちょうどそのとき、モントウィーラーが店の中から出てきた。「少々お待ちください」とマッキンタイヤは彼に告げた。「ちょっと中を見てきますんで」

ベトナム戦争帰りのマッキンタイヤは70代だったが、今も鍛えていた。彼は警察に通報するよう、店員に命じ――「トラックの中で女性が縛られている」――すぐさま外に戻った。当時49歳で身長およそ6フィート(約183センチ)、やや肥満気味のモントウィーラーは、特に悪びれた風もない。青いパーカーに黄褐色の野球帽をかぶり、片脚を開いたままのトラックの運転席のドアから投げ出して座っていた。メーターが40ドルを打つと、モントウィーラーは車を出そうとした。マッキンタイヤは、待て、もうすぐ警察が来る、と言った。モントウィーラーは一瞬相手をじっと見つめ、それから運転席の下を手探りした。マッキンタイヤによれば、モントウィーラーはかっと目を見開いて、Outdoor Angler社のフィレナイフをハーモンの首に突き立てた。マッキンタイヤは「女性が喉を切られた!」と叫んだ。

店のカウンターにドーナツの箱を置いたばかりの客が、救出のために外へ駆け出した。のちにこの客が警察に語ったところでは、トラックに着いたときにはハーモンの頸静脈の辺りが「ごっそり無くなっていた」。客とマッキンタイヤが止めようとしたが、モントウィーラーは左手で2人を遮り、右手でハーモンの胸部を繰り返し刺した。彼はダッジのドアを掴むとエンジンをかけ、ガソリンスタンドと道路を隔てていた雪だまりを突っ切って走り去った。

オンタリオの中心地、ラスティーズ・パンケーキ&ステーキハウス付近で、モントウィーラーのトラックが交差点を「法定速度で」通過するのをパトカーが発見した。警察が後を追うと、モントウィーラーは2車線の幹線道路に入り、時速90マイル(約145キロ)に加速して、雪に覆われたジャガイモ畑の間を疾走した。その頃5人の子供を持つデヴィッド・ベイツとジェシカ夫妻は、フォード・エクスカージョンで勤務先の聖アルフォンス医療センターへ向かっていた。デヴィッドは放射線科の責任者で、ジェシカは超音波技師だった。

写真5点:アンソニー・モントウィーラー、亡くなった元妻のアニタ・ハーモン、デヴィッド・ベイツ

いつもは夫婦別々の車で通勤するのだが、雪があったので「私が無事にたどり着けるよう、夫が車で送ると言ったんです」と、ジェシカは後にこう振り返った。モントウィーラーが車線を越えて、2人の方に飛び出してきたので、デヴィッドは右にハンドルを切ったが、雪だまりで路肩は塞がっていた。衝突でジェシカが最後に覚えているのは「コインホルダーがダッシュボードにぶつかる音。後は覚えていません」


剥がされる化けの皮

ジェシカは脳震盪を起こし、肋骨を3本と片手を骨折。さらに肺虚脱を負ったが、一命はとりとめた。だが、38歳のデヴィッドとアニタ・ハーモンは、事故現場で死亡が確認された。モントウィーラーは軽傷を負っただけで、すぐに拘束された。その夜ボイシの聖アルフォンス病院で、彼は1度だけ身を起こしてコップ1杯の氷を頼み、時たま痛みを訴えた。看護師には、転倒したので入院したんだと言った。看護婦が衝突事故について触れると、モントウィーラーは「そんなの嘘だ。やめてくれ。俺がここにいるのは転んだからだ」

最終的に警察は、彼のダッジからゴム手袋の空き箱と高強度の結束バンド、ガムテープ1巻、ロープ100フィート(約30メートル)分、小型双眼鏡を発見。運転席の床には黒いナイロン製のナイフの鞘、そして助手席の隣には血まみれのナイフが落ちていた。捜査官が取り寄せたモントウィーラーの犯罪歴は実に長々としたもので、窃盗と詐欺未遂が何度も繰り返されていたが、暴力事件はたった1件だった。

さかのぼること20年前の1996年、モントウィーラーは前妻と息子に銃を突きつけ、誘拐した罪で起訴された。判決は触法精神異常。つまり刑務所への収監は免れるものの、最長刑期と同じだけ州裁判所の監督下に置かれる、というものだった。彼の場合、最長刑期は70年。「あれから20年経ちました」と、モントウィーラーの事件について詳しく取り上げたマルヒュア・エンタープライズ紙のレス・ゼイツは言う。「ここで疑問が浮かびます。『そもそも彼はマルヒュア郡で、野放し状態で何をしていたのか?』」

アニタ・ハーモンとデヴィッド・ベイツが亡くなる1カ月前、アンソニー・モントウィーラーの精神状態を判断する公聴会が行なわれた。当時、彼はオレゴン州立病院の患者だった。セーレムの北東、刑務所を併設した敷地面積425エーカー(約172万平方メートル)の精神病院だ。法廷を思わせる木製パネルで仕切られた狭いスペースに弁護人と並んで着席し、州の審査会に向かって、心神喪失の抗弁は最初から嘘だったと語った。

彼は1997年に行われた誘拐事件の公判で、自分が犯行に及んだのは幼い頃父親に射殺された母親の声に導かれたからだ、と供述していた。それが今になって、『精神障害の診断と統計マニュアル』を調べ、行動的特徴を真似した、と主張したのだ。死んだ母親の声が聞こえた、という供述に関しても「イカれているように見せかけるために全部でっち上げました。何も聞こえちゃいなかった……道は2つ、刑務所行きか(心神喪失の抗弁で)病院送りか。それには、ただ狂人のように振る舞えばいい。俺はそっちの道を選びました」。 彼はさらにこう付け加えた。「ずっと制度を利用してきました。でも、もう終わりにします」


触法精神異常の穴

オレゴン州では一般的に、心神喪失で無罪になると州立病院で監察を受け、その後保護観察付きで社会への復帰が認められる。モントウィーラーは過去20年間、大半を病院ではなく、州が支援する住宅施設で過ごしていた。そこでは定期的な治療とケースワーカーの訪問も受けられた。彼は双極性障害と診断されていたが、新たな暴力的症状が発現することはなかった。医師とケースワーカーも彼の精神疾患はきちんと管理抑制されている、と記録した。州立病院に連れ戻されたのは加重窃盗――精神病の症状ではない――で逮捕されたときのことだった。2014年4月、彼は収容されるや否や、自分の居場所はここじゃない、と言い出した。担当の医師とソーシャルワーカーに「俺は精神病など患っちゃいない」と言った。

彼は完全釈放を要求した。オレゴン州では、たとえ刑事事件であっても、精神病患者が州の監督下に置かれるのは2つの条件を満たした場合に限定される:犯罪者がこの先も双極性障害や統合失調症といった重度の精神疾患を有すること、かつ公共への危険となりうること。公聴会に先立って、司法心理学者はモントウィーラーの暴力性を判断するためにリスク評価を行ない、監視されない状態では「彼が暴力的になる危険は高く、パートナーまたは家族に襲いかかることはほぼ間違いない」と結論づけた。だが、州立病院でモントウィーラーを担当した精神科のムケシュ・ミッタル医師は、過去20年の医療記録――その量なんと700ページ以上――を見る限り、精神疾患の兆候を示すものは何もないと証言した。また、モントウィーラーは州立病院で1年以上も薬を投与されていなかったが――一般的には、双極性障害の患者には危険な処置だ――精神病の症状は全く現れなかったとも言った。「事実は事実です」とミッタル。「私の結論は、長年数々の医師が診てきた記録に基づくものです。この間、彼には診断内容に合致する症状は一切見られませんでした」


2018年5月、オレゴン州ベールのマルヒュア郡巡回裁判所から、車椅子で退廷するアンソニー・モントウィーラー(Photo by Pat Caldwell/Malheur Enterprise)

公聴会は2時間以上に及んだが、モントウィーラー本人の証言はたったの8分半だった。州の職員が、眠れなくて困ったことはあるかと質問すると、モントウィーラーは「いいえ、夜はいつもぐっすり眠れます」と言った。気分が滅入ったり、生きていても意味がないと感じたことは? 「俺は常に満たされています」とモントウィーラー。「ようするに、気分が滅入ったことは一度もありません」。さらに職員が突っ込んで、朝ベッドから出るのが億劫だったり、活動するのが面倒になったことは一度もないか、と訊くと、「ありません」と答えた。「いつもちゃんと出勤します。無欠勤です」

少し休憩を挟んだ後、審査会はモントウィーラーには「該当する精神疾患または精神障害が見られない」と判断した。つまり、州は法律に法って、彼の釈放を認めなくてはならないのだ。州立病院から退院した犯罪者は、たとえモントウィーラーのように刑期を完了していなくても、刑務所に逆戻りされることはない。一切監視されることなく自由の身になる代わりに、それまで保証されていた州の精神医療ケアは受けられなくなる。


曖昧な精神疾患の定義

審査会の会長で、ポートランドを拠点に活動する弁護士のケイト・リーバーは、明らかに遺憾だった。「どこからお話しすればいいか、さっぱりわかりませんね」と言って彼女は、モントウィーラーが20年間も嘘をつき通した一方で、刑務所行きを免れ、家賃を払う必要もなく、訓練を受けた医療従事者から手厚いケアを受けてきた点を指摘した。「あらゆる点で問題が残ります」とリーバー氏。「恐らく法医的な観点で見れば、状況が理解できるかもしれませんが。とりあえず今回は釈放を認めます」。モントウィーラーが退室する直前、彼女はこう付け加えた。「どうか正しい行いをしてください。あなたが間違ったことをするのではないかと、本当に心配でなりませんが」

心神喪失の抗弁の基準は、拍子抜けするほど単純だ。精神疾患により被告に善悪の区別がつけられない場合、または法に基づく行動が取れない場合がこれに当たる。だが実際は、心神喪失の抗弁には無数の問題が付きまとう。一番は心神喪失の定義だ。法廷では絶対的な正確性――被告が精神疾患を患っているか否か――と、個々の犯罪行為が精神疾患によるという判断が求められる。だが精神疾患の患者には、複数の疾患の兆候が見られることがあり、時に症状は多岐に渡る。その一方で、反社会性パーソナリティ障害や薬物乱用など別の問題を抱えていることもある。「これまでわかっていることは、我々が司法制度で下さなければならない判断よりも、こちらの方がずっと曖昧だということです」と言うのは、カリフォルニア大学バークレー校で心理学を教えるジェニファー・スキーム教授だ。「ですがお役所は、悪人は刑務所に入れて司法制度の下に置き、狂人は、他に言い表現が思いつかないのでこう言いますが、精神病棟に入れて医療サービスを受けさせる、という風に選別ができると考えがちです」

凶暴行為はどれも、ある程度までは、狂気の沙汰のように映る。だが法律上は、精神疾患といわゆる「サイコ」に見られる行動パターンははっきり線引きされている。反社会性パーソナリティ障害、またはサイコパスの場合、他人への共感の欠如や損得勘定で動く傾向、感情の起伏の激しさなど、専門家が犯罪思考と呼ぶ特徴が見られるが、心神喪失の抗弁の条件には適合しない。「心神喪失の定義が変更されて、他の診断まで認められてしまうことは絶対に避けたいのです」と、オレゴン州のとある精神医療関係者が語ってくれた。人格障害が除外されるのは「こういう人々――刑務所はこういう人たちのためのものだからです」

心神喪失による無罪は、しばしば世間から疑問の目で見られる――暴力犯罪の逃げ口上、あるいはある種のお情け――そのため、これを廃止しようとする州も多い。1970年代には10近い州が、触法精神疾患という新たな判定基準を採用。犯罪者は刑務所に送られた。1979年にはモンタナ州が心神喪失の抗弁を完全に廃止し、やがてアイダホ州、ユタ州、カンザス州もこれに続いた。ハーモンが住んでいたアイダホ州でモントウィーラーが犯行に及んでいれば、アイダホ州では1982年に心神喪失抗弁が廃止されているため、法的には彼の精神状態は問題視されなかっただろう。最高裁判所は現在、心神喪失の抗弁を禁止する州法への異議申し立てを検討している。「これは非常に深い問題です」。司法が精神状態に基づいて判決を下すべきか、という問題に関する口頭弁論で、最高裁判所のスティーヴン・ブライヤー判事は述べた。「正確な基準を定めるのは、まるで悪夢でしょうね」


精神疾患患者へのケアの違い

現在、心神喪失の抗弁が行なわれるケースは刑事裁判全体の1%未満。仮に抗弁が行なわれても、成功する確率は1/4だ。だが心神喪失の抗弁を巡る議論では、刑事司法制度における精神疾患のさらに深刻な問題にはあまり目が向けられない。直近の推計によると、受刑囚の37%、留置所に勾留された者の44%が、精神障害があると医師から告げられたことが一度はあるそうだ。と同時に、重度の精神疾患を抱える20万人の元犯罪者がアメリカ各地で暮らしている――そのうち77%前後は、ほとんどが凶悪事件で5年以内に再逮捕されると見られている。

国の精神医療システムが、いわば身動きの取れない状態に置かれているという問題もある。1963年、全米の精神病棟の多くが非人道的状態だという暴露記事が立て続けに報道されたのを受け、ジョン・F・ケネディ大統領は外来治療を優先する医療制度改革を約束した。「拘禁隔離という冷酷な慈悲への依存は、地域社会による温かい気遣いと寛容さに取って代えられます」と、議会への特別演説で大統領は述べた。 精神疾患の患者は法律で手厚く保護されることが認められ、数百万棟の老朽化した精神病棟が閉鎖された。1955年から1980年にかけて、州立精神病棟の患者数は55万9000人から15万4000人に減少――現在は4万3000人未満だ。

ケネディ大統領のビジョンの後半――「地域社会による温かい気遣いと寛容さ」――が形になることはなかった。レーガン政権は、自治体の精神医療に対する連邦予算を削減し、国の障害認定のガイドラインを再解釈。公共住宅の予算も大幅にカットした。警察官が国の精神医療の最前線に立つことになった。大半の地域では、必要な治療を手っ取り早く受けるには、逮捕されるのが一番だ。

オレゴン州は、ささやかではあるものの、これとは異なる対策を試みた。1977年、のちにモントウィーラーを鑑定し、釈放を認めることになる組織、精神医学的保安審査会(PSRB)が設立された。刑務所の枠組みの外で運営される、心神喪失で無罪となった者を対象にした全米初の機関だった。PSRBの監視下に置かれた場合、ケースマネージャーの定期的な診察と薬物アルコール検査、州の支援住宅への入居、精神医療ケア、就職サポートが付いてくる。一般的に犯罪者は、量刑ガイドラインが認める最長刑期まで州の監督下に置かれるが、実際には、PSRBの犯罪者の半分以下、つまり600人前後が州立病院に収容されている。大半はオレゴンで生活し、各郡の指定された精神病センターで、1人当たり毎月1万8000ドル前後のサービスを受けている。PSRBのジュリエット・ブリトン元理事曰く、罪を犯していないオレゴン在住の精神疾患患者は、「これほど手厚い保護は受けられないでしょうね」


野放しにされた危険な男

PSRBの犯罪者――大半は、誘拐、強姦、殺人といった重罪で起訴された――は、一度州の監督下に置かれると、再び暴力行為に及ぶことはほとんどない。PSRBの推計では、条件付きで釈放された犯罪者の再犯率は0.5%前後。既決囚向け精神医療ケアの最新の格付けでも、オレゴン州は他わずか3州と並んで全米トップだった。

だが仮にオレゴン州のPSRBが得てして凄惨なアメリカの精神医療ケアの希望の光だったとしても、アンソニー・モントウィーラーの事件は、心神喪失による無罪に対する世間一般の不信感を改めて浮き彫りにした。7月に予定されている裁判でモントウィーラーは再度、精神疾患による犯行だと主張するだろう(モントウィーラーの弁護士は、この件に関してコメントを控えている)。モントウィーラーが何度も制度を悪用し、再び同じ手を使うかもしれないという懸念は、何故こんなことが起きたのか一貫した説明がないために、ますます高まるばかりだ。だが結局のところ問題は、刑事司法制度が「mad」と「bad」を区別できるのか、それぞれのグループに分けられた犯罪者にどう対処すべきかということだ。


アニタ・ハーモン(Courtesy of the Harmon Family)

マルヒュア・エンタープライズ紙はニューヨークに拠点を置く非営利報道媒体ProPublicaの後ろ盾を受け、PSRBが社会を危険に晒している実態についての特集シリーズを組んだ。「それが住民の率直な気持ちだと思いますよ」と、同紙の編集者兼オーナーのゼイツは弊誌の取材でこう語った。「州は地域住民のことなどどうでもいいんだ、とね。この男は何度も州を騙してきて、その代償を払うのは自分たちだ、と」。アニタ・ハーモンとデヴィッド・ベイツの遺族はオレゴン州とPSRBを相手に、同機関が職務を怠り、モントウィーラーを釈放した責任を問う訴訟を起こし、それぞれ375万ドルと50万ドルを請求している。一方PSRBは、モントウィーラーの最初の診断に責任があるとした。精神疾患を偽ったのはモントウィーラーであり、そもそも初めから自分たちの管轄に置かれるべきではなかった、というのが彼らの主張だ。心神喪失による無罪は裁判所の判断であり、従ってPSRBは誰を管理するかには一切関与していない、とブリトンも言う。彼女の見解では、モントウィーラーの最初の精神鑑定が間違っていたのであり、PSRBは法律に法って彼の釈放を認めなくてはならなかった。「だって、彼が偽装していたのははっきりしているじゃありませんか?」

リニー・ラヴァーン・ヘンドリックスがアンソニー・モントウィーラーを生んだのは1967年11月、21歳の頃だった。子供の父親は59歳のウェイン。家族の1人は、ウィスコンシン出身のレンガ職人だったウェインを「大のほら吹き――イカサマ師」と表現した。情緒不安定で、暴力を振るうこともよくあった。あるときは斧を自宅の家具に突き立て、家中に絵具をまき散らした。また別のときには女性の服を着て、妻が勤める美容室の窓を覗いているところを目撃された。1974年、結婚して7年も経たない頃、リニーは家を出ようと計画した。ウェインはオレゴン州ベンドにあるレストランの駐車場で彼女を問い詰め、22口径の拳銃で彼女の胸に1発発砲した。モントウィーラーの従兄弟ジム・ヒルダーブランド曰く、警察が到着する前にウェインは「レストランの中に戻り、10分置きに外に出ては、彼女が死んでいるかを確認していました」


見え隠れする凶暴性の予兆

アンソニー・モントウィーラーは当時6歳。父親は故殺で起訴され、刑務所に収監。その後州立精神病院に収容され、1983年に心臓発作で死亡したようだ。モントウィーラーと弟のモンティは、リニーの姉テレサと夫のジミー・レイ・ヒルダーブランド氏の家に預けられた。夫妻にも3人の子供がおり、オレゴン州ヘルズキャニオン沿いの人口300人の町ハーフウェイで酪農場を営んでいた。高校時代のモントウィーラーの愛称はトニー。スポーツ万能で、釣りと狩りが好きだった。彼は「工作と溶接が得意でした」と、従弟のジム・ヒルダーブランド。ハーフウェイの雪祭りでバート・シンプソンの氷の彫刻を作って賞を取ったこともあった。と同時に、「いつも頭のネジが緩んでいました」

誰かがヒルダーブラント家の母屋から納屋へ歩く度、隣の家の犬が必ず吠え立てた。ある晩モントウィーラーが「もう犬のことは心配しなくていいからね」と言った。トラックで犬を轢き殺したという。ジミー・レイが犬の死体を埋めるよう命じると、モントウィーラーは掘削機を引っ張り出してきて、地面を一掻きした。「彼は犬をその穴に押し込んだんです」とヒンダーブランド。「もっと広げて、十分な大きさの穴を掘って、きちんと埋葬してやることもできたのに。でも彼はそうしなかったんです」

高校卒業後、モントウィーラーは海兵隊に入隊。3年間グアムに駐屯し、憲兵の一員として、貯蔵されていた核兵器の警備に当たった。2つの善行章を授与され、1年間交際していたグアムの女性と短い結婚生活を送った。だが、本人曰くその後何年も付き纏うことになる死も経験した。巡回中に、海兵隊仲間の親友マイケルが地雷を踏んで命を落としたのだ。

モントウィーラーは1989年に除隊し、カリフォルニアのオーシャンサイドに移り住んだ。そこで彼は23歳のローザ・カラスコと出会う。カールをかけた髪に、深いブラウンの瞳。顎に小さなえくぼがあった。サンディエゴに住んでいた彼女の継父が、モントウィーラーの叔母テレサの兄弟だった。カラスコの話では、モントウィーラーはハンサムで、魅力的で、見るからにアウトドア系の男で、働き者だった。酒もドラッグもやらず、母親の事件のことはめったに口にしなかった。「たぶん、お母さんの誕生日かクリスマスの頃だったかしら、『ああ、母さんがここにいてくれたら』と一言こぼしていましたが、それっきりでした」。 2人は結婚し、オレゴン州に引っ越した。モントウィーラーは刑務官になったが、囚人に宛てた手紙からヌード写真を盗んだ疑いをかけられ、辞職した。2人はすぐにカリフォルニアに戻り、モントウィーラーはカラスコの父が経営する道路清掃の仕事に就いた。


最初の暴力事件

息子のエミリオが生まれてから、モントウィーラーは徐々に内向的になった。夜中に何時間も姿を消したり、無断欠勤するようになった。「彼は大して寝ていませんでした」とカラスコは言う。「しばらくの間は何か企んでるのではと思いました。だって、ずっと起きてるんですもの。でもドラッグをやるようなタイプじゃないし」。やがてモントウィーラーは妻子を残してオレゴン州に戻り、トラックの運転手をした。1996年3月、2人はオーシャンサイドの駐車場で落ち合い、離婚について話し合った。カラスコは家族に「もし数時間で私が戻らなかったら、何かあったと思って」と言った。

彼女が3歳のエミリオと一緒にモントウィーラーのダッジに乗り込むと、モントウィーラーはいきなり高速道路に入った。「計画変更だ」と彼は言った。「一緒に過ごす時間が必要なんじゃないかな」。 彼は15時間運転し、弟のモンティが住んでいるオレゴン州北東のベーカーシティへ向かった。それから2カ月、3人は貸しトレーラーで生活したが、その間モントウィーラーは狂気の淵へ落ちて行ったようだった。カラスコは妻を殺した男が罰を逃れた事件の新聞の切り抜きをいくつも見つけた。彼はよく夜明け前にカラスコとエミリオを連れて、近くの公衆電話に行った。そのうち少なくとも1回は、7年前に死んだはずの海兵隊仲間マイケルが電話口にいると本気で信じていたようだった。また、初めて暴力的な一面を見せた。ある日口論になったとき、彼はトラックの後部座席に保管していた22口径のライフルをカラスコに突きつけた。また別のときには「私を押さえつけて、首を絞め始めました」

最終的にカラスコは、兄のハビエルと一緒に脱出計画を練った。サンディエゴから兄が迎えに来て、エミリオと一緒にモンティの家から連れ出す予定だった。計画にはなかったが、モントウィーラーの弟が事態を収集してくれるだろうと望みをかけていた。だが全ては予想を大きく裏切った。母子が家にいることを確かめようとハビエルが電話した後、モントウィーラーは疑念を抱き始めた。彼は妻と息子を助手席に乗せ、車を走らせた。高速道路を走っていると突然車を停め、なんとか考えをまとめようとしてた。「ずっと独り言を言っていました」とカラスコは当時を振り返る。「奇妙なことをずっと言ってました。それで私は隙を見て、車から飛び降りたんです」。 彼女は路肩で助けを求めて叫んだ。モントウィーラーはエミリオの頭に22口径のライフルを突きつけ、カラスコにトラックの中に戻れと命じた。2人はシートベルトに手首を縛られた。「俺を捨てる気なら」と彼は言った。「俺は輝かしい栄光に包まれるぞ」


言葉巧みなモントウィーラー

モントウィーラーはモンティの家へ向かった。停車すると、ハビエルが家の前に立っていた。芝生の上で取っ組み合いが始まり、モンティが兄をなだめに入った。トラックの中ではカラスコがシートベルトと格闘していた。エミリオの方を向くと、息子は父親に何をされるのかが怖くて、縛られた箇所をぎゅっと握っていた。「パニックになりました」とカラスコ。「すぐに決断しなくてはならなかった。息子を車内に置いていくしかなかったんです」。辺りは大混乱だった。モントウィーラーはハビエルの車にトラックを突っ込んだ。ハビエルはカラスコと一緒に逃げようと、隣の家のフェンスを突っ切った。ついにモントウィーラーはライフルと息子を掴むと、家の中に駆け込んだ。警察が庭に集まる中、彼は威嚇として何度か発砲し、トラックに火をつけた。保安官代理と従兄弟のジム・ヒルダーブランド氏も駆け付け、説得に加わった。10時間後、モントウィーラーは投降した。「エミリオはお漏らしをしていました」とヒルダーブランドは振り返る。「トニーは完全にイカれてました。宙を見つめて『息子を取り上げるな、息子を取り上げないでくれ』と言っていました」


2017年1月9日、アンソニー・モントウィーラーのダッジと、ベイツ夫妻の車が衝突した事故現場に駆け付けた警察(Photo by Oregon State Police)

裁判の後、29歳になっていたモントウィーラーは州立病院に収容された。『カッコーの巣の上で』の撮影現場に使われたコンクリートとタイルの内装は、すっかり荒れ果てていた。カビとネズミだらけで、1世紀近く放ったらかしにされた倉庫のような状態だった。地下室の壁の棚にずらりと並んだ5000個もの銅の骨壺には、誰のものともわからない遺骨が納められていた。医療記録によると、モントウィーラーは「幻聴に悩まされ、入院初期には妄想も見られた」そうだが、最終的には落ち着いたようだ。他の患者相手に高い利子で金を貸したり、ポルノを収めたCD-ROMを販売したりした。ある心理学者は「彼があの手この手でこっそり金儲けをしようとするのに、スタッフはいつも目を光らせていなくてはならなかった」と書いている。収容2年目には、病院内で暴動も起こしている。

2002年10月、収容から5年以上が経過した頃、PSRBはモントウィーラーの希望通り、条件付き保釈を認めた。「彼は人に好かれるタイプでした」と言うのは、オンタリオのバージェス成人看護ホームを運営するメアリー・リー・バージェス。モントウィーラーが退院後、最初に居を構えたのもここだ。「でも彼は人を操って、良からぬことをする傾向がありました」。少なくとも3件の住居火災を起こし、そのうち1件は自宅のアパートで、2万4000ドルの保険金が支払われた。もう1件は友人のキャピングカーで、「建造物等以外放火罪」の前科が付いた。


人を操る言葉

PSRBはいつでも条件付き保釈を撤回し、州立病院に引き渡すことができる。モントウィーラーの場合、1回目の撤回は2003年、オークションで購入したトラックの代金を踏み倒したときだ。警察の調書によれば、トラックには盗難ナンバープレートが装着されていた。それから1カ月も経たないうちに再び条件付き保釈の身となった。こうした判断は主に、モントウィーラーの担当ケースワーカーだったアリソン・ミルズの提言書に基づいて行われた。彼女はマルヒュア郡で精神医療サービスを請け負っていた非営利団体Lifewaysの職員だった。彼女は提言書に、モントウィーラーは州立病院で過ごした1カ月間で「行動を慎むべきだと思い知ったはずです。自由と敬意を奪われるのはあまりにも大きな代償ですから」と書いている。

ミルズとモントウィーラーは9年間、ほぼ毎週のように顔を合わせた。医療記録によると、彼女は心から彼を気遣っていたようで、しばしば彼の肩を持った。彼は「明朗で有能」だと、報告書にも書いている。「彼は問題解決が上手で、コミュニケーションにも長けています。勤勉で、目的意識もあります」。2005年、モントウィーラーは製材所から3000ドル相当の鉄屑を盗んだ罪で90日間拘留された。すぐにミルズはモントウィーラーに犯した罪について問い質した。彼は彼女に「他の連中みたいに『薬を飲んで、寝て、TVを見る』だけの生活をすれば、面倒は避けられるさ、と言いました」と彼女は記している(ミルズはこの件に関してコメントを控えた)。

Lifewaysの患者の1人ロベルタ・チャンドラーは、2003年にモントウィーラーと交際を始めた。彼がオンタリオに引っ越してすぐのことだった。「彼にぞっこんだったの」と彼女は言う。「彼は女王様みたいに扱ってくれる。誰にでも欲しいものを与えてくれるの。かと思うと、悪いトニーが出てくるの」。チャンドラーによれば、彼女のアパートで火事が起きたとき、トニーは彼女の飼っていた犬がハロゲンランプを倒したせいにした。保険申請書には「実際にあった家具よりも、余分に書き足しておけ、と言われました」と彼女。「保険会社が怪しんだので、結局一銭ももらえませんでした」

その後ミルズはモントウィーラーが放火魔かどうか、臨床心理士に鑑定を依頼した。予約時間に現れたモントウィーラーはTシャツにジーンズ姿で、顎髭を「綺麗に整え」、髪を短く刈り込んでいた。心理士によると、モントウィーラーは「放火については何の問題も示さなかったが、火事に繋がる行動についての判断力が欠けていた」という。「トニーは自分が欲しいものを手に入れるためなら、誰彼構わず利用して操っていたのよ」とチャンドラーも言っている。


アニタ・ハーモンという女性

2005年、モントウィーラーはトレジャーヴァレー・コミュニティ・カレッジの溶接教室で、ケイティ・ギルと出会う。のちに彼の3番目の妻となる女性だ。2人の間には2人の子供が生まれた。ギルは両親と同居していたが、モントウィーラーはオンタリオの成人精神病患者向けの支援施設に住んでいた。2009年春、PSRBの監視下に入って10年以上が経過した頃、モントウィーラーは完全釈放を請求した。「私は構いません」とミルズは書いている。審査会に宛てた書簡の中で、彼女はこう報告している。「私の見解では、アンソニーは精神疾患を抱えてはいますが、症状はきちんと管理されています。もし将来トラブルに巻き込まれたとしても、精神疾患によるものではなく、反社会的(犯罪)特性によるものでしょう」

だが、モントウィーラーの請求は却下された。1年も経たないうちに、彼はギルと離婚。そしてまた婚約した。次の婚約相手だったアニタ・ハーモンとは、彼女が店員として働いていたWalmartで会計の列に並んでいるときに出会った。ハーモンは家族に、モントウィーラーは理想の男性だと語った。

バドとスーザン・ハーモン夫婦は、アイダホ州のワイザーにあるクリーム色の大きな家に住んでいる。家の前の道はスネーク川が大きく曲がるところから延びていて、周りには古い農場とプラスチックの外壁を施した新しい家が混在していた。2018年1月に取材で訪れたとき、広々とした円柱に支えられたポーチで、ジーンズに花柄のブラウス姿のスーザンが迎えてくれた。居間は埃ひとつなく、小さな天使の置物が陳列棚に飾ってあった。小さなソファの隅には、祈りの言葉が刺繍されたクッションが置かれていた。癒しを湛えた眼でスーザンはグリーンのリクライニングチェアに座り、寛いでいますか、と何度も声をかけた。娘のことを話す機会なんてあまりないんですよ、と言った。「みんな私たちに話しかけるのを躊躇っているんです」と彼女は言った。「思い出させないように」

双極性障害を患っていたアニタは、父親が敷地内に建てた1800平方フィート(約167平米)の家具付きアパートで暮らしていた。前夫との間に2人の子供がいて、動物が大好きだった。子供の頃は乗馬をしていて、大きくなってからはしょっちゅう捨て猫を拾ってくるのが母親の悩みの種だった。アニタの症状がひどくなると、アパートは散らかし放題だった。シンクには皿が山積みになり、ゴミは溜まり、猫用のトイレは満杯だった。「2階からよく泣いている声が聞こえてきました」とスーザン。「鬱のときは本当に大変でした。 だが亡くなるまでの数カ月間は、新しい薬に変えたことで昔のアニタが戻ってきたみたいでした」。感謝祭には料理や皿洗いを手伝い、クリスマスにはクッキーを焼いた。「彼女はいつも思いやり深い子でした」とスーザンは言う。事件の前の夜のことを、スーザンは涙を浮かべながら語ってくれた。「私、すごくうれしかったんです。やっと一段落して、愛してるよって言えるようになったんですから。娘を見たのはそれが最後です」


重なる偶然

ハーモンとモントウィーラーは2010年12月7日に結婚した。「真珠湾攻撃の日ですね」と、スーザンは苦々しく言った。モントウィーラーはまだオンタリオの支援住宅に住んでいたが、週末はワイザーでギルとの間に儲けた2人の子供も一緒に過ごすこともしばしばだった。「トニーは寝室に入るなり引きこもってしまうので、子供たちはアニタに任せきりでした」とスーザン。「足音や叫び声、罵声が聞こえてきました」

アニタがモントウィーラーに耐えられたのは、彼女の精神疾患のせいもあるとスーザンは考えている。「双極性障害の人は、誰かに愛してもらいたいがゆえに行動することがあるんです」と彼女は教えてくれた。「トニーはまさにそれを与えてくれた。トニーは人を操るのがうまい人でしたから」

2011年初め、モントウィーラーとハーモンは一緒に屑鉄集めを始めたが、ジョンデイというひなびた地域に住む老夫婦から1万4000ドル相当の鉄材を盗んだとして、有罪判決を受けた。ハーモンは懲役16カ月、モントウィーラーは懲役2年を食らった(2016年、2人が刑期を終えた後、オレゴン州控訴裁判所は然るべき証人が証言を却下されていたことを理由に、2人の有罪判決を撤回した)。2012年9月、留置所でスネークリバー州立刑務所へ移送されるのを待っていたモントウィーラーは、保安官代理にメモを渡した。誘拐事件から16年間、恐らく精神的破綻を示す唯一の出来事だ。「夢なのか、幻覚なのか、幻聴なのかはわからないが」とモントウィーラーは書いている。「アニタと俺は交通事故に遭うと言われた」。彼は保安官代理に「アニタが俺たちの身代わりに撥ねた死体のありか」を教えると約束した。さらに「アニタはわざとやったわけじゃない。あれは事故だったんだ」

刑務所で、彼は定期的にハーモンと連絡を取り合った。「彼は留置所にいる間、毎日娘に手紙を書いて愛を告白していました」とスーザン。2013年、ハーモンは眉を整え、髪をおさげにして刑務所から戻ってきた。彼女は、前科者の雇用に積極的なアイダホ州フルーツランドの玉ねぎ加工工場Dickinson Frozen Foodで職を得た。

モントウィーラーの刑期が終わりに近づく頃、PSRBのブリトンは個人的にいくつかの住居施設を回って彼のために空き室を探したが、全て断られた。そのうちのひとつが、オンタリオでLifewaysが運営するマクナリープレイスだった。そこのジョン・ベイツ主任医師は、ハーフウェイ時代のモントウィーラーの幼馴染だった――ベイツの父親が高校の校長で、ベイツとモントウィーラーは同じフットボールチームに所属していた。昔の関係を「一種即発状態だった」と言う彼は、モントウィーラーの入居を拒否した。代わりにモントウィーラーは、2014年4月には刑務所からオレゴン州立病院に移送される。なんという運命の悪戯だろう、ジョン・ベイツは一時的にモントウィーラーを遠ざけたに過ぎなかった。あの日フォード・エクスカージョンを運転し、モントウィーラーによって殺されたデヴィッド・ベイツは、ジョン・ベイツの弟だった。「もしマクナリーへの入居を私が認めていれば、彼はまだ監視下にあったのに。こんなことは起こらずに済んだのに」


デヴィッド・ベイツ(courtesy of the Bates Family)



事件の発端

2014年になる頃には、州立病院も4億5800万ドルを投じて改装工事を行い、アーチウェイズだとかハーバーズいう明るい名前の病棟をオープンした。食堂では見舞いに来た家族がケータリングの食事やピザパーティをすることもできた。それでも、モントウィーラーの幸先は暗澹たるものだった。地元精神医療センターが彼を受け入れてくれない以上、条件付き保釈を得る可能性はほぼゼロだった。PSRBの管理下にいる限り――あと50年――彼は州病院から出られない。モントウィーラーの目には、完全釈放の請求が唯一の逃げ道だと映ったのかもしれない。

釈放公聴会で、リーバーは彼に尋ねた。「今さらなぜですか? なぜ今頃になって、最初から嘘をついていたと言うのです?」 モントウィーラーは、「外に」いる間は仕事もできるし、「グループホームに住んで、家賃などを払わなくて済むから」だと認めた。PSRBの監視下にいれば、「特権がもらえる。ある意味、特別待遇してもらえるんです」と。

審査会が彼を完全釈放した後、2016年12月にモントウィーラーもDickinson Frozen Foods社で働くことになったが、ハーモンは腹を立てた。2人はしょっちゅう口喧嘩になった。彼の病院収容中に2人は離婚していたが、その後アニタが1700ドルの電話料金と借金の返済、複数のアマゾンの注文をモントウィーラーのデビットカードで支払っていた――その一部は、彼の承諾を得ていなかった。警察の調書によれば、2人はDickinsonの工場内で喧嘩になり、モントウィーラーが「俺の手元にあるお前のいやらしい動画を公開してやる、とアニタを脅した」という。ハーモンは、モントウィーラーから殺されるかもしれないと人事部に訴えた。12月30日、2人はマクドナルドで落ち合った。「決していい話し合いとは言えませんでしたね」と、デビットカードの件を担当していたスコット・モズレー刑事も言っている。工場側が2人のシフトを分けると――ハーモンは日勤、モントウィーラーは夜勤――モントウィーラーは辞職した。

彼はアイダホ州エメットにある弟モンティの家で寝泊まりしていたが、新しい恋人ニコル・クリルの家に泊まることもあった。1月8日、彼はFacebookのステータスを「交際中」に変更し、友人に「ようやく人生を謳歌して幸せになれる」 と書いた。だが、クリスマスの頃に不眠症が始まった。「睡眠は、俺にとって危険信号のひとつなんだ」と、のちに彼は司法精神科医に語った。「ローザを誘拐した時もそうだった」

事件当日の午前4時頃、彼はクリルにモンティの家に行くと言った。午前5時30分頃、ハーモンの隣人の1人が、彼のトラックが脇道に停まっているのを目撃した。のちに警察は、ハーモンのくたびれたトヨタ・ハイラックスサーフが自宅から0.5マイル(約800メートル)先の道路に乗り捨てられているのを発見した。ヘッドライトは点けっぱなしで、キーも差したままだった。「奴は娘をここで襲ったんです」と、父親のバドは言う。「この後、奴に刺されるまで彼女がどんなに怖い思いをしたかと思うと――とてもじゃないが耐えられません」


再犯の理由、そして診断の正当性

警察に追われている間、モントウィーラーはクリルに電話をかけ、愛していると告げた。そして、ハーモンを傷つけたからもう会えないと言った。「彼が精神病院にいたことは知っていました」と、クリルは後日取材で語った。「でも、私も皆さんと同じように、狐につままれた気分です」

モントウィーラーの心神喪失の抗弁を認めたのは正しい判断だったのかどうか――1997年に声が聞こえると言ったのは嘘なのか、それとも後になって、声は聞こえていなかったと言ったのが嘘なのか――という問題は、7月の裁判に先駆けた予備審判で再び繰り返される。これまでのところ明確な答えは見つかっていない。彼が凶悪化するような精神疾患を患っていたなら、病院のスタッフや審査会はなぜこうもやすやすと騙されてしまったのか? もし病を患っていなかったのなら、なぜ彼は自由の身となった1カ月後に、大勢が見ている目の前で無意味な殺人を犯したのか?

PSRBに全責任を問う試みは、バツの悪い結果に終わった。マルヒュア・エンタープライズ紙はProPublicaと共に「病める制度:心神喪失後も繰り返される惨事」と題した特集シリーズを組み、PSRBが市民を危険に晒したと報じた。中でも注目すべきは、統計データを満載した記事だ。「心神喪失が認められた後、オレゴン州によって自由の身となった者は、州刑務所から釈放された刑事事件の犯罪者より、再犯に至る割合が高い」とある。だが1月、とある読者がマルヒュア・エンタープライズ紙の記事の「裏付けとなるデータと説明」を再検証するよう求めた後、ProPublicaはシリーズ特集の完全撤回に相当する文面を投稿した。PSRBから釈放を認められた人々が再犯を起こす割合について、記事では数字が大幅に水増しされていたことが判明したのだ――実際は、刑務所から出所した場合の方が再犯率はずっと高かった。入手可能なデータが少なかったことと、州の記録を読み違えたことがミスの原因だったと主張している。ゼイツ編集長はTwitterに「今回のような由々しき大失態は、全て私に全面的かつ直接的な責任があります。今回の不祥事は、本紙で来る日も来る日も取材に明け暮れる記者たちの熱意とは無関係です。今後このようなことがないよう、善処して参ります」と投稿した。

先月マルヒュア郡巡回裁判所は、オレゴン州とPSRBを相手取ったジェシカ・ベイツの訴えを棄却した。ベイツの弁護団は、モントウィーラーの釈放公聴会が適切に行われていなかったこと、審査会のメンバーが彼の精神状態を判断するのに十分な訓練を受けていなかったこと、そして釈放の決定が市民に予測可能な危険をもたらしたことを主張した。だが裁判資料によると、判事は「PSRB審査会の不正行為または不適正を示す証拠はない」とし、「PSRBの管轄下から釈放された際、モントウィーラーがベイツ夫妻と衝突事故を起こす可能性が予測できたとは言い難い」との裁定を下した。判事は最後に、PSRBの決定は「公聴会で提示された事実と法律上事案に基づいてなされた」と締めくくった(ハーモン家が起こした訴訟も、同様の理由で秋に棄却された)。


心神喪失は嘘か真か

一方、モントウィーラーが精神疾患を偽装したというPSRBの見解にも異論が持ち上がっている。事件から8カ月が経過した2017年9月上旬、オレゴン州立病院の司法鑑定部のオクタヴィオ・チョイ元部長は、施設の鑑定室のひとつでモントウィーラーと6時間に渡って面談した。数カ月前にモントウィーラーがマルヒュア郡留置所で自殺未遂を図ったためだ。実際の年齢よりも20歳は老けて見えたとチョイは言う。話し方、思考、動きは全体的に緩慢で、混乱しているらしく、しばしば前の話題に付け加えようとするものの、結局思考の糸が切れるという具合だった。チョイは、自分の鑑定は先の心理鑑定とは「ほぼ無関係」であり、当初の心神喪失の診断の正当性を評価するものではない、と念を押した。だがモントウィーラーは面会で、母親が死んで以来ずっと声が聞こえる、という主張を繰り返した。

彼がチョイに語ったところでは、初めて声を聞いたのは叔父の農場にある小川の淵で釣りをしていたときだったそうだ。当時彼は6歳で、母親そっくりの声で優しく「アンソニー」と呼ぶ声がした。叔母が家から呼んでいるのだろうと思ったが、急いで帰宅してみると、家には誰もいなかった。モントウィーラー曰く、声は大人になっても聞こえていたという。母親の声で優しく「大丈夫よ、大丈夫」と語ることもあれば、切羽詰まったような口調で「よそから聞こえてくる」こともあったという。「俺や全てのものに怒鳴り散らすんです」とモントウィーラー。「本当に最悪ですよ」。また、ボイシの聖アルフォンス病院のスタッフが首に金属の機械を差し込んで、それをコードで脳に繋いでいるに違いない、とチョイに語った。それ以来、記憶の一部が「ごそっと抜け落ちている」と言う。ごく最近では、マルヒュア郡留置所の警部補が自分の考えを呼んでいる、と疑った。「声が、あいつはお前の心を読めるぞ、と教えてくれたんです」

過去のモントウィーラーの発言も、明らかに一貫性に欠けていた。例えば、海兵隊の仲間で地雷を踏んだマイケルではなく、豚の群れを避けようとして彼がジープのハンドルを切ったため、仲間の海兵隊を死なせたことがトラウマになっている、と言った。アニタについても、まるで彼女がまだ生きているように話した。しばしば「明らかに障害を過剰に演じているような場面もありました」と、チョイは言う。それでも、細部を思い出すのにしばしば苦労したりするときなどは、「ちゃんとした答えをしようと努力しているようにも見えました」。チョイ曰く、これが「精神鑑定の難しいところです」


浮き彫りになる様々な問題

チョイは、モントウィーラーを裁判にかけるのは精神的に不適切だと結論づけた。チョイは鑑定書で、彼の症状は「鬱を伴う適応障害の診断を十分に裏付けている」と記した。治療可能ではあるものの、精神的に責任能力がない、という基準を満たすストレス性疾患だ。「周知の通り、この男性は今現在に至るまで、間違いなく数々の嘘を突き通してきました」とチョイ。「直感を裏付けるために、いろんな検査などを行なうことはできます。でも結局は直感なんですよ」

モントウィーラーの行動に関する別の可能性をチョイにぶつけてみた。事件の朝、モントウィーラーは精神病の症状に襲われ、それと同時に、彼らしい巧妙な計画を実行に移したのではないか。PSRBで満喫した「特別待遇」を再び手に入れるためには、罪を犯さねばならない。彼がハーモンを20マイル先の州境まで連れ去り、心神喪失の抗弁が認められていない、況してPSRBが存在しないアイダホ州からオレゴン州へ向かったのも偶然ではあるまい。事件の4年前、モントウィーラーが「アニタと俺は事故に遭う」という警告のメモを残した事実は、精神病の予兆かもしれないし、心神喪失の抗弁に備えた事前の策かもしれない。あるいはその両方の可能性もある。モントウィーラーは生まれながらにして人を操る人間で、かつ精神を病んでいる。州立病院を出るために精神病を偽ったような男だ。ハーモンを殺したのは、PSRBから釈放されたからではなく、そこにまた戻りたかったからなのではないか。

「十分あり得る解釈ですね」とチョイ。「施設の中で生活する方が落ち着く、という人も大勢います。アンソニー・モントウィーラーは、成人の大半を施設で過ごしてきました。施設の中では、彼はお山の大将です」。さらにチョイはこう続けた。「もし重度の精神疾患を抱えている人たちがみな、素面で、清潔で、薬とは無縁の居場所を社会の中に確保できるなら、多くの問題が改善されるでしょう。治療を全く受けていない状態と州立病院の中間に位置するようなものがもっと必要です」

2019年1月、さらに精神鑑定を行った末、モントウィーラーは精神的に裁判で責任能力を追及できるとの判断が下された。以来彼は複数の罪状で無罪を主張している。ハーモン家を取材で訪れた際、父親のバド・ハーモンは罪状認否のときのことを振り返った。モントウィーラーは無言で車椅子にだらしなく座っていた。「確かに頭がおかしいように見えました」とバド。「一度も頭を上げませんでしたよ」。スーザンはこれを鵜呑みにするまいとしている。「精神病を装っているように見えました」と彼女は言う。「また精神病院行きになったら、彼は前と同じことをするでしょう」

夫妻は今、ハーモンの一番下の子供を育てている。現在15歳だ。「水面に立つ波のようです」とスーザン。「絶え間なく続いていきます」。娘が死んでからちょうど1年経った命日――2018年1月9日――彼女はシンクレア・ガソリンスタンドに花を手向けた。「店の中に入って行くと」、店員が「ただぎゅうっと抱きしめてくれました。ずっと電話しようと思っていたけど、どんな言葉をかければいいのかわからなかったんだそうです。みんなそうですよ。言葉もありません」