世界最速を目指した日本の飛行機「研三」
太平洋戦争中に世界最速の飛行機を目指して研究・開発された高速飛行研究機「研三(けんさん)」の企画展『スピードを追い求めた幻の翼 研三―KENSAN―』が、岐阜県の岐阜かかみがはら航空宇宙博物館(空宙博)において始まった。期間は3月16日まで。
2017年に新たな資料が発見され、その分析などが進んだことから開催されたもので、研三の試験飛行の様子を収めた記録映像や、試験用に開発されたエンジン部品などの実物などが初公開となる。
飛行機の歴史はスピードへの挑戦の歴史
人類の歴史は、スピードの歴史でもある。人の脚に始まり、馬も船も、鉄道も自動車も、人は常にスピードを追い求めてきた。
そして、1903年にライト兄弟が動力飛行機を発明して以来、飛行機もまた、速く飛ぶことを目指し、世界中で研究・開発が始まった。
とくにこの当時は、気球も飛行船も欧州が最先端であるというのが共通認識であり、米国のライト兄弟が飛行機を開発したという事実は、世界中で驚きをもって迎えられた。そして危機感を覚えた欧州を中心に、スピード、飛行距離、高度などを競う懸賞レースがいくつも開催され、開発競争が起こることになった。
なかでも有名なのが、1913年から開催された「シュナイダー・トロフィー・レース」である。このレースは、フロート(小さな浮舟)を取り付けた水上機、飛行艇を使い、速度記録を競うというものだった。映画『紅の豚』でもその名前が登場するので、聞いたことがある人も多いかもしれない。
ちなみに水上機などに限定されたのは、離着陸距離の問題があったためである。飛行機のスピードを上げるには、基本的には翼の面積を小さくするのが効果的だが、そうすると離着陸時の速度が速くなってしまい(速度を落とす必要がある)、ものすごく長い滑走路が必要になる。しかし、水上ならその制約がなく、フロートを付けることによる重さや空気抵抗の増加といったデメリットを補って余りあるほどのメリットがあった。
第1回大会で優勝した飛行機は、平均速度時速73.56kmというものだったが、その後まさに加速度的にスピードが向上し、最後の大会となった1931年では、英国のスーパーマリンS.6Bが時速547.3kmという数字を叩き出し優勝。ちなみにシュナイダー杯には「同じ国が3回連続で優勝したらレースを終了」という規定があり、英国は1927年の大会から3回連続で優勝したことから、これを最後に同杯は終わりを迎えることになった。
しかし、その後も世界各国で技術開発が進み、スピード記録は次々と塗り替えられていった。
日本の航空機研究のメッカを目指した「航研」
一方日本でも、第一次世界大戦で飛行機が活躍したことを受け、飛行機の研究が本格化。1916年に航空学調査委員会が発足し、さらに1918年には東京帝国大学(いまの東京大学)に航空研究所、略称「航研」が創設された。
この航研は、まさに日本の航空機研究のメッカとなるべく組織されたもので、航空工学のみならず物理や化学、冶金など、各分野の専門家が日本各地から集められた。
航研では大きく3種類の飛行機が研究・開発された。1つ目は長距離を飛ぶことを目指した「航研機」で、1938年に長距離飛行の世界記録を樹立。2つ目が高々度を飛ぶことを目指した「ロ式B型」、そして3つ目が世界最速を目指した「研三(けんさん)」であった。
研三の開発は、1939年に帝国陸軍が航研に研究を委託し、川崎航空機工業(現在の川崎重工業)が製造などを行う形で始まった。研三そのものは武装はなく、戦闘機や爆撃機として使うことは念頭になかった。将来的に、研究成果を戦闘機に活かすことは当然ながら考えられていたが、航研はアカデミックな機関であったこともあり、あくまで世界最速記録を狙った実験機として開発された。
開発の指揮を取ったのは、山本峰雄という人物である。山本は1903年に静岡県に生まれ、小学校に上がるころに東京へと引っ越した。これとほぼ同時期の1910年12月19日、陸軍工兵大尉の徳川好敏が日本初の動力飛行に成功。彼は当時の子どもたちとって英雄となった。
山本も例に漏れず、少年誌に掲載された徳川の記事を夢中になって読んだり、あるときには徳川大尉の飛行機をどこまでも走って追いかけて行き、家に帰れなくなったりしたこともあったという。
これ以来、飛行機の技術者を目指して勉学に励み、東京帝国大学工学部航空学科を卒業したのち、航研に入った。
研三の開発は2つの段階を踏むことになっており、まず第1期として「研三中間機」という暫定的な機体を造り試験し、その成果を踏まえて第2期で正式な「研三」を開発、それをもって世界最速記録を打ち立てることを目指していた。しかし、後述するように第2期への移行前に計画が中止されたことから、現在では研三中間機のことを研三と呼ぶようになっている。
世界最速を目指すための技術と工夫
飛行機がスピードを出すためには、大馬力のエンジンを搭載すること、空気抵抗を小さくすること、そして機体を軽量化することの3つが最低限の条件である。
このうち、まず大馬力のエンジンについては、当時日本ではまだ技術やノウハウが少なかったことから、ドイツのダイムラー・ベンツから「DB601A」というエンジンを輸入し、改造して出力を向上させたうえで使用することになった。このDB601Aは、当時ドイツで時速700kmの速度記録を打ち立てていたHe100やMe209といった飛行機にも使用されており、スピードが出ることに関しては折り紙つきのエンジンだった。
さらに、このエンジンは液体を使って冷却する液冷式で、当時日本で主流だった空冷エンジンと比べて投影面積(断面積)が小さく、したがって機体も小さくでき、空気抵抗が小さくできるというメリットもあった。また、このころ並行して、川崎航空機が三式戦闘機「飛燕」に使うため、DB601Aのライセンス生産と、実物購入権の契約交渉が進んでおり、入手性や改造のしやすさなどが比較的高いという事情もあったという。
しかし、肝心のエンジン出力向上のための改造では、馬力こそオリジナルの1100馬力から1300馬力へと上がったものの、エンジン内で異常燃焼(ノッキング)が起こるなど、副作用もあった。
そこで、エンジン内にメタノールを噴射することでこれを抑えるメタノール噴射装置が開発された。メタノールは、過給器を過ぎて高温になった空気を、その気化熱で冷却し、ノッキングを防止する効果があった。さらに、エンジンの燃焼室内の燃料のオクタン価を高め、また空気が冷却され体積が小さくなることで、燃焼室へのより多くの吸気が可能になるなど、エンジン効率の向上にも寄与。これにより、当初の目標を上回る1500馬力を発揮することができた。
また、液冷式の場合、その液体がエンジンから奪った熱を冷やすためのラジエーターが必要になる。しかし、ほぼ同等のエンジンを積んでいる「飛燕」を見てもわかるように、ラジエーターは機体外部にあるため、空気抵抗の原因となる。そこで研三では、小型のラジエーターを機体側面に取り付けるとともに、胴体表面の上面と下面の計4箇所にも配管を通して冷却部を設け、できる限り出っ張りをなくす工夫が取られた。
また、キャノピー(風防)も空気抵抗を減らすため、非常に平べったくなっており、前方視界はきわめて悪かったという。
さらに軽量化のため、桁材には超々ジュラルミンを採用。超々ジュラルミンというとゼロ戦で採用されたことでも知られるが、それとは別に航研が独自に開発していたものが用いられたという。また、エンジンが重いことから、重心が前に来てしまうことを防ぐため、発動機架の素材にはマグネシウム合金を採用。従来のアルミニウム合金と比べ、3分2ほどに質量を抑えることができた。
そして翼の形状は「層流翼」と呼ばれる、通常の翼型に比べ、主翼の前縁を尖らせ、翼断面の厚みが最大になる位置を後方に移動させた翼型を採用した。さらに、外板の継ぎ目や鋲のくぼみなどと凹凸による性能劣化を抑えるため、塗装で表面をなめらかにする工夫も施された。
また、前述のように、飛行速度を上げるには翼の面積を小さくするのが効果的だが、そうすると離着陸時の速度が速くなるため、操縦が難しかったり、長大な滑走路が必要だったりする。そこで、親子式フラップと呼ばれる、フラップを2段階で展開する機構が開発され、離着陸時に大きな揚力を得ることが可能になった。