4台のレーシングマシンの中には熱海富士屋ホテル所有の軽量セミワークスマシンも|GT-Rの神様が愛した 72年式レーシング2000GT-R 2

レースという青春を駆けた駿馬 渡辺さんがレースに参戦したのは76年のことだ。当時、日産のワークス活動はすでに休止しており、多くのプライベーターもGT‐Rからの乗り換えが進み、市場には破格の値段で車両や部品が流通していた。

GT‐R購入を通じてスポーツコーナーに出入りし、レースに参加したいという思いが強かった渡辺さんは、当時のモータースポーツ誌で、「雨降りにラジアルタイヤでサバンナが優勝した」という山口県の厚保サーキット(現・マツダMINEテストコース)の記事に目が止まり、「猛者が集う富士や鈴鹿では勝てないが、ここなら勝てるかも」と決断。

即レースマシン4台とスペアエンジンを2機購入。それらを祖父の別荘(現在のGT‐Rサービスワタナベの拠点)に持ち込み、参戦を開始した。


 レース活動は約2年。優勝こそできなかったが、レーサーとしての醍醐味とクルマと対話することの大切さを知り、途中からメカニックが派遣できないといわれたため、3カ月間スポーツコーナーでメカニックの修行を行なうなど、GT‐Rサービスワタナベの基礎を作る重要な時期だったといえる。

 4台のレーシングマシンの中には熱海富士屋ホテルが所有していた軽量のセミワークスマシンも含まれていたが、現存しているのはプライベーター用ボディ。2台はクラッシュで廃車にし、1台は解体して部品取りになった。


1972年10月9日、日産ワークス最終戦の富士GC第4戦マスターズ250㎞で黒沢元治選手が駆ったNo.15車がカラーリングのモチーフになっている。


ワークス用のエキマニは不等長だが、パイプ径を変えることで調整している。アルミ製のサイド出しマフラーは、ボディサイドに出る部分のフロア下も加工し、形状もオーバル形状となる。



重量配分を考えてバッテリーはセンターコンソール、バルクヘッド側の中央部に配置。近年は軽量のためドライバッテリーを使用していた。バッテリー上部のベージュの部品はヒューズボックス。ヒューズは3個しかない。



生前の渡辺さんによると、ワークス最終戦を走った黒沢選手のマシンに搭載されていたS20型ユニットとのこと。右下に見えるオイルキャッチタンクが面影を残す!



最終のワークス仕様は、本来ならばルーカスメカニカルインジェクションだが、調整しにくいという理由で、ウエーバー45DCOEに換装。



オイルクーラーはワークス仕様よりもサイズがひとまわり小ぶりのものを装着。左右のステーの下にはジャッキアップ痕が残る。テフロンホースは当時ものだ。


ノスタルジックヒーロー  vol.197 2020年 02月号(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)