屈指の存在感と歌唱力の持ち主、桑名正博をプロデューサー寺本幸司が語る

音楽評論家・田家秀樹がDJを務め、FM COCOLOにて毎週月曜日21時より1時間に渡り放送されているラジオ番組『J-POP LEGEND FORUM』。

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2020年2月の特集は、浅川マキを始め、数多くのアーティストを世に送り出したプロデューサー「寺本幸司」。寺本がプロデュースしたアーティストを一カ月に渡り語っていく。パート4となる今週は「東のキャロル、西のファニカン」と呼ばれ人気を博したファニー・カンパニーを経て、ソロで「セクシャルバイオレットNo.1」でヒットを飛ばし、俳優や実業家としても人生を送った桑名正博について語る。

・桑名正博「月のあかり」


田家秀樹(以下、田家):こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは、桑名正博さん「月のあかり」。作詞が下田逸郎さんで、作曲が桑名正博さん。オリジナルは1978年に発売になりました3枚目のアルバム『テキーラ・ムーン』収録です。先週と今週の前テーマはこの曲です。今月2020年2月の特集は、寺本幸司。今週はパート4。最終週ですね。やはりこの人の話で締め括らないといけない。日本のロックアーティストとしては屈指の存在感と歌唱力の持ち主。特に関西のロックファン、音楽ファンにとっては、特別な記憶とともに思い出される人。桑名正博さん。1972年、関東のロックバンド、キャロルと並び称された日本語のロックバンド、ファニー・カンパニーのヴォーカリスト、ギタリストとしてデビュー。アルバムを2枚残して解散、1975年にソロでの一歩を踏み出しました。寺本さんは、ファニー・カンパニーのデビューから関わってこられたプロデューサーであります。こんばんは。

寺本幸司(以下、寺本):こんばんは、よろしくお願いします。

田家:関西のロックファンにとっては大切な人でしょうし、最後はそういう人たちに対して敬意を表しながら締めくくれたらと思っています。桑名さんは江戸時代から続く廻船問屋の7代目。

寺本:「桑文」という廻船問屋の7代目で、彼と知り合った頃は大阪港の埋立地に7万坪の土地を持っているという話で、いまユニバーサルスタジオジャパンがある土地も持っていたというくらいの大変大きな老舗・桑名興業という会社の長男でした。

田家:ユニバーサルスタジオジャパンは、桑名さんの御先祖の土地にできたんですね。すごい(笑)。東京は月島出身、江戸っ子の寺本さんが、どういう経緯でデビューを手掛けられるようになったのかは当然お聞きしたくなりますよね。

寺本:この頃、浅川マキはもういいとことにいっているし、りりィもデビューさせていて。まだ「わたしは泣いています」は出来ていませんでしたが、プロデューサーとしてはガンガンにやっていた頃でした。

田家:飛ぶ鳥を落とす勢いだった。

寺本:モス・ファミリィという事務所も作り、ここから行こうという時期に、ワーナー・パイオニアの栗山さんという方から電話がかかってきて、実は関西にすごいロックヴォーカリストがいるんだと。六本木のうちの事務所の隣だったものですから、彼とツインヴォーカルの栄孝志が2人で来ました。始めに桑名と思われる男がパッと立ち上がってすくすくと僕のほうに寄ってきて「よろしく、桑名です」って握手したんです。僕、そんな経験したことがなかったから戸惑いと同時に、グッと握ってくる感じがすごくよかったし、そこに育ちの良さがしたんですね。それが始まりですかね。いまだにあいつの手の感触を覚えていますよ。19歳の桑名正博。

田家:若々しい。今日はそんな話も含めて後ほどじっくりお伺いしていこうと思います。



キャロルとのおもしろい出会い

田家:寺本さんが選ばれた、まずはこの曲から始めます。ファニー・カンパニーのデビュー曲1972年9月発売「スウィート・ホーム大阪」。作詞がベースの横井康和さんで、作曲が桑名正博さんですね。

寺本:始めに『ファニー・カンパニー』という名前でアルバムを作ったんですね。アルバムから世に出すのが好きなので、その中でいい曲をシングル盤にするという考え方で、それは浅川マキもりりィも一緒です。そういう中で突然これができてきた。事実上、ファニー・カンパニーの1番始めに目に見えてできた曲なんですよ。横井も同志社で京都生まれ育ちなので、原点がすべてここにある気がしますね。桑名のヴォーカルの勢いがすごいでしょ? それまで日本語をこんなふうに歌える歌い手を知らなかった。「浅川マキもグングンいって、りりィも売れてきているのに、寺本さん血迷っているのか?」って言われんだけど、これもやりたいと思ったのでファニー・カンパニーと組むことにしました。¡

田家:「東のキャロル、西のファニー・カンパニー」っていうキャッチフレーズはどこから出てきたんですか?

寺本:向こうはというとへんだけど、キャロルはリーゼントにバイクに革ジャンじゃないですか? こっちは桑名興業の御曹司だし、ベースの横井は横井厨房って鋳物の会社の社長息子だし、キーボードの古宇田優は宝石屋の息子だし、栄は有名な栄総合病院の次男なんですよ。みんなぼんぼんなので、要するにぼんぼんロッカーと呼ばれましたよ。

田家:(笑)。

寺本:当時、ロックンロール振興会を作るようになり、渋谷の野音でやったりしてキャロルと一緒にやったりする。向こうはスバル360で4人で来るけど、こっちは真っ赤なポルシェですよ(笑)。でも、僕は、肝心なのはアウトローがロックをやるっていうのがいいわけじゃなくて、自分の中の魂がどれだけアウトローの物差しを持っているかが大事で、個々がそういうエネルギーをロックに変えていくっていうのが基本。僕は初めからロックバンドを作るつもりでいたし、桑名というロックヴォーカリストとしては世界に挑戦してもいいなと思うくらいの気持ちでデビューさせたんだけど、キャロルの勢いがすごくて。東のキャロル、西のファニカンなんて言いましたけど、大阪なんかでは、やっぱりファニカンだよってエネルギーを感じましたし、そういう意味じゃキャロルとはおもしろい出会いになりましたね。

田家:デビューはファニー・カンパニーのほうが早かったです。「スウィート・ホーム大阪」でした。



内田裕也からかかってきた電話「この裏切り者め」

・桑名正博「哀愁トゥナイト」


田家:「J-POP LEGEND FORUM」寺本幸司特集。今週は4週目、桑名正博さんを語ってもらっています。寺本さんが選んだ2曲目。77年のシングル「哀愁トゥナイト」。

寺本:桑名がファニー・カンパニーを解散して約1年ちょっと、加賀テツヤと組んでバンドをやったりしていたんだけど、東京に出てきて『Who are you?』でアルバムを出して、そのあとにいよいよ勝負するぞって出したのがこれなんですね。

田家:作詞松本隆、作曲筒美京平。これは勝負作で、満を時してこれで世の中変えてやるんだという気概があって作ったシングルだった。

寺本:まったくそういう思いでやりましたね。

田家:でも当時のロックファンの中には、筒美京平さんはあっち側の敵だみたいなイメージもありましたし、松本隆さんはもともとはっぴいえんどなんだけど、歌謡曲を書くようになって、なんとなく松本さん最近どうなのみたいな空気もなきにしもあらずだった。この曲はいろいろな議論の対象になりました。

寺本:僕はいいものはいい。歌謡曲もロックもくそもない。ロックはスピリッツだ。

田家:魂のヴォーカリストだ。

寺本:そう。というふうに思い込んでいましたから、そういう勝負に出た曲ですね。

田家:そういう寺本さんの気概。これで世の中を変えてやるんだ、本物のヴォーカリストを見せつけてやるんだ、という意図は、必ずしも思ったとおりに伝わったわけではなかった。

寺本:でもね、いわゆる歌謡曲というジャンルかどうかわからないけど、いいセールスをし始めたんですね。そういうとき、夜中の2時頃に電話が鳴りまして、「お前、桑名を歌謡曲歌手にするつもりか!」って内田裕也さんからかかってきたんですよ。ああ、また酔っ払って電話がかかってくるんだと思って。歌謡曲とかなんとか関係ないじゃないですか! って言ったら、この裏切り者めって言うんですよ。

田家:ああ、言いそう(笑)。

寺本:その前にファニー・カンパニーでさんざん彼と一緒に組んでキャロルとやっていましたから、そう言ってきましたけど、ある意味では歌謡ロックっていうジャンルをこの曲で作ったと思ってます。同時に、大阪のファンも裏切ったんだっていう感じをちょっと受けた曲ではあります。

田家:大阪のファンから直接そういう声が届いたってことは?

寺本:まだこの頃は売れ始めだからびっくりしている感じで、来なかったんですよ。

田家:桑名どうしちゃったんだって感じだった、と。



下田逸郎と組んで作った最初の名曲「夜の海」

・桑名正博「夜の海」


田家:え〜、流れておりますのは寺本さんが選ばれた3曲目「夜の海」。いまだに桑名さんのファンには、この曲が好きという人の多い曲です。作詞・下田逸郎、作曲・桑名正博。76年発売、ソロ1枚目『Who are you?』に入っておりました。ちょっと時間が遡って、この1枚目の話を伺いたいのですが、ファニカンは2枚アルバムを残して解散して、75年にソロになって、1枚目が『Who are you?』だった。その中にこれが入っていた。

寺本:ちょうど下田逸郎がNYから帰ってきて、桑名が僕のところにいて、大阪と東京を行き来して。そういう中で桑名と下田が曲作りをするようになったきっかけになった、アルバムの中の名曲と思っている1曲です。

田家:桑名さんはそれまで下田さんのことを認識していた?

寺本:認識はしていましたけど、日本にあまりいませんでしたし、帰ってきてもすぐ向こうに行っちゃうやつだったから。下田のほうは桑名のことを知ってはいるけど、あっちの人間というか、ああいうことをやりたいんだと思っていたみたいなので、2人が出会ったことは偶然ではあるけど、僕は必然だと思っています。

田家:これは偶然なんでしょうけど、桑名さんは1970年、万博の年にサンフランシスコに行っている。向こうで西海岸のヒッピームーブメント、当時のニューロックの洗礼を受けて、下田さんは同じ1970年にNYに東由多加さんと一緒に行って東京キッドブラザースで向こうの舞台も経験している。1970年にかたや東海岸、かたや西海岸にいたというのは偶然なんでしょうけど、ある種出会うべきなにかがあったのかなと思いますね。

寺本:まったくそう思いますね。やっぱり桑名は与論島とかに行って、要するに下田とは違う旅をしながら、自分が桑名興業の後をつがなきゃならないって気持ちから逃げるように、ある意味旅をしている時期にLAにいって。栄と話して、やっぱりやりたいなというのがファニー・カンパニーに繋がったわけですね。

田家:栄孝志さんとはアメリカで出会っているんですね。

寺本:そうですそうです。

田家:今寺本さんがおっしゃった、自分が今後、親の仕事、会社、自分が生まれたところをそのまま引き受けて背負っていくのか、そこから違う道にいくのか。特に冒頭におっしゃいましたけど、金持ちのぼんぼんが何がロックだって空気がありましたもんね。そことの戦い方は他の人にはない葛藤だったでしょうね。

寺本:と思いますね。一概にアウトローとくくるのはよくないけど、そういうものは彼の体の中にあって、それが目覚めていくことが怖いような、ステージ上での弾けるエモーションが本当のロッカーだなっていう感じがしましたし、ロッカーってジャスト・ナウじゃないですか? 今しかない。ジャストをどう自分の生きているもので表現できるかがロッカーじゃないですか? ただ、その方法は、生まれながら持っているものじゃなくて、身に付けたものだし、発見したのは間違いなくウェストコースとの旅ですね。

田家:妹さんといっしょに歌ってらっしゃると。

寺本:はい。桑名晴子、彼女もこの歌レコーディングしているはずです。いい歌でしょ?

田家:いい歌ですね。このアルバム『Who are you?』をお作りになったときには「哀愁トゥナイト」はまだ頭になかったわけですよね?

寺本:全然なかったです。僕は”世界”という言い方が好きなんですけど、これで桑名ってソロシンガーの世界が作れるかなって。アルバムですから。桑名でなきゃという曲をいくつか並べた中の、これは1番筆頭の曲ですよね。更に、下田と組んで作った最初の名曲の1つだと思いますけどね。



松本隆との関係が生まれる兆しになった曲

田家:『Who are you?』というタイトルはどういうイメージだったんですか?

寺本:これは僕のアイデアで、要するにファニー・カンパニーを辞めて、1人のヴォーカリストとして出てくる。「お前誰?」というので作ったアルバムなんですね。

田家:お前は誰なんだ、何者なんだということをこのアルバムで証明しようと。お聴きいただいたのは76年、アルバム『Who are you?』から「夜の海」でした。続いて、寺本さんが選ばれた4曲目です。やはり『Who are you?』に入っておりました「真夜中列車第2便」。作詞が松本隆さんで、作曲が桑名正博さん。

寺本:これは『Who are you?』という、お前誰だというアルバムを作るのに際して、下田と桑名と組ませたり、桑名のオリジナルも期待したんですけど、小杉理宇造プロデューサーが松本隆っていうのもありじゃないって話をして。松本隆はそのとき僕から見たらメジャーの作詞家になっていたし、はっぴいえんどのときとはまったく違うイメージがありましたから。彼も、桑名くんのヴォーカルはいいって言っているよって話もあったので、松本さんに1曲お願いできないかって話になり、できた詞がこれで。桑名はすごくこの詞に乗りました。いいメロディも書いていたと思います。これは桑名・下田コンビじゃ出てこない曲だと思った。このアルバムの中で、この曲は僕にとってすごく輝いているものの1つになったので。そこから松本隆さんとの関係が生まれていくというある種の兆しになった曲ですね。

田家:これがあったらから「哀愁トゥナイト」にも繋がったし、「セクシャルバイオレットNo.1」も生まれてきたと。

寺本:下田と桑名のコンビもありだけど、松本隆もありだなと本当に思い込んだのはこの曲ですね。

田家:そのときに、関西関東っていう頭はもうなくなっていました? もっと全国区のロックボーカリストに。

寺本:もうなくなっていましたね。

田家:桑名さんの中にはどこまであったんだろうなと思いますけど。

寺本:桑名の中には、死ぬまでありますね。出ていく、帰ってきたですから。ふふふ。

田家:それでは改めてこの曲をお聴きいただきます。1976年の曲。「真夜中列車第2便」。曲のテーマとか詞のテーマというのは松本さんとお話されるわけではないんでしょう?

寺本:話はしませんね。したことは1回もないんじゃないですか? 桑名というものをどう捕まえているのかなというのはお互いに勝負ですから。そういう感じで出てきてやっぱりすごいなと思ったり、やっぱりこれは違うなってこともありますけど、事前にこんなものを書いてもらいたいとかってことは、まったくないですね。

田家:同じ旅でも下田さんが描く旅と、松本さんが描いている旅立ちとはシチュエーションも違いますからね。それでも桑名さんがこういうのを歌うといいだろうなっていうのは2人とも共通して持っていた。

寺本:そうですね。桑名のメロディも自分の声が1番生きるところのキーを使っていますよね。そういうところはうまくできているなと思いますね。これによって松本さんも、桑名ってやっぱりいいなって思っていただいたと思います。

田家:お聴きいただいたのはアルバム『Who are you?』の中から「真夜中列車第2便」でした。



留置所で生まれた名曲

・桑名正博「月のあかり」


田家:お聴きいただきましたのは前テーマでもお聴きいただきました「月のあかり」です。

寺本:話は前後しますが、『Who are you?』を出して、「哀愁トゥナイト」で20万枚くらいのセールスをして、バックオーダーがどんどん入ってくる時期に、桑名が大麻で捕まったんですよ。この話はあまりラジオでしたくない場面なんですけど、しなきゃならないのでしますけど、捕まった西麻布署から歩いて5分もしないところに僕の事務所があったんですけど、そこの留置所に収監されるわけですね。1週間くらい経ったあとに面会しました。1番始めに寺本さんごめんなさいっていうから、謝るとかっていうよりも「大丈夫か?」って言ったら小声になりまして「いい曲ができました」って。何もすることがないし、1人で独房の中にいるとき、こんな曲ができましてって、僕の目の前で小声で歌ったのが「月のあかり」なんですよ。もうフルコーラスできている。ちょっとゾクゾクっとして、そこにいる収監人がずっと見ていて、サビになると大きな声になるじゃないですか? そろそろ時間ですって言われ、そこで桑名と僕は別れて下田に連絡して、すっごくいい曲を作りやがったよって話をした。そのあと出てきて、RCAの大きな客間で5、60人の記者とか集まって、テレビもきたから、そこで僕は一言、「罪を憎んで人を憎まずといいますけど、桑名の才能は世間で十分仕打ちもうけていますし、よろしくおねがいします」って言って。変な言い方ですけど、明くる日の記事もそんな悪くなかったんですよ。ほっとして半年くらい経つかどうかで、桑名が懲役2年の3年の執行猶予だったんですけど、執行猶予期間中に小杉理宇造から筒美京平さんと松本隆さんが、桑名さんが消えてしまうのはあまりにもったいないから、ぜひ1枚レコードを出そうと言ってきたんだよっていう話があって。僕はまさかまだ執行猶予期間中だしと思ったけど、寺本さんの記者会見がよかったみたいで、桑名の人柄もあるし、そんなにヘビーな空気もないしっていうので、桑名を大阪から呼んで作ったのが『テキーラ・ムーン』っていうアルバムなんですよ。

田家:今だから明かせる制作秘話。「月のあかり」ができたときには、こんなふうにずっとその後桑名さんの代表曲として歌い継がれ、聴きつがれる曲になるだろうなって直感はありました?

寺本:思ってはいなかったですね。ただ、なんでこんな曲ができたんだろうというほうが強かった。でもすごい曲が生まれた、そういう体験。人間は体験ほど強いものはないというのは思っていたので、客観性は持っていなかったですね。

田家:歌い継がれる曲、名曲とはそういうものなのかもしれません。お聞きいただいたのは桑名さんの78年のアルバム『テキーラ・ムーン』から「月のあかり」でした。

田家:そして、流れているのは『テキーラ・ムーン』から「薔薇と海賊」であります。寺本さんはこれを選ばれました。

寺本:これは桑名がいわゆるカムバックするときに作った『テキーラ・ムーン』の中ではじめからこれをシングルでって感じで、出来上がった曲です。

田家:さっき「月のあかり」が出たときに、これが稀代の名曲になるとそのときはなかなか思えなかったとおっしゃって。アルバム『テキーラ・ムーン』には「月のあかり」が入っていますけど、シングルにはしていないですもんね。

寺本:カムバックするにあたって、うまく桑名がカムバックするためにヒットメイカーの筒美京平さんと松本隆さんと組むと決めたんだから、この2人とやるところまでやろうというときに「月のあかり」という名曲ができてしまった。どちらかというと僕としてはこっそり『テキーラ・ムーン』の中に入れた曲でした。

田家:『テキーラ・ムーン』は全9曲なんですけど、松本隆作詞曲が7曲入っていますからね。下田さんの曲は「オン・ザ・ハイウェイ」と「月のあかり」の2曲だけなので、やはり筒美京平、松本隆でカムバックするんだという。

寺本:それは我々というかRCAを含めたみんなの方針でしたから。そういうふうに決めて出したんです。きちんと聴いてほしいんですけど、なかなかの詞なんですよ。この詞をこのリズムで桑名がよく歌ったなというふうな意味では、ヴォーカリスト桑名の僕にとっての自慢の曲でもあるんですけど、戸惑いもありましたね。こっちの世界にいくのかって感じもありました。

田家:そういう意味ではロックスターというんでしょうかね。毛皮を着たり、キャデラックに乗ったり、ワインを飲んだり、プールサイドにいたりみたいな。フィクションのほうに行った感じもありましたね。

寺本:そうですね。そこに生身が見えてこないって感じはして。自分の中でも不安があったことを、今この曲を聴きながら思い出しますね。

田家:え、そういうのは不安だったりもするんですか。

寺本:不安ですよ。やっぱり曲の印象って強いですからね。どんな曲であってもそれを桑名が見事に捕まえて歌っちゃっていますからね。桑名の挑戦欲は半端じゃないから。また世の中に内田裕也さんから電話がかかってくるんじゃないかって(笑)。

田家:お前は桑名をどこにつれていくんだって。

寺本:そうそう。

田家:世間的な反応はどうだったんですか?

寺本:「哀愁トゥナイト」ほどの動きは見せなかったんですけど、やっぱり桑名がすごいなって感じになった。ただ、このあと「サード・レディー」「スコーピオン」とシングルで桑名の名前がどんどんあがっていく中で、大阪の根強いファンは、むしろ「月のあかり」に埋没していく。2000人くらいのお客を呼べるようになって大阪のフェスティバルホールがほぼ満員のときに、前のほうは濃い桑名ファンがいるわけですよ。「薔薇と海賊」を歌い出すとブーイングが出てきたりするんですよ。

田家:あらあらあら。

寺本:ところが、「月のあかり」になるといえーいとかいって、静かな曲なのにみんな立ち上がって聴くみたいな感じがありましたね。

田家:そういう意味では「月のあかり」はお客さんが育てた。

寺本:というのもあるし、内田裕也じゃないけど、寺本が桑名を歌謡ロック界のスターみたいな形で売りやがったみたいな空気はいまだに遠くから聴こえてくる感じがしますね(笑)。



1番売れなかったアルバムです

田家:この番組をお聞きの桑名さんのファンの方はどのようにお思いなんでしょう。そういう話を踏まえた上で、改めてこの曲をお聴きください。

・桑名正博「薔薇と海賊」

田家:桑名さんのバンド桑名正博&Tear Dropsもこの頃でしょ? 桑名さんを活かすバンドというのも考えていらしたわけですね。

寺本:そうですね。桑名はバンド思考がすごく強いから、こういう派手なアレンジのまま本当はステージをやれればよかったんですけど、それは僕らも嫌っていましたから。後半のアルバムはTear Dropsも全部アレンジもしていますけど、Tear Dropsなりのアレンジにしてステージに持っていくわけですよ。そうするとこの曲のケレン味みたいなものが出てこなくなって、「月のあかり」みたいな曲が光ってくるっていうのもたしかにあったかもしれませんね。

田家:浅川マキさんのときにもありましたし、りりィのときにもそういうバンドとアーティストっていう話がでました。やっぱりTear Dropsのように、バンドをどう組むかがそのアーティストを活かすことになるというのは寺本さんのプロデュースの仕事のなかにありますね。

寺本:基本的にありますね。桑名の『KUWANA No.5』というアルバムも、全部LAでレコーディングしていて。あれはTear Dropsが演奏していて。アメリカ人のプレイヤーを使うために向こうに行ったんじゃなくて、あの空気の中でひとつアルバムを作ろうよと言って、全員連れて行ったアルバムなので。これもアルバムの話になっちゃいますけど、松本隆さんと桑名が4つに組んだ。

田家:あれはいいアルバムですよ。

寺本:あなたにそう言ってもらうとすごく嬉しいですけど、1番売れなかったアルバムです。

田家:(笑)。

寺本:そういうものなのかもしれないです。

田家:改めてそういうものも聴き頂ければと思ってこの曲を紹介させてもらいました。「薔薇と海賊」でした。



70年代最後の頂点「セクシャルバイオレットNo.1」

・桑名正博「セクシャルバイオレットNo.1」


田家:今日最後の曲、寺本さんが選ばれた7曲目「セクシャルバイオレットNo.1」。作詞松本隆さん、作曲筒美京平、5枚目のシングルで79年7月発売。シングルチャート3週間1位。そういう意味では70年代最後の頂点っていう感じでしょうかね。

寺本:そうですね。この曲で思い浮かべるある場面があるんですね。桑名が捕まってカムバックして東京に呼び戻すときに、大阪の桑名の父親の桑名正晴社長に呼ばれたんですよ。新地のクラブでお会いして、「寺本くんね、あんたは、ああいう事件を起こして、引退させて、もう一回、そういう夢を見させるのか。うちはともかく正博に跡を継がせたいんだ」って言われたんですよ。

田家:また引きずり戻すのかと。

寺本:そうです。そのとき僕は「いや、お父さん。このまま泣き寝入りしたらあの才能が腐ってしまうし、もう1回チャレンジさせてください。そうじゃないと僕も桑名正博も周りにいる方々も終わりにできない」って話をしたときに、お父さんが言った一言が「だったら日本一に」と。「しろ」じゃなくて「日本一に」で切るんですよ。こちらも気持ちが昂っているから、わかりました! って返事しちゃったんですよ。

田家:やっぱり威圧感があったんでしょうね。社長は(笑)。¡

寺本:それまでのシングル盤もまあまあいったけど、もっと外で勝負したいときに小杉理宇造からカネボウの化粧品のタイアップの歌があるからどうだって話がきたんですよ。もちろん筒美京平さんと松本隆で。そのとき考えましたね。たしかに矢沢永吉もやっているし、堀内孝雄もみんなやっていて、やれば売れるとはわかっているけど、これこそこれをやった日には内田裕也さん一派から棍棒をもって殴り込みがかけられるんじゃないかという気持ちも半分あったし、そのとき耳にあったのはお父さんの「日本一」。これをやれば日本一になれる可能性っていうのは90%はある。わかったやりましょうと言ってできてきた曲を、仮歌を作って聴いたときに、さすが日本のNO1のプロの仕事をした松本隆と筒美京平さんに頭が下がりましたね。ところが桑名がね、「薔薇と海賊」あたりから「薔薇を敷き詰めるって寺さんどういうことや?」「なんで薔薇がいんねん」っていうやつなんですよ(笑)。いろいろ注文をつけてくるわけですよ。もう嫌味って感じでね。そのとき、東神奈川にあったカネボウの工場に桑名を連れて行ったんですよ。こういう曲を作りました、という挨拶も兼ねて。そこで働いている女性とかみんな集まってくるわけじゃないですか、桑名が来るわけだから。彼女たちに仮歌を聴かせて、詞を見せたんですよ。「皆さん方、この口紅をどういう方に使ってもらいたいですか、どういう方に口コミしてもらいたいですか?」と言ったら、「この歌の主人公です」って言ったんです。

田家:おお〜。

寺本:そしたら桑名が「わかりました。僕がんばります!」って言って、歌を入れ直して出来上がったのがあの曲なんですよ。

田家:松本隆さんも最後まで悩んでいた。なんでかというと、キャッチコピーが先にあるこんな当たり前の歌詞を書きたくないと、悩みに悩んで最後にふっきって書いた。

寺本:そうなの。そういうストーリーも知らなかったから。「セクシャルバイオレットNo.1」だぜっていうところがあって。僕なんかは尻込みした部分だけど、できてきたものは相当すごいものでしたよ。

田家:松本隆さんも最後の”もう迷わないっ”ていうのは僕の心境なんだよって。この番組で特集した時に言われてました。

寺本:あははは。そうなんですね。



ゲリラ作戦でずっとここまでやってきた

田家:最後にお聴きいただきます。桑名正博さん、79年のNO1ヒット。「セクシャルバイオレットNo.1」。

・桑名正博「セクシャルバイオレットNo.1」

田家:ナンバーワンになった後にですね、正博を俺の元に戻せといったお父様のもとに報告へはいったんですか?

寺本:報告には行きませんでしたけど、すごいいいバイブが返ってきました。大阪の方面から(笑)。だってテレビのベスト10番組すべてに出るわけじゃないですか? そりゃあお父さんからしたら日本一になったという気はするでしょう。

田家:お聞きいただいたのは、79年のNO1ヒット「セクシャルバイオレットNo.1」でした。

・竹内まりや「静かな伝説(レジェンド)」

田家:「J-POP LEGEND FORUM」寺本幸司パート4、今週は桑名正博さんのお話をいろいろ伺いました。この番組の後テーマ竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。桑名さんは2012年、52歳で亡くなったわけですが、そのときに思われたのはどんなことでしたか。

寺本:なんていうのかな。先ほど話した桑名興業というのも結局倒産して、彼は多額の会社の借金を背負うみたいなことになり、ある意味では実業家としての後片付けもしなきゃいけなくなって。歌もうたっていましたし、バンドもやっていましたから、桑名一家をどう守らなきゃいけないかを考えないといけないところもあった。僕なんかは想像できないほど大きなものを背負いながらやりつくして向こうの世界に行ったかなという想いがあります。先週も覚悟してきますと言いましたけど、僕の中で桑名を話すときはいまだに覚悟がいるんですよ。

田家:70年代はいろいろなプロデューサー、あまり多くはなかったですけど、そういう意味で寺本さんはその後のフォーク系の人たち、学生上がりの人たち、学生で音楽に入った人とは違うスタンス、ちょっと大人っぽい立場でお仕事をされているなと当時思っていたんですが。

寺本:1968年が僕のプロデューサーのデビューですから、その方達とある意味では一緒のラインから始まっていますよね。その前、僕は映画を中心にやっていましたので、ある意味ではデビューは同じ時期だけど、年齢的なものを含めて感覚、音楽ビジネスというものにある宝物みたいなもの、それはなんなのかを見る目はちょっと違っているかもしれませんね。

田家:ちょっと大人っぽい感じがします。

寺本:だと思います。だからどちらかというと変な言い方ですけど、レコード会社の1人1人をピックアップして、俺はゲリラでしか物事を作ってやっていきたくないから、一種の体制の中でものを考えていくのをやめようよと言った。俺と組む以上はそういう意識でやらないかって感じですから。やっぱり浅川マキにのめり込んでくれる人、りりィにのめり込んでくれる人、そういう人たちと”つるんで”っていう言い方がいいなと思うな。ゲリラ作戦でずっとここまでやってきたという思いがあるので。そういう意味では浅川マキ、りりィ、桑名と亡くなりましたけど、一生付き合えたのは原点がそこにあるからじゃないですかね。どこにもないもの。

田家:まだまだ語っていただきたいことはたくさんあります。80代におなりになっています。お元気でいてください。

寺本:はい。

<INFORMATION>

寺本幸司
音楽プロデューサー等。浅川マキを皮切りに、りりィ、桑名正博、下田逸郎など、個性的なアーティストを多く手がける。

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソナリティとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
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「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
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