漂泊の詩人、下田逸郎の魅力をプロデューサー寺本幸司が語る

音楽評論家・田家秀樹がDJを務め、FM COCOLOにて毎週月曜日21時より1時間に渡り放送されているラジオ番組『J-POP LEGEND FORUM』。

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2020年2月の特集は、浅川マキを始め、数多くのアーティストを世に送り出したプロデューサー「寺本幸司」。寺本がプロデュースしたアーティストを一カ月に渡り語っていく。パート3となる今週は、数々のアーティストの作詞作曲を手掛けてきたシンガー・ソングライター、旅から旅へ歌い続ける漂泊の詩人と言われる下田逸郎について語る。

田家秀樹(以下、田家):こんばんは。FM COCOLO『J-POP LEGEND FORUM』案内人、田家秀樹です。今流れているのは、桑名正博さん「月のあかり」。作詞が下田逸郎さん、作曲が桑名正博さんです。オリジナルは1978年発売の3枚目アルバム『テキーラ・ムーン』。その中からお聴きいただいています。今週と来週の前テーマはこの曲です。先週と先週は、浅川マキさんの「こんな風に過ぎて行くのなら」がテーマで、その時は今月の前テーマとお伝えしたんですが、いろいろ考えて今週と来週はこの曲で始めようと思います。

・桑名正博「月のあかり」


今月2020年2月の特集は、寺本幸司。今週はそのPart.3、寺本さんのプロデューサーとして最も関わりの深い女性歌手が浅川マキさんだとしたら男性はこの方ではないでしょうか。下田逸郎さん。この曲「月のあかり」が物語るように、桑名正博さんが最も信頼していたシンガー・ソングライターでもあります。元東京キッドブラザースのほぼ創立メンバー。1970年代のサブカルチャー伝説を象徴する立役者の1人。1968年のデビューから関わってこられたのが寺本幸治さん。メジャーシーンからは距離を置いて、旅から旅へ歌い続ける漂白の詩人。今、彼は神戸にお住みだということで。この放送をお聞きになっているかも知れません。こんばんは。

寺本幸司(以下、寺本):こんばんは、よろしくお願いします。

田家:今、下田さんは神戸にお住みなんですってね。

寺本:そうですね、ここ何年かは神戸ですね(笑)。それまでは旅の途中ということで方々に住んでましたけど、このところ神戸に居着いてますね。

田家:ライブハウスでライブ活動もされているそうですが、最近お会いになったとか。

寺本:2月の頭ですね、下北沢のLa Cana(ラ・カーニャ)っていうところで。あそこは50人も入ればパンパンなのに、70人もお客さんが来て立ち見も出るほどの大入りでね。まだまだやれるなって思っていたところです(笑)。

田家:なるほど。この「月のあかり」は、来週の桑名正博の特集の時に詳しくお聞きしようと思っているのですが。桑名さんが最も信頼していたパートナーが下田さんだったと。

寺本:それは間違いありませんね。

田家:寺本さんにとって下田さんはどんな存在だったんでしたか。

寺本:これについては先ず出会ったときの話をしなきゃいけないんですけど。僕が浅川マキでデビューしたAvion Recordsっていう日本初のマイナーレーベルを辞めまして。ジュン&ケイっていう音楽出版に移ったんですが、すぐ日銭が入る道がないので浜口庫之助さんのところに行ってマネージメントみたいなこともしたり、「浜口庫之助ミュージックカレッジ」っていうのをやりましてね。そこの講師役として、リズムは斎藤ノヴ、作詞作曲は下田逸郎がいたんですよ。そこで知り合ったわけですね。

田家:なるほど、今日の一曲目はその斎藤ノヴさんと下田逸郎さんが組んでいた曲です。シモンサイで「霧が深いよ」。


シモンサイの名前の意味

田家:1968年発売のシモンサイ、「霧が深いよ」のアナログシングルをレコードで聴いていただいております。これは寺本さんのプロデューサー経験としては……。

寺本:浅川マキより前ですね。浜口庫之助さんの下で色々勉強していた時に、下田達をデビューさせたいと思った。シモンサイっていう名付け親も浜口庫之助さんなんですね。

田家:シモンサイってどういう意味なんですか?

寺本:下田と斎藤ですから(笑)。

田家:なるほどね、分かりやすいなあ。

寺本:それでフィリップスの本庄さんに頼み込んでリリースさせてもらいました。今でも色濃く思い出しますね。

田家:その時の下田さんってもう長髪でした?

寺本:長髪ですね。いつも尖った目をしてましたよ。

田家:続いては東京キッドブラザースの「歌・花雪風」。1971年発売のオリジナル盤『帰ってきた黄金バット』よりお聴きいただいております。東京キッドブラザースは、1968年に東由多加さんにより設立されました。当初はメンバーが4人で、その1人が下田逸郎さん。渋谷の喫茶店の部屋を買い取ってそこを拠点にしていた。1970年にニューヨークのオフ・オフ・ブロードウェイで上演されたのがこの作品です。日本で最初のロックミュージカルですね。ニューヨークで大ヒットした。下田さんの音楽です。

寺本:そうなんです。だから、東京キッドブラザースはものすごいことをやったんだなってつくづく思いましたね。

田家:寺本さんは、東由多加さんに対しては東京キッドブラザースの立ち上げからお付き合いがあったわけでしょう?

寺本:それは寺山修司さんとの流れで。天井桟敷の設立の時から顔出してましたんで。その流れの中で東由多加と知り合って、彼のラジカルというか、自分の思ったことを叫ぶように言いながらも周りの空気を壊さない。すごい男だと思ったんです。で、彼のやりたいこともだんだん分かってきて。僕はこりゃもう下田と会わせるしかないなって思って。

田家:そこがすごく重要なんですよ(笑)。

寺本:それで下田が東京キッドブラザースの音楽担当みたいになりまして。そこからゴールデンバットの海外公演に繋がってっていう感じですね。

田家:でも下田さんにとっては東由多加さんがいなかったら今の下田さんはないんでしょうし、その道筋をつけたのは寺本さんなんですよね。

寺本:それは間違いないですね。


3つのアングラ劇団

田家:当時、いわゆるアングラ劇団。天井桟敷、状況劇場、東京キッドブラザースと3つあって。僕は東京キッドブラザースが一番好きでしたね。深夜放送みたいな感じがあった。出演者が自分の台詞を叫ぶでしょう。あれが深夜放送の投書みたいな感じがして、すごいリアリティを感じましたね。ニューヨークで成功した後は東京の後楽園ホールで『帰ってきた黄金バット』という公演をやって。その後に下田逸郎さんは東由多加さんと決別する。

寺本:ちょっと別の話になるんですが、9月にニューヨークに行って「黄金バット」を見て、その後の11月に三島由紀夫が割腹自殺しましたね。その夜に下田から電話がかかってきましてね、「三島が死んだのか!」って。もう大騒ぎになったんですよ。「三島ー! 三島ー!」って。で、ちょっと待ってくれよ。俺はそれ以上のことは分からないし、今夜はとりあえず電話を切るぞって切ったんですよ。それから間もなくしないうちに下田から電話がかかってきて。「寺本さん、この公演は打ち上げして帰ります」って言っててね。公演は12月いっぱいまで契約が残ってるのにね。「公演なんてやってる場合じゃない、すぐに日本に帰ります」って言って帰ってきましたね。という経緯があって、後楽園ホールに繋がってるんです。

田家:なるほど。その後に下田さんと東さんが話し合いをして。喧嘩になったという説もありますが。

寺本:喧嘩にはならなかったけど、ニューヨークでの1年間、現地の人もキャストで入ったりしてやってましたからね。色々あったでしょう。そういう中でもうこれ以上お前とはやれないっていうのがお互いにあったと思うんですよ。例えば、下田は現在もそうですけど1人っていう位置を崩さない人間です。でも東由多加は、劇団四季を目指していたようなところがあったみたいですね。アンダーグラウンドっていうのとはどこか相容れない部分があったように思います。

田家:続いてお聴きいただいているのは、レーニア(りりィ)ですね。「ひとりひとり」という曲です。1971年発売、下田逸郎さんの1枚目のアルバム『言歌~誰にも知られずに消えるしかないさ』に入っております。

寺本:りりィに会ったのは彼女が19歳の頃で、20歳で僕がデビューさせるんですけども。僕が知り合ったばかりの頃に下田に紹介したんですね。で、下田がこの声が欲しいって言うんで東由多加に紹介して、詩を書いてもらって作った曲がこれなんですよ。りりィの生まれて初めてレコードになった声っていうのがこの曲です。

田家:なるほどね。詩が東由多加さんなんですね。

寺本:この詩で下田逸郎と東由多加は決別するっていう最後の曲ですね。

田家:歌詞の中にですね、「ロングヘアーが何になる魂の墓場はどこにある」、「汚れたジーンズがなんにある、虚しい心どこにある」っていうのがあったんで、下田さんの方から東さんへの決別の歌を送ったのかと思ったら違ってました。この『遺言歌~誰にも知られずに消えるしかないさ』には、下田さんが色々な人への遺言の文章を書いているんですね、その中に東由多加さま、浜口庫之助さま、ご両親、寺山修司さま、真崎守さんなどへの遺言があるというアルバムですね。

寺本:今何十年か振りにそれを見せてもらったので、細かいことは覚えてないんですけどもね。当時、21歳でこのレコードを作って海外へ行ってしまうなんてそれはちょっとないんじゃない?とは言ったんですけど。これで区切りをつけて次の場面に行くからって去っていきました。

田家:「誰にも知られずに消えるしかないさ」っていうサブタイトルがついてます。でもそういう意味では下田さんのその後の生き方っていうのは変わらないものがあるんですか?

寺本:ずーっと変わらないですね。自分の一人息子に対して「旅人」って名付けてるくらいですからね。

田家:でも浜口庫之助さんの下で詞曲のコーチ役をやっているときにはそこまでの感じでしたか。

寺本:その時から、自分の置かれている場所、何をしようかっていうことをすごい深いところまで感じている。孤独なんだけど、1人で屹立して立っている感じがしました。


松山千春がカバーした「踊り子」

田家:私も当時ロングヘアーで汚れたジーンズを履いていた1人として思い出すんですが、下田さんってジーパン履いていた記憶がないんですよ。

寺本:あいつは履いていませんでしたよ、未だに履いていませんね。

田家:それはたぶんこの頃のある種の決別感があるんだろうなって思って見ていましたけど。

寺本:だから東由多加が下田に送る歌でもあったんでしょうね。

田家:東さんジーパン履いていましたもんね。続いて4曲目、下田逸郎さんの1974年のシングル「踊り子」。あ、これ知ってる! と思われた方もたくさんいらっしゃるでしょう。松山千春さんがカバーしていることでも有名です。

・下田逸郎「踊り子」


寺本:いろいろな方にカバーしていただいている曲なんですけど、僕はこの下田の歌っている感じがすごく好きですね。オリジナルはこれに尽きるっていう感じです。

田家:あまりベタベタしてないんですもんね。この曲はポリドールから発売になっているんですよね。さっきの『遺言歌~誰にも知られずに消えるしかないさ』はフィリップスレコード、デイレクターがあの有名な本城和治さんということで。レコード会社のスタッフも寺本さんがアドバイスされたり?

寺本:いや、どちらかというと彼が見つけてくるんですね。これも旅と同じなんですけど。

田家:で、メジャーデビューしたアルバムが『飛べない鳥、飛ばない鳥』。このアルバムが当時のシンガー・ソングライターの中ではかなり違うイメージがありました。

寺本:アメリカから帰ってくる時にヴィッキー・スーとアレックスの3人で帰ってきて。僕はニューヨークに行く前と帰ってきた下田を知っているので。次はこういうスタンスで挑むんだって思った記憶はありますね。

田家:全然テイスト違いますもんね。

寺本:その空気感がニューヨークだなっていう感じはしましたね。

田家:そのあとにポリドールから『銀の魚』っていうアルバムも出ているんですけど、これは全編の作詞が安井かずみさん。

寺本:安井が19歳で”ハマのズー”って呼ばれている時に、遊び仲間の中で”横浜のズー”知らないの? っていうような頃から僕は彼女を知っていまして。そこからデビューしていく段階もずっと見ていたんですよね。ヒット曲を出す様を見ていて。その間も一緒に仕事したいなって思っていて、ズーという詩人と下田という音楽家と組ませてみたいって気持ちが入ったアルバムですよね。

田家:「踊り子」と『銀の魚』でやろうとしていることは違いますよね。

寺本:ジャケットも下田と一緒にお願いして、合田佐和子という方に描いてもらいまして。『銀の魚』のジャケットのネックレスを描いてもらってね。そういう意味でも気合の入ったアルバムです。

田家:「踊り子」でもヒットしてメジャーな匂いもついて。でもアーティストとしては違うところに行くっていう、下田さんを他のアーティストとは違う方向に持っていこうとしたのがこの時期?

寺本:究極はやっぱり、彼の中にあるラブソングだと思うんですよ。ラブソングの帝王とか言われましたけど。そのラブソングの中に愛の極限、限界というものを彼は見事に描くような作家になっていったと思いますね。

田家:その突破口になった作品がこれと言ってもいいかもしれません。千春さんのカバーについてはどう思われてましたか?

寺本:下田みたいにどこか閉ざされた世界で窓を開ける感じじゃなくて、彼の声と歌には始めから広いものが見えますね。それは曲の解釈として、すごくスケールの大きな曲になったなっていう風に感じました。

田家:スケールが大きくて健康的な曲になったという感じでしたね。

寺本:そうですね。それがいいとこですね。この歌には青空が見えますもんね。


石川セリのイメージは「八月の濡れた砂」

田家:今流れてるのは1976年のシングル、石川セリさんで「SEXY」。寺本さんが選んだ5曲目です。石川セリさんのアルバム『ときどき私は・・・』に入っておりました。

寺本:石川セリは「八月の濡れた砂」というイメージが僕の根底にあったので、この歌を歌ってほしいっていう風になったんですけど、この「SEXY」っていう曲は下田が歌うよりも、こういう女の子が歌ったほうが、なんか誤解されない良い曲になるっていうか(笑)。

田家:誤解されない良い曲(笑)。このニュアンスはなかなか微妙なところがありますね・

寺本:そういう風に思いましたね。で、この曲は結構セールスした曲で。

田家:いい曲でしたもんね。

寺本:この曲が石川セリさんの色を作ったということは言えるかもしれませんね。

田家:はい。これを下田さんがお作りになったときに、寺本さんと会話をされたりしたような記録はありますか?

寺本:下田が歌っている場面ていうのはもちろん知ってますし、1976年のアルバム『さりげない夜』に入っていますもんね。これ、誰かに歌わそうよって会話をした覚えはありますね。

田家;じゃあ石川セリさんに歌わないかっていったのは願ってもないような話だった?

寺本:いや、それは「ジュン&ケイ」っていう音楽出版にアソウシズコっていう女がいまして、まあ彼女がずっとセリのことをやってたりしたもんで。

寺本:「あの曲どうだい?」「ああ、ぜったいセリに良いと思う」「セリ歌うかなー」みたいなところがありながら、進んだ曲です

田家:さっき踊り子のところでですね、松山千春さんとの違いを端的に仰っていましたけど、なんていうんでしょう。下田さんのラブソングのひそやかさ、閉ざされている中で二人っきりでいるみたいなそういうシチュエーションていうのは、他の人にはあまりなかったですもんね。

寺本:そう思いますね。「ラブホテル」っていう曲があるんですけど、まさにラブホテルですからね(笑)。閉ざされた世界の二人が見つめ合うと同時に、背中を向け合うみたいなこともあったりして、そこは逃げられない、逃げたくないみたいなね、すごい世界を作りますよね

田家:はい、「このまま死のう」っていうセリフがあったりして。あれが下田さんが持ってる恋愛観という。

寺本:恋愛観という風に言えばそうなんですが、やっぱ男と女の極限の繋がり合い。繋がったことによって何かが生まれ、そしてそのつながりの何かが切れたことによって何に変わるかみたいなことはね、やっぱり突き詰めて描いてますよね。だからこの歌を聴く女の人は、どこかで必ず自分のどこかの部分に触れていくっていう強い、なんて言うのかなあ。まあ突き刺さる場合もあれば、撫でていく場合もあるっていう風な、一種の頭の中にある感触ですかね。それを表現するのは、下田はすごい作家だと思いますよ。

田家:そういうのをきれいに巧みに柔らかく、少し淫らに優しく引き出していくという。


下田逸郎が捨てたものは何なのか?

田家:当時下田さんがやられていたコンサートが「さしむかいコンサート」。小さいところで差し向かいでひっそりとやるっていうのが彼の独特のスタイルでした。

寺本:例え100人ぐらいでも見れない人がいるとちょっと嫌だなっていう濃密な空気が出来上がりますよね。そういう意味では、松山千春とは違う閉ざされた世界の中の何か、響き合いというものを好きでやってましたね。

田家:1975年と言えば、吉田拓郎さんとかぐや姫の6万人コンサートがあったり、大規模コンサートっていうのが日本でもできるようになってきて。皆そこを目指そうという時に、下田さんが「さしむかいコンサート」をやるっていうのが、我が道を行く、微動だにしないスタイルだった感じがしました。皆がやらないからやるっていう程度の表面的じゃない歌の届き方を求めていたんでしょうね。

寺本:最近もそうなんですけど「それだよ下田!」っていう会話をしたことがありますね(笑)。

田家:続いて6曲目ですね、「ひとひら」。1992年の下田逸郎さんのアルバム『ひとひら』の収録曲です。

・下田逸郎「ひとひら」


寺本:彼はずっと俳人が句を作るように歌を作っている部分はあるんですけど。その中でも、彼の中から自然に出てきて、尚且つ人の心を打つ代表曲ですね。彼の考え方の芯というのが「ひとひら」にはあると思います。

田家:このアルバムはインディーズレーベルのライス・レコードというところから出ておりまして。ギター・ベースで大村憲司さん、パーカッションで斎藤ノヴさんが参加してます。ホームページでこのアルバムについて下田さんがコメントしてるんですが、六本木のクラブで斎藤ノヴと大村憲司と飲んでいてことから始まりました。斎藤ノヴはシモンサイ、大村憲司は山下久美子のアルバムでの作詞で知り合ったと。そういう人と一緒に作ったアルバム。これは福岡でレコーディングしているんですね。当時、下田さんは九州の五島列島に住んでませんでしたか。

寺本:五島列島にも住んでおりましたし、福岡にもおりましたし。居心地良かったんじゃないでしょうか。元々彼は宮崎県出身ですから、血はそこに流れているというのもあるんじゃないでしょうか。

田家:北海道に住んでいたこともありますよね。俳人と仰っていましたけど、種田山頭火みたいなものかと思ったことがありました。それはどこから始まったんでしょう? 『遺言歌~誰にも知られずに消えるしかないさ』のアルバムジャケットを見ていたら、いろいろな方への遺言が全部最後は「それではお元気で、さようなら」で終わっているんですよ。やっぱり何か捨てたのかなって。

寺本:そうですねえ……。でも捨てたものっていうのは、どこかにきちんと捨てないと。そうしないと拾うものも見つからないでしょう。そこには女も含まれるんでしょうけど。やはり大事なことなんでしょうね。やっぱり捨てるからこそ拾うものもある。

田家:単身旅をしながら歌に出会うという生き方になっているんでしょうか。下田さんのホームページのタイトルも「ひとひらコネクション」。私信のような通信があってそれのタイトルも「ひとひら通信」というもので。ひとひらっていうのが重要な言葉なんでしょうね。この曲を聴いていて先ほどの「花・雪・風」と同じ何か、花鳥風月的な何かがあると思って聴いておりましたね。

寺本:なんというか日本人の持ってる侘び寂びとかじゃなくて、そこのもっと奥にある魂の美意識みたいなものが凝縮されていると思うんですよね。もちろん斎藤ノヴと大村憲司も相当いいけど(笑)。やっぱり生まれてくる魂のグルーヴを捕まえるのはやっぱり下田が上手いですね。


映画『火口のふたり』の主題歌になった「早く抱いて」

田家:続いて7曲目。伊東ゆかりさんで「早く抱いて」。去年の8月に公開されてキネマ旬報の日本映画第一位に選ばれた映画『火口のふたり』の主題歌であります。この映画は、毎日新聞の大阪シネマフェスで音楽監督賞を受賞しました。下田さんの曲が3曲使われていて、全体の音楽監督もされている。

寺本:監督の荒井晴彦さんという脚本家は昔から知っているんですけど。下田のある既存の曲から発想するという書き方をする方で、今まで彼の監督したものとか脚本で書いたものとかには下田の曲がいっぱい使われているんですね。今回は究極という言葉を使いたいんですけど、下田の曲を見事に使って出来上がった作品が今回の『火口のふたり』ですね。

田家:この映画は原作がありまして、直木賞作家の白石一文さん。監督が脚本家でもある荒井晴彦さんは1947年生まれ。『Wの悲劇』や『探偵物語』の脚本なんかもお書きになられている方。この映画はいわゆるR-18指定で、濡れ場が多いのですが、その中に社会や政治的な何かが見え隠れするっていう意味では、最近の日本映画の中ではあまり見ないタイプの作品かなと思いましたけど。

寺本:この映画が出来て下田から話を聞いて映画を見に行ったんですけども、その映画がキネマ旬報の一位になるっていうことを聞いた時に本当に嬉しかったんですよ。この前下田のライブに行った時に荒井さんもいらしていて、僕は滅多にしないんですけど走り寄って「すごく嬉しいです!」って言って握手しました。初めてでしたよあんなこと。それくらい、この時代の中でこういうことが起こるっていうのが嬉しいことでしたね。

田家:出演者も男と女の2人だけですもんね。この映画は関東ではまだ公開しております。

寺本:これでもっと映画館も増えるといいんですけどね、もっとたくさん見て欲しいです。

田家:この「早く抱いて」は、オープニングでこの映画の雰囲気を伝える重要な曲として使われております。この『火口のふたり』を、若い頃にこういうのを観たなあって思って見てたんです。後半になって思い当ったのが、若松プロダクションの映画だったんです。終わった後に荒井さんのプロフィールで若松プロダクションにいらっしゃるっていうのを知って、「あ、伝統なんだな」と思いましたね。男と女の崩れる寸前のギリギリの色っぽさ、そしてそれが世の中と関係しているんだという事が暗に分かる、一癖も二癖もある感じ。

寺本:田家さんと今日その話をして、本当に僕は嬉しいですね。この曲がそういう風に聴けるなんてサイコーですよ。

田家:今日は東京キッドブラザースの話もできたし僕も嬉しかったです。というと、ここで終わっちゃいますけど(笑)。お聴きいただいたのは、目下公開中の映画『火口のふたり』の主題歌。伊東ゆかりさんの「早く抱いて」でした。

田家:『J-POP LEGEND FORUM』寺本幸司Part.3、日本の音楽プロデューサーの草分け寺本幸司を特集する1カ月。今週は下田逸郎さんのお話を色々と伺いました。流れているのは、この番組の後テーマ竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。このまりやさんの歌詞で、彼の生き様っていう言葉が出てくるんですけども。下田逸郎さんの生き様っていうとどう話されます?

寺本:人生は旅だって、東由多加とニューヨークに行って。それはもうすごい時間だったと思うんですよ。あの時代にあんな経験をした人はいないでしょう。そういう中からどんどん1人になって、更にそこから始まる旅っていうのが、彼の全ての風景であり情念でもあり、足元でもある。僕もこの番組に出させていただいてつくづくそう思いましたね。

田家:この番組は、分かる人にだけ分かるという話はしないようにと思っているんですけど。それでもいいかなって思う時がたまにあって、今日はそんな感じでした。当時のサブカルチャーのど真ん中にいた人は、その後の自分の時間の中で当時とどう折り合いをつけるのかが大変だったと思うんですね。変わっちゃった人もいるし、変わらない人もいるし、捨てた人もいる。下田さんはその中でそれらを純化し続けてきた人でしょうね。

寺本:今回は僕を特集していただいてこの話をしているんですけど、当時じゃないんですよ。映画『火口のふたり』もそうなんですけど、あの頃のサブカルチャーが今逆に光を放っている時代だという実感があるんです、それが僕の元気の素ですね(笑)。

田家:下田さんの「ひとひらコレクション」にこういう告知がありました。『百億年』という映像作品を作りました。自分の歌物語です。2020年春にはDVDになると。どんな作品なんでしょうね。

寺本:僕はもう見たんですけど巨大な旅番組っていう感じがしましたね。『百億年』の億っていう漢字は記憶の憶だって言っているんですよ、それがいいですね。下田のこだわりと深さのような気がしますね。

田家:来週は寺本さんの中にある、桑名正博さんの記憶を辿りなおして頂きます。


<INFORMATION>

寺本幸司
音楽プロデューサー等。浅川マキを皮切りに、りりィ、桑名正博、下田逸郎など、個性的なアーティストを多く手がける。

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソナリティとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp

「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
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