実現しなかったギアのポルシェ│なぜ出来なかったのか?

この記事は『イタリアン・ファンタジー│ポルシェとイタリアン・カロッツェリアの世界』の続きです。

1956年4月にはセルジオ・サルトレッリという、トリノ工科大学を卒業したばかりの若手が加わった。「ギアでの最初の仕事はサボヌッツィの手伝いだった」とサルトレッリは当時を振り返った。「小さなプロジェクトからアラブの王様のための巨大なクライスラーまで、何でも手がけた。1957年の末、サボヌッツィがギアからクライスラーに移籍した後は、プロトタイプデザインのチーフとなり、1963年の初めまでその仕事を務めた」 
 
1928年生まれのサルトレッリは、プロらしい振る舞いを身に着けた物静かな男だったが、その奥には自動車デザインに対する非凡なアイデアと情熱を隠していた。セグレの下で彼はデザインチーフとして、大手メーカーのために無数のプロジェクトを担当したが、そのうちのごくわずかしか公にされていない。クライスラーとの関係は依然として緊密で、ギアはアメリカのメーカーのためにいくつものプロトタイプを製作した。
 
サルトレッリがギアに加わってからわずか3カ月後、ポルシェはより大型のモデルをラインナップに加えることを決定した。間もなくシュトゥットガルトは外部の才能を利用することも決定、たとえばアルブレヒト・ゲルツは、エルヴィン・コメンダとブッツィ・ポルシェが内部で進めていたデザインコンセプトを発展させる仕事を請けたという。
 
ヨーロッパの自動車業界に有力なネットワークを持つセグレも、ポルシェの計画を見逃すはずはなかった。それはまさにカロッツェリア・ギアに最適な仕事のように思えた。7 年前のポルシェとの関係は、研究のためのもう1台の356シャシーをもたらした。だが今回は4人乗りというだけでなく4ドアモデルだった。ホイールベースを延長したそのランニングプロトタイプは1960年に完成した。


 
ギアの最初の作品は、角ばった真面目なボディのせいでツッフェンハウゼン製というよりもウォルフスブルク製のように見えた。ギアらしい個性はなかったが、もしドイツ流の頑丈さが目的だったのなら、その形は成功と判断されたかもしれない。だが、スピード感と敏捷さは感じられず、小さなポルシェのバッジだけがその中身をうかがわせた。


 
1960年のギア・ポルシェ・セダンのインテリアは粗いツイード地が目立つものだった。356のプラットフォームを活かして室内のフロアはフラットで、四角い形のおかげで実用的なトランクも備えていた。その2年後、ギアは新たなプロトタイプ製作に乗り出す。新型はサルトレッリに任され、彼はあらゆるポルシェの慣例に逆らって、驚くようなスタイルを生み出した。96.5インチ(2451mm)のホイールベースはゲルツの習作よりも2インチ長く、サルトレッリはその上に4ドア車に相応しい広々とした室内を作り、2トーンのベンチシートを据え付けた。


 
ギアの最初の試みはあまり人々の関心を引かなかったが、長く伸びたファストバックのラインと前下がりのフロントを持つ1962年モデルはスピード感に溢れていた。4灯式ヘッドランプはグリルのないフロントにマッチし、6ライトのウィンドウも上級モデルに相応しい雰囲気を演出していた。ノーズからテールランプまで伸びるキャラクターラインは斬新なテール部分に溶け込み、リアウィンドウ下にはリアエンジン用のグリルも備わっていた。ただし、この車は実際には走行できないディスプレイモデルだった。
 
秘密裏に進められ、一切公にはされなかったギアの提案は単なるスタディだったかもしれないが、ポルシェ内製のT9プロトタイプに代わる魅力的な候補になりうるものだった。少なくともそれは刺激的で、アルプスの南から吹き込んでツッフェンハウゼンのデザインを活気づけてくれる新鮮な風だったと言える。ギアの提案に対してポルシェがどのように返答したか、何の説明も記録も残されていない。実際、1962年のギア-ポルシェは遅すぎたのである。1962年の初めまでにポルシェのT7/T9計画は棚上げになってしまっていた。彼らは新しい6気筒エンジンと356のフェイスリフトという大仕事に手いっぱいで、そしてもうひとりの顧客、すなわちVWにはいささか難解にすぎたのである。
 
セグレとサルトレッリの立場からすると、1962年のプロトタイプはギアの技術をアピールする商品見本のようなものだった。ポルシェのシャシーをそのまま使っても、ギアはこれほど先進的なスタイルを生み出せると誇示してみせたのである。たとえば将来のシボレー・コルベアのデザインとしてならば、大いに評価されたかもしれない。