野球殿堂入りが決まり、展示された自身のユニホーム前で笑顔を見せる田淵幸一氏=14日、東京都文京区の野球殿堂博物館

◆ 『男たちの挽歌』第11幕:田淵幸一

 おおっ『がんばれ!!タブチくん!!』だ。

 今年1月、田淵幸一の野球殿堂入りのニュースを聞いて、あの漫画を懐かしく思い出した中年世代も多いのではないだろうか。

 79年11月にはベストセラーとなった、いしいひさいち原作をアニメ映画化、当時の映画雑誌を見ると『戦国自衛隊』『処刑遊戯』『ルパン三世 カリオストロの城』『快楽昇天風呂』といった作品とともに『がんばれ!!タブチくん!!』も特集が組まれている。野球ギャグ漫画らしく、1イニング10分、9イニング(一話10分で完結を9回分)で構成され、主役の声は西田敏行が担当した。

 それまでの野球選手作品のように格好良いシリアス路線ではなく、太って間抜けな愛嬌のあるキャラとして描かれたタブチくんは圧倒的な人気となり、映画は第三弾まで公開、79年から所沢へ移転した西武ライオンズの広告塔の役割を果たす。このモデルとなった田淵幸一は凄まじいスラッガー、いや球史に残るホームランアーティストだった。

◆ 王貞治を止めた男の悲喜こもごも

 法政大時代に身長186cmの大型捕手として22本塁打の六大学記録(※当時)を樹立し、68年ドラフト会議では出身地の東京のチーム、巨人入りを熱望するも阪神から1位指名を受ける。

 悩んだ末に阪神へ入団すると、1年目から22本塁打を放ち新人王を獲得。オールスター戦の9連続三振を達成した江夏豊との黄金バッテリーも話題となった。

 右打席から放たれる打球は美しく誰よりも高い放物線を描きスタンドインが代名詞。4年目の72年には34本、73年の通算100号は長嶋茂雄の504試合、王貞治の563試合を大幅に上回る自身424試合目で達成。74年はキャリアハイの45発、そしてついに75年に43本でセ・リーグ本塁打王に輝く。あの世界の王の14年連続本塁打王を阻止したのは、この男のバットだったのである。

 「1試合3イニング連発」や「巨人戦7打数連続アーチ」と、その規格外の打撃ばかりが注目されるが、捕手としては実は強肩が武器で、4度のシーズン盗塁阻止率5割越えをマーク。72年オールスター戦では全パの福本豊を3度刺したこともあるほどだ。

 一方で怪我の多さにも悩まされ、2年目には左側頭部に死球を受け入院(当時は耳あてのないヘルメットだった)。退院後には、急性ジン炎にかかり今度は80日の入院生活。薬の副作用の肥満にも悩まされた。

 体重増から来る腰痛や捕手の勤続疲労で度々タイトル争いのかかるペナント終盤に欠場したが、それでも田淵は自著『中年・田淵くんの逆襲』(集英社)の中で、「ぼくは肝心なときに怪我をする」なんて、なぜかJ-POPのタイトル風に笑い話にするのである。

 自宅で外国人選手の送別パーティーを開いてやったら、チームを出ることになったのは俺の方、なんつってしっかりオチをつける。田淵はそのスケールと明るさでファンから愛された。


◆ 新興球団での再出発

 78年オフ、10年間も阪神の顔を張りながら、深夜のトレード通告で新興球団の西武ライオンズへ。

直後の『週刊ベースボール』では、盟友・山本浩二のいる広島やライバルチームの巨人といったセ・リーグには出せない。なら、パ・リーグの阪急をと言っても駄目。近鉄や南海もあれやこれや理由をつけて駄目だった。「みんなこういう形で辞めていく。みんな後味の悪い辞めかたをする。これだから阪神OBはみんながみんなタイガースを冷たい目で見るようになるんや」と田淵は珍しく怒りをぶちまけている。

 入団のときは大勢のカメラマンが出迎えた新大阪駅、今度は誰ひとりとして見送るものはいなかった。それでも、新幹線が東京へ近付くにつれ、パ・リーグでいっちょうやってやるかと前を向き、根本陸夫監督率いる西武ライオンズの新しい顔として所沢行きを受け入れ、自分が笑われようが「ファンの人が楽しんでくれるならそれでいいじゃないか」なんて『がんばれ!!タブチくん!!』が大ヒットするわけだ(のちに再婚する女性は野球をほとんど知らなかったが、この漫画で田淵の存在を認識したという)。

 移籍後は指の骨折が肩にも影響し、思い切り送球できなくなっていたため、一塁かDHの起用が中心となったが、80年には両リーグ40発達成の43本塁打を放つ。81年にはゴルフ中の捻挫が笑い話となったが、オープン戦で右ヒザを痛め、シーズンでもそれが完治しないまま出場を続けたら右ヒザ半月板挫傷で戦線離脱。一時は引退も考えるも、34歳の田淵は10月から自主トレを始め復活を期す。


◆ 55発を上回るペースだった引退前年

 この連載は名選手の「最後の1年」を振り返るわけだが、以前取り上げた江川卓や掛布雅之など、昭和の選手ほど引退が早く突然だ。

 あの頃、エースはエースでいられなくなったら、4番は4番を守れなくなったら辞める的な引き際の美学があった(もちろん巨人戦地上波中継やスポーツニュースで解説者が今より稼げるメディア事情も関係するわけだが)。今回の主役もそのケースだ。

 広岡達朗監督のもと、西武初Vを飾った翌83年に36歳の田淵は「中年の星」と一躍話題となる。序盤から、王の持っていた年間55発を上回るペースで本塁打を量産したのである。

 5月前半に4試合連続アーチ、5月後半には3試合連続で4本のホームラン。5月28日には長嶋茂雄の444号を抜く445号を放ち、セ・パ両リーグにまたがる月間MVPも受賞した。6月14日、西武球場の近鉄戦で24号を記録したときには、64年に24歳・の王が55号をマークした時よりもハイペースだった。

 しかし、だ。ホームランキング独走の29本塁打で迎えた7月13日、日生球場での近鉄戦で、柳田豊投手の4球目が左手首を直撃。結局、世の中が注目した55本塁打への挑戦は左手尺骨下端骨折で途切れてしまう。

 それでも83日間の欠場後、終盤になんとか復帰すると、巨人との日本シリーズを4勝3敗で制し、9月に37歳の誕生日を迎えていた田淵は正力賞を受賞。背番号22が一発を放った試合はチームも24勝2敗2分と絶好調で、この年は82試合(349打席)で30本塁打、OPS1.021と凄まじい成績を残している。

 ……にもかかわらず、翌84年に田淵は「最後の1年」を迎えるわけだ。春季キャンプでノック中に後ろのネットが倒れ直撃し、右足アキレス腱部挫創のアクシデント。ちなみに雑誌『現代』で「タブチ君日記」という4コマ漫画付きの新連載が始まっていることからも、当時の田淵人気の高さが窺い知れる。


◆ 来るべき時が来た

 3月中旬には風邪でダウン、開幕前後には花粉症にも悩まされた。5月11日には近鉄の鈴木啓示から通算1500安打を達成。一方で「打球が今ひとつ伸びなくなった気がする」なんて弱音もポロリ。6月7日には広岡監督と話し合いスタメン落ち。『タブチ君日記』には、「ついにオレにも来るべきときが来たのか……。いやいや、そんなことはない。まだまだイケルはず。王さんは40歳までやったじゃないか。オレはまだ37。コージ(山本浩二)もガンバッてる。ネバーギブアップ」という記述が確認できる。

 6月末には一部スポーツ紙で引退報道。7月6日には意地の12号アーチ。その一週間後にはボス広岡の監督推薦でオールスター出場が決定する。甲子園の第2戦では試合前のホームラン競争で10スイング中6本のサク越えで格の違いを見せつけるが、「グラウンドを出るとき、ちょっぴりセンチメンタルになった。これで最後の甲子園だろうなあ」なんて遠回しの引退宣言のような言葉を残している。

 後半戦開始直後のルーキー渡辺久信(現GM)の快投には「19歳、オレの年の半分だよ」と後輩を称えている。なんとなく、前年に通算本塁打で憧れのミスター越え、日本シリーズで悲願の打倒・巨人も果たし、本人も周囲もやりきった感が漂っているような雰囲気すらある。

 そして、9月16日。田淵は雨の夜に根本部長宅を訪ねる。ブラウン管の向こう側には、広島巨人戦が映っていた。阪神を追い出されたときに拾ってくれたのはこの人のおかげだからケジメの挨拶だ。「ついに来るべき時が来ました」という田淵の言葉に、根本氏は黙って頷いた。

 打率.230、14本塁打、55打点。閉幕直前に38歳になったばかり。代打ならまたやれる。だが、背番号22は4番打者のまま死ぬことを選んだ。16年間のプロ生活の最後は84年9月29日、西宮球場での阪急戦で試合後に惜別の胴上げ。NPB歴代11位の通算474本塁打。計6875打席に立ち、犠打は「0」のホームランアーティストだった。


◆ バックアップするほうが好き

 引退直後の『サンデー毎日』(84年12月9日号)独占インタビュー掲載のひと言が、その後の田淵の野球人生を象徴している。

「昔から、次郎長よりか、小政のほうが好きだったんです。誰かを後ろからバックアップするほうが好きだった。だけど前に出されちゃった。オレはイヤだというのに、体の大きさもあって、おまえ行けと後ろからドーンと押された感じなんです(笑)」

 90年からダイエーで監督業をするも成績不振で3年で解任され、やがて文字通り後ろから闘将・星野仙一を支えることになる。

 さて、そんな田淵幸一と入れ替わるように、翌年のドラフト会議で西武から1位指名を受けた右打ちのスラッガーがいる。

 そう、PL学園の清原和博である。


(次回、清原和博編へ続く)



文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)