「グミュント」で偲ぶポルシェが小さな工房だった頃の歴史

ポルシェの心の故郷ともいえるプフォイホーファー・ミュージアムを訪れたロブ・プリチャードは思わず息を呑んだ。そこにあったのは製作途上さながらの、20番目の356、グミュント・クーペだったのだ。

時は1948年秋、オーストリアの小さな村グミュントに、そこだけハンマーの音がけたたまく鳴り響く工房があった。ドア越しに工房の中をじっと見つめる少年がひとり。眼差しの先にあったもの、それが彼の人生を大きく変えることになる。少年の名前はヘルムート・プフォイホーファー。その名は現在、この村のポルシェ自動車博物館の名称となっている。そこはポルシェが認める世界でたったひとつの個人所有のミュージアムなのである。

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第二次大戦が終結したあともなお、ドイツには荒廃した空気がくすぶり続け、ドイツの工業界は厳しい統制のもとに置かれていた。フランスによって拘束されていたフェルディナント・ポルシェの本国送還手続きが完了すると、息子フェリーは父が獄中頭の中に描いていた新たな設計構想を実際に製作に移せる場所を探さなければならなかった。


 
グミュントはかつてフェルディナントが数々の発明品を作っては壊した試験場があった場所。それ時ゆえ他の土地よりははるかに馴染みがあった。そこはヨーロッパでもっとも勾配のきついことで有名なキャツベルグ・パスにほど近く、なにかあればしばしば訪れるほど近しい土地だったのだ。フェリーは、村に投資してくれる企業を誘致することだけが生きがいの村長にコンタクトをとり、いともたやすく古城の麓にある、すでに役目を終えていた製材所を使用する権利を得た。
 
そこで最初の試作車を作るために、かつてフェルディナントと苦楽をともにした300人を超える従業員をドイツから呼び寄せた。その試作車とはミドエンジンの356-001だったのだが、新会社を軌道に乗せるにはそのようなプロジェクトだけでは財政難となるのは必至だったので、フェリーは水力ウィンチを手始めに土地の農家に向けた製品作りを手がけたりもした。さらに、フェルディナントが獄中から解放される頃には、フェリーの設計によるいっそう現実的な356クーペがすっかり製品化への準備を整えるまでに仕上げられていた。


 
最初に直面した問題は、材料となる金属を探すことだった。戦争直後の状況では納得のいく金属材料など手に入るはずもなく、あるのは大量の廃材だけだった。スチールはシャシーを作るのに必要だったし、ボディにはアルミを使いたかった。機械部品はさまざまなVWのクルマや、ポルシェが設計したシュビムヴァーゲンやキューベルヴァーゲンなどから取り出して使うことにした。
 
1.1リッターエンジンは、シリンダーヘッドに手を入れたり2個のキャブレターを装備したりと小さな改良を施した。その結果出力は元の25bhpから39bhpまで向上。今日なら笑ってしまうような小パワーだが、600kgちょうどという軽い車重のおかけで、どのような場面でもVWより優れた性能を発揮して見せた。家族同然の会社はこうして48台のクルマを製造し、1949年の暮れに故郷シュトゥットガルトに移っていった。ここで過ごした日々は安らぎのひとときだったと彼らは言うが、これもポルシェの歴史のひとこまなのである。



グミュントの工房はそれ以後ポルシェの活動の場となることはなく、もぬけの殻の状態がずっと続いた。だが、ヘルムート・プファイホーファーは大人になっても1948年に見た工房の中で行われていたことを忘れることはできなかった。製作途上の356が何台も並んだ姿は、まるで宇宙船のようにそれまで見たこともないものだったからだ。当時のこの村には、クルマなどたった4台しか存在しなかったのだから無理はない。
 
彼はその後古物商の仕事に就くが、そうなったのもあの日のポルシェの記憶が脳裏に焼き付いていたからにほかならず、冊子、ポスターからおもちゃ、スペアパーツまで、ポルシェに関するものならありとあらゆるものを集めまくった。それから20年、彼は自分にとって初めてのポルシェを手に入れることになる。その最初のポルシェはシュトゥットガルトで作られた356だったが、すぐに550スパイダーやたくさんの356クーペ、カブリオレが仲間に加わった。コレクションの頂点は1972年にやってくる。

きわめて稀少なグミュント製の1台である製造番号20の356を購入したのだ。それはまさしく少年時代のあの日、工房の中に並んでいたクルマそのものである可能性が高く、ヘルムートにとってそれは特に重要なことだった。


 
その356は何年も走らせておらず、彼が保管されていた納屋から引っ張り出したとき、すでにボディは腐食が進み始めていた。初期のグミュント製356を所有する人は多くが後期型のバンパーやライトに交換し、少しでも新しい仕様に近づけようとしたが、このクルマにそうした交換の跡が見られなかったのは幸いだった。彼は状態をもっとよく見るためにメタルの素地が出るまで塗膜を剥いだが、そうすることで少年の頃に見た記憶そのままの姿になった。当時のままの姿は、このクルマに何事も起きていなかったことを物語っているようだった。
 
ヘルムートは1960年代から70年代の間、すべての資金を古びた保管庫を維持することに注ぎ込んできた。しかしコレクションの数が収容の限界を超えると、より広いスペースを確保しなければならず、妻の助言もあって新たに建物を買い、それをミュージアムとすることにした。


・・・次回へ続く