『映像研には手を出すな!』を観ながら、ふたつの歌合戦について考える

【コラム】現実逃避に首ったけ⁉  
(5)アトムの子=日本人だからこそ、妄想の平和活用を‼ 

年末に考えたことを書こうかと思ったのですが、1月5日からのNHKアニメ『映像研には手を出すな!』がよかったので、その話を含め、とりあえずここしばらくのことのメモを、備忘録のように列記していきます。

 【メモ1】しばらく説明が多くて停滞していたマンガ『進撃の巨人』だが、コミックス最新30巻が、すごく面白くてワクワクした。加害(者)と被害(者)の立場が、時間・場所・関係・視点によって、この巻1冊のなかでもぐりんぐりんと変わり続けていて、「正義」を強弁することのうさん臭さが実感できる。この数巻、組織とか国とか軍とか集団を題材にしていて、隔靴掻痒な展開だったが、個人の内面にフォーカスが当たっているせいで、いろいろ届いてくる。

 そこから「中二病」について考える。私が中二のころは「中二病」とか(いわんや厨二病をや)、「引きこもり」や「メンヘラ」なんて言葉は無かった(やっぱりエヴァのシンジ君が同表現の発生源だとしたら、それでもすでに四半世紀前の時間が経っているのだが)。しかし、中二病的感性は昭和からまちがいなくあった。日本人はつねに「宮沢賢治」と「太宰治」両者の不安と惑いが大好きで、それが「中二病的根源」だ。それに思春期特有の自己本位な「暴力・破壊衝動」をふりかけると中二病はぐっと悪化して宿痾になる。むかしからSF関係の格言として「SFの黄金時代は12才」と、読者年齢について言われているが(こちらはアメリカ発)、その、妄想が健全に成立する「黄金の12才」から、2年の思春期にまみれ、性欲に直面して腐ったのが「中二病」。つまり妄想に暴力志向が加わってしまった後、どうやり過ごすのかという「青春の課題」なのだが、小児喘息が幼少期に治癒するひとと、後々までの疾患となってしまう人がいるように、大人の中二病はこれからもどんどん増えていくだろう。

 【メモ2】嫌いな言葉、聞くとイライラする言葉、絶対自分では使わない言葉というのはいくつかあるが(皆さんありません?)、芸能界の人が使い始め、いまでは一般人も使う「ツメアトを残す」という言葉が、とても引っかかる。何故だろうと考えてみると、同様の言葉は、かつてなら「結果を出す」と表現されていたのだが、いつの間にか、厳然として客観的な「結果」ではなく雰囲気にちかい「ツメアト」という曖昧で主観なものにすり替わっているのが気持ち悪いのだ。

 その場の「結果」とその後の「評価」にズレのある芸能の世界で、何かから目をそらしながら、何かを強要しているようなおためごかしと洗脳のための表現のように聞こえてしまうためだろうか。だって受験(などの成否が明快なとき)に、「ツメアト」を残してこい、残してきますなんて言わないでしょう。私の不確かな記憶によれば、この表現のでどころが、最近YouTubeに出た島田紳助や松本人志など、「M-1」「すべらない話」「IPPONグランプリ」と競技化志向の強かったふたりの周囲だったような気がして、そこにもまた違和感を感じる。いやいやこれ以上書くと「メモ」のレベルを超えてしまうので、この項は一区切り、またいつか機会があれば。

 【メモ3】年末に読んだマンガでは、大島弓子の『キャットニップ(3)』がすごい。大島さんのマンガはそれこそ40数年前、中二のころから愛読しているが、現在刊行中の『キャットニップ』はエッセイマンガなのだが、この前の2巻から、いろいろな猫たちの病気、苦難、死を繰り返し、全頁にわたって淡々と描かれており、少女の姿をした須和野チビ猫の『綿の国星』から、擬人化されていない『グーグーだって猫である』を介して、ここまで至っている経緯を考えると、川端康成の『末期の眼』を軽々と超えているのが分かる。比類なきコミックである。仏たちが生命を踏みしめながら更新していく、山岸凉子『日出処の天子』のワンシーンが脳裏をよぎる。キャットニップは西洋マタタビと呼ばれるハーブ、医療用大麻の是非があたまに浮かぶ。


 【メモ4】紅白歌合戦で「ひばりAI」が歌うのを視聴する。グッとくる。画像はそれほどではないが、歌は正真正銘美空ひばりの新曲に聞こえる。ユーチューブの日本コロムビアの公式で、その曲『あれから』を流し、北野武(72才)、リリー・フランキー(56才)、EXILE ATSUSHI(39才)、指原莉乃(27才)、村上虹郎(22才)、中島セナ(13才)といった人々が聞いている映像を見る。当然もっとも年長で死にかけた経験(数度)もある武が感極まっているが、若年層にもなんらかの感情がわいているようにも(映像では)見える。これは何なのだろう。人は「死」の姿を視野に捉えた瞬間から(当然個人差があるだろうが)、懐かしいという感覚=ノスタルジーを実感する。「昔はよかった」と「明日はいい日に違いない」の相克が人生なので、年齢差60の6人にその「あわい」を、(その濃密さの差はあれど)届けることのできた(ようにみえる)のは美空ひばりという生命体の凄さなのか、それともそれを再生させた現在のAI技術の凄さなのか? もしくは文化的遺伝子(ミーム)や集合的無意識に接触したのか? 一時期「不気味の谷」という言葉が喧伝された。視覚反応で、ロボットなどが人間の姿に似せられていった時の違和感をそう表現したのだが、今回の場合はどうだろう。懸命にも、だれも画像については言及していないようだ。それほど大したことはない、ゲームの3Dくらいに落とし込まれている美空ひばり像は変に立体にしていないので救われた気がする。5年前に物故した浪速の名人落語家・桂米朝を模した 米朝アンドロイド(こちらは生前のうちに作成されたのだが)のようなひばりアンドロイドだったら興ざめだったはずだ。そこで気になるのが、聴覚反応だ。俗にいう絶対音感を持っている人にとっては、「音の不気味の谷」というのはないのだろうか。気にかかる。しかし今回のことで、SF作家フィリップ・K・ディックが『ブレードランナー』の原作小説中で登場させたバーチャル宗教「マーサ教」のようなものがとてもリアリティをもってしまった(とくにNHKスペシャルを見てしまうと。まさに『日本人はAIひばりの夢を見るのか』だ)。これは良いことなのだろうか? 秋元康は丸顔小太りのメフィストフェレスなのではないのか? 

 【メモ5】アベマTVで、ももいろクローバーZの『ももいろ歌合戦』を鑑賞する。ももクロのファンになったのは、ちょうど「Chai Maxx」のMVがネット上で視聴できるようになってしばらくしてからで、「クイック・ジャパン」がももいろクローバー(Zではない)の特集を初めてやった直前。2011年の初春。吉田豪氏がラジオなどで、最も、ももクロをおしていた時期で、吉田氏にラジオやほかでももくろについて言及・執筆したものをまとめて、ももクロ本ができないかという提案をし、そちらではなく『サブカル・スーパースター鬱伝』の単行本を編集したのでした。同書はサブカル関係者は40代で鬱になるといった本で、ちょうどその時期40代後半だった私は「鬱」予感を、ももクロちゃんたちを、勝手に「未来の希望」とすることで、回避していたのだと(今となっては)思います。ある種の鬱は、「昔はよかった」と「明日はいい日に違いない」の相克の過程で、「明日はいい日」が負け始めたとき、「未来の希望」が減少・摩滅によって発生するのです。

 そう、大切なのは「希望」なのです。

 人には「希望」が必要なのであり、もっといえば自分が他人の「希望」になりたいのです。
満足というのは「希望」になれた瞬間に訪れるもので、そこに手が届いていず、それを認めたくないものが『俺はまだ本気出してないだけ』とつぶやいて、目をそらすのだ。

 そしてアイドルはそこに存在することで、他人の「希望」になれる者のことをいうのです。
以前、モノノフはももクロに性的な欲望を感じないと、さまざまな表現で強弁してきました。それは性的な存在として対峙してしまった段階で希望ではなく欲望の対象になり、ガチ恋妄想の成就にしか「幸せな未来」が想定できなくなるからです(そうでないと、常に目が離せない絶望供給源になってしまう。だから恋愛感情は面倒くさい)。だから「応援」という言葉が流通し始めたのです。

 走っていくその背中、もしくはくるりと振り返った時に背負っている陽の光をみたいのです。

 性的なメッセージをデビュー時から欠落させてきたももクロとその運営は、逆に「昔はよかった」というメッセ―ジをつねに送り続けています。そうやって「昔」を常時補給することによって、日々変質し拡大している「不安な明日」との天秤がかたむいて、すべてがひっくり返らないようなバランスを保っています。その集大成のようなイベントが「ももいろ紅白」で、先述の「AIひばり」とは、手法も放送媒体もちがうけれど、同じ時間の裏表で「過去と未来の共存」を測っていたことが分かります。過渡期だぜ、令和。


 【メモ6】昨年の1月は病院のベットで、アニメ『どろろ』に熱中していました。手塚治虫のテーマを誠実に掘り下げた傑作悲劇から漂う「死」のにおいに引き付けられ、暇を持て余していたのもあって、海外のアニメ実況ユーチューバーたちが、「善悪」を明快としようとする一神教では、納得しづらいだろう『どろろ』の展開に、ヒ―とか悲鳴をあげながらも魅入っている姿を楽しんでいました。

 アニメージュ編集長時代、海外の方々に「日本のアニメーションはなぜテーマが深く、エロティックで印象に残るのか」とたびたび聞かれましたが、つねに「それは敗戦国家・日本に手塚治虫がいたからです」と答え続けていました。敗戦の現実を、ほかの誰も比肩できない強靭な「妄想力」で上書きしようとしたのが手塚治虫であり、それが妄想に過ぎないことを自覚しているがために「悲劇性」を加えざるを得なかった、多型倒錯の巨人が手塚治虫なのです。

 『どろろ』から1年。病院から離れた私が、令和2年1月に引き付けられたのはNHKアニメ『映像研には手を出すな!』でした。原作漫画はもとから好きで読んでおり、ストーリー途中に挿入される設定画の素晴らしさに感嘆していたのですが、これほどワクワクするアニメーションになるとは予想だにしていませんでした。そうか、設定画は挿入されたものではなく、こちらも主旋律なのだ! 監督は天才アニメーターであり、個性あふれる演出家、すばらしい『クレヨンしんちゃん』を数々生み出した湯浅政明。

 日本のアニメは大きく分けると「虫プロ」と「東映動画」に二分化されます(ほかタツノコ系もあるのですが)。前者は「テーマ性・キャラクター性の魅力」を、後者は「動きの快楽」を中核にして、発展していきました(もはや今では混ざり合って、単純に峻別ができなくなっているのですが)。

 東映動画系のシンエイ動画で能力をふるった湯浅監督が手掛けた『映像研』は、作中で『未来少年コナン』のシーンを引用しながら(NHKありがとう)、主役たちがティーンエイジャーの少女たちであるということもあり、妄想&創作することを「希望」の一点に押しとどめる、「アイドル」と称しても良い作品になっていました。昨年とメンツはあまり変わらぬ、海外のアニメ実況ユーチューバー達の顔には多幸感があふれていました。病後にスキップは踏めなくなっても、小走りくらいまではできるようになった私の顔にも、彼・彼女らと同じ多幸感が現れていれば、幸いだなと思いました。

 みなさん、妄想とは誠実に、前向きにうまく付き合っていきましょう。
 山下達郎『アトムの子』をBGMに。