J-POPの歴史「1986年と1987年、新しい扉が開いたロック元年」

音楽評論家・田家秀樹がDJを務め、FM COCOLOにて毎週月曜日21時より1時間に渡り放送されているラジオ番組「J-POP LEGEND FORUM」。

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2019年12月は「80年代ノート」というテーマで、1980年から89年までの10年間を毎週2年ごと語るスペシャルマンス。様々な音楽が生まれていった80年代に何があったのかを語った本特集を、5週にわたり記事にまとめてお届け。第4回目となる今回は、新しい扉が開きロック元年と言われた、1986年と1987年。

Vol.4 1986年~1987年

THE ALFEE / ROCKDOM-風に吹かれて-


こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは、1986年9月に発売になったTHE ALFEEのシングル「ROCKDOM-風に吹かれて-」。86年11月に出たアルバム『AGES』からお聴きいただいています。ROCKDOMという言葉は、ロックそしてフリーダムという2つの言葉から作った高見沢(俊彦)さんの造語ですね。アルバムタイトルの『AGES』というのは、世代とか時代、そういう意味があります。彼らにとっては初めてのコンセプトアルバムでした。今日の前テーマはこの曲です。先週、80年代の中間点を過ぎました。そこからさらに新しい世界、新しい扉が開いていった。そんな2年間です。

どんな新しい扉が開いたかといいますと、1つはライブですね。ロックのコンサートが一気に大規模化しました。先週初めて国立競技場がコンサートに使われた「ALL TOGETHER NOW」の話をしましたね。そして吉田拓郎さんがつま恋で3回目のオールナイトをやった。その両方のライブに登場していたのが、このTHE ALFEEです。で、THE ALFEEが86年の8月3日、東京湾のベイエリアで行なった野外コンサートが「TOKYO BAY AREA」。史上初めての10万人コンサートだったんですね。アンコールで初めて披露されたのが、「ROCKDOM-風に吹かれて-」でした。俺たちの時代を忘れないで。1969年のことをそう歌っています。

70年代はみんな自分のことで精一杯で、自分たちの時代がどうなっているとか、自分たちの青春を次の下の世代にどう歌うか全然余裕がなくて必死だったわけですね。でも80年代に入って、みんなそれぞれ花が開いて余裕もできて、自分たちの青春ーー60年代70年代のことを今の若い人たちに向けてこんなふうに歌いたいという想いが出てきた。この歌もそんな1曲です。10万人という数を初めてみたのがこのコンサートですよ。すごかったですね。フラットな会場でしたので、1番後ろにいると、はるか先にステージがあったという記憶があります。今だから明かしますが、帰りが混雑しそうだなとアンコール最後まで待たないで、これを聴きながら帰った覚えがあります(笑)。80年代後半、見たことのないコンサートが次々に行われた時期でした。

そんな時代の主役の1組をご紹介します。HOUND DOG、1986年8月発売「ROCKS」。

HOUND DOG / ROCKS




HOUND DOGの功績とは?

ヴォーカル大友康平さん、ギター八島順一さん、西山毅さん、キーボード蓑輪単志さん、ベース鮫島秀樹さん、ドラムブッチャー(橋本章司)さん、日本のロックの大衆化、広がりの上で、HOUND DOGの功績は大きかったですね。86年から88年にかけて彼らはツアー「Bloods LIVE Concert Tour 1986-1988」を行いました。足掛け3年、203本ですよ。すごかったです。1年中どこか旅をしてライブをやっていましたね。

85年、86年に西武球場がありました。大阪球場もやりましたね。そして武道館を15日間やったんですよ。これはおもしろかったですよ。僕らは取材陣でしたから、行けた日、行けなかった日で星取表を作ったんです。「俺、8勝7敗」とか「俺、6勝9敗」とか、そういうことをみんなでおもしろがっていました。僕は8勝7敗でした(笑)。ツアーの間に伝説のイベント「BEAT CHILD」がありました。「広島ピースコンサート」もあったんですね。HOUND DOG、拳を振り上げるロックの形を作りましたね。87年ロック元年と呼ばれました。HOUND DOG、残念でしたね。1番見せてはいけないものを見せて終わってしまった。そんな感じです。

尾崎豊 / Freeze Moon


1985年11月28日に発売になった3枚目のアルバム『壊れた扉から』の中に入っていました。この発売日は10代最後の日でした。11月14日、15日に代々木のオリンピックプール第一体育館、いまの国立第一競技場で「LAST TEENAGE APPEARANCE」というライブがありました。10代最後のライブでした。この曲の、なんだったんだこんな暮らし、なんだったんだこのリズム、っていうところが衝撃的でした。自分の歌の中で自己否定してしまう。すごいなと思った記憶があります。代々木の「LAST TEENAGE APPEARANCE」の打ち上げのシーンが鮮烈でした。彼は「音楽業界に革命を起こします」って言ったんです。19歳ですよ。彼の純粋な気持ちがその後、いろんな形で彼が裏切られたと思う場面が出てきたり、いろんなことで猜疑心にかられたりすることがあの結末につながっていってしまうんですけど、このときの尾崎さんは本当に純粋だったと思います。

先週、大阪球場の話をしました。その中で話し損ねたことがあるんです。大阪球場でのライブが終わりました。大阪球場は70年代に西城秀樹さんがやっていましたけど、尾崎さんはデビューしてから最速の、そしてシンガーソングライターとして、もっとも若い球場ライブだったんですね。周りは「よかったよかった」と盛り上がっているんですけど、関係者控え室というか通路のようなところにみんな集まっての打ち上げで、尾崎さんも缶ビールを持って、1人歩み出ていきなり缶ビールを頭からかけて「ミュージシャンはどれだけ歌えば幸せになるんでしょうか」と言ったんです。この話、僕は尾崎さんのことを話すときには触れるようにしてるんですけど、こういう青年は初めて見たという感じがありましたね。ライブにお祭りごとを求めていないんだな、この人はっていう。

「LAST TEENAGE APPEARANCE」の後、86年の1月1日に福岡国際センターでライブをやって、そのあと活動休止してNYに渡ってしまうんです。80年代半ば、NYは劇的な街でしたね。次のバンドもNYに縁の深かったバンドです。86年に解散しました。甲斐バンド、武道館の解散コンサートのライブアルバム『THE 甲斐バンド FINAL CONCERT "PARTY"』から「ラブ・マイナス・ゼロ」。



甲斐バンド、解散コンサートの裏側

「ラブ・マイナス・ゼロ」は、85年に出たオリジナルアルバム『ラブ・マイナス・ゼロ』のタイトル曲ですね。ニューヨーク三部作と言われた3作目です。この3枚の中では1番洗練されているいいアルバムでしたね。「ラブ・マイナス・ゼロ」という言葉は、ボブ・ディランの曲のタイトルにもありますけど、当時のメディアは、自分も含めて、そういう音楽的な評価がちゃんと出来ていなかったとちょっと胸が痛いところもあります。甲斐バンドというと、いまだに「HERO」と言われるものに、甲斐さんは忸怩たるものがあるだろうなと思いながら見ております。

86年3月に最後のアルバム『REPEAT & FADE』が出たんですね。これは2枚組で、メンバー4人がそれぞれ片面ずつをプロデュースするっていう、本当にこれからそれぞれ別の道をゆくことを表したいいアルバムでしたね。で、86年6月23日から武道館5日間解散コンサート『PARTY』をやりました。解散コンサートなんだけどパーティっていう、彼のスタイリッシュな、ちょっと気取ったというんでしょうか、お涙頂戴にならない一つのお手本になったような解散コンサートでしたね。この3日後に黒澤明さんのプライベートスタジオ、黒澤フィルムスタジオでオールスタンディングのシークレットギグというのを行なったんです。これもお客さんに正装で来てくれっていうライブだったんですよ。スタイリッシュでしたね。ゲストに中島みゆきさんと吉川晃司さんが出ました。みゆきさんと甲斐さんが「港から来た女」という曲を一緒にやりました。

甲斐バンドの解散がありました。そして、シークレットギグが終わりました。その2日後が、初めてのBOØWYの武道館だったんですよ。86年は3月に『JUST A HERO』が出て、11月にミリオンセラーアルバム『BEAT EMOTION』が出る。甲斐バンドからBOØWYに流れていった。時代の変わり目に立ち会ったという感覚がすごくありました。甲斐バンドはどこか60年代70年代のウェストコーストだとか、イギリスのロックバンドのビートに影響されているんですけど、BOØWYはそういう感じが一切なかった。ポストパンクになった、ニューウェイブになった、うわー時代が変わった、ビートが変わったというふうに思いました。

今月ずっとそうなんですが、とてもプライベートな80年代なので、登場している人たちがあまり代わり映えしないというと変なんですけど、テレビでいっぱい歌っていた人とか、誰もが知っているヒット曲とは違うひとつの流れになっているのですが、それはご了承ください。ということで86年夏といえば、このアルバムなんです。1986年9月に発売になりました。浜田省吾さん『J.BOY』から「八月の歌」。

さっきNYの話をしましたけど、『J.BOY』のレコーディングは日本で行われて、ミックスダウンはロサンゼルスで行われました。エンジニアがグレッグ・ラダニーさんという、ジャクソン・ブラウンをずっとやっていた人なんです。アルバムは2枚組で、C面に彼のデビュー曲の「路地裏の少年」を軸に70年代の青春をそこに織り込んだ。「路地裏の少年」は、ライブではもっと長いサイズで歌っていたんですね。それをフルコーラスで、まんま入れたんです。そこに未発表だった「遠くへ - 1973年・春・20才」という当時の大学のキャンパスの様子を歌った歌を交えました。でも、1曲目が「A NEW STYLE WAR」。新しい戦争です。今の時代の歌。1986年の時代をに踏まえながら自分たちが過ごしてきた青春を改めてそこに織り込んだアルバムになっています。で、このアルバムが初めて1位になり、5週間1位を記録しました。

浜田さんは広島出身です。被爆二世です。8月になると広島はいろいろな語られ方をしている。常に被害者と書かれることに対しての、広島の人のいろいろな想いがある。日本は戦争の加害者でもあったわけで、広島を被害者という扱いだけでいいのか、そんなことをこの歌の中にも込めているんですね。ロックで戦争を扱っている。80年代に入ってから、そういうメッセージソングが歌われるようになった。この「八月の歌」は、戦争っていうのは加害者と被害者常に両方いて、誰にもどちらの面もあるんだということを歌っている。そういう意味では、とっても画期的な歌だなと思った記憶があります。

また、グレッグ・ラダニーという人はジャクソン・ブラウンをやっていたので、「路地裏の少年」のロングバージョンが流れたときに、ジャクソンの「Lawyers in Love」みたいだなと言ったんです。「Lawyers in Love」っていうのは、ジャクソン・ブラウンの当時の比較的新しい曲だったんですけど、僕らは「路地裏の少年」のほうが先なんだけどな、とはっきり思っておりました(笑)。

中村あゆみ / ONE HEART




中村あゆみの取材で向かったニューヨークでの体験

1986年12月に出たミニアルバム『Holly-Night』の先行シングルが「ONE HEART」ですね。先週、1985年を語ったとき、人生で1番忘れられない1年だったと言いましたけど、実はもう1年ありまして。85年、86年というのがワンセットみたいなところがあるんですね。なんでかというと、これも私ごとですが、86年に40歳になりました。40歳というのは、拓郎さんがひとつの目安にしていたり、70年代に音楽を好きだった人間にとって特別な年齢だったんですね。達郎さんも、インタビューで「40歳になったら現役なんかやっていなくて、レコード会社の部長さんとか裏方で収まっているんだろうな」って、よく話していたんですけど、40をどう迎えるかっていうのがあったんです。僕は40歳になるとき、NYに中村あゆみさんの取材で行くことになった。そしたら、成田空港で尾崎豊さんに会ったんですね。ちょうど帰国していて、またNYに帰るときで、同じ便だった。彼が「オーマイガー」ってアメリカ人みたいに両手を広げて「どこに行くの?」「あゆみちゃんの取材に行くんだ」「じゃあ向こうで会おうよ」っていう会話があって向こうに着きました。

あゆみさんのアルバムのスタジオに入って壁にかかっているゴールドディスクを見て心臓が止まりそうになりました。ジョン・レノンの『ダブルファンタジー』をレコーディングしたスタジオだったんです。エンジニアが『ダブルファンタジー』のアシスタントディレクターだった。インタビューが終わって雑談になって、トム・ペナンツイオという人に1980年12月8日の話を聞かせてくれないかと言ったんです。そしたら彼が「君がいま座っているその椅子にジョンはずっと座っていて、冗談ばかり言っていたんだよ」と。そのあと「じゃあな」ってジョンがスタジオを出て帰って行った何分後かに、そこのテレビのニュースでジョンが死んだと流れていた。ジョン、またこんな冗談を……って言っていたら本当だった、という話を聞いたんです。俺はジョン・レノンが死ぬ直前までいたスタジオで40歳を迎えているんだと思ったときに、人目をはばからず泣いてしまいましたね。

このとき、NYに中島みゆきさんが甲斐よしひろさんのプロデュースのアルバムで来ていたんです。さらにSIONもレコーディングで来てた。SIONと一緒だったのが、この「J-POP LEGEND FORUM」プロデューサーだった加藤与佐雄さんだったんです。与佐雄さんは尾崎さんのラジオ番組「誰かのクラクション」のディレクターでしたから、彼と一緒に尾崎のところに行こうよと言って、尾崎さんが住んでいたアパートに行ったんです。で、尾崎さんが、あゆみちゃんを紹介してよって言いうんで、イーストビレッジの朝までやっているバーに行きました。あゆみさんと尾崎さんが2人で話し込んでいるのを、あゆみさんのマネージャーと僕は遠くで見ているという、そういう夜でした。自分が関わったり、好きだったアーティストたちが偶然にもNYにいて、そこで自分の40才の誕生日を迎えている。音楽に関わっていて本当によかった、自分が間違ってなかったと初めて思えたのがその時でした。帰りの飛行機が燃料不足でアンカレッジに緊急着陸したときはこのまま落ちるんじゃないかと思いました。そのときに中島みゆきさんが作業していたアルバムからお聴きいただきます。

1986年11月発売、中島みゆきさんのアルバム『36.5℃』から「やまねこ」。

プロデュースが、甲斐よしひろさん。ミックスダウンがNYで行われました。ファンの間で、86年当時のみゆきさんは、姫御乱心と言われています。彼らにすればなんでそんなにロックに行きたがるんだろうと思っていた時期なんですね。外国人のエンジニアを起用したり、いろんな試みをしていた時期です。それを一通り経験して瀬尾(一三)さんと出会って、組むようになるのが88年。来週の話ですね。そういう意味ではみんなロックを意識せざるを得なかったという時代でした。「ウィ・アー・ザ・ワールド」があったり、「ライブエイド」があったり、それまでの70年代のロックとは違う新しい意味をそこに求めようとしていました。デジタルの時代になって、スタジオも変わり、レコーディングの方法も全然変わり、それまでの音とはガラリと変わってしまったんですね。そういう音楽を取り込まないと時代から取り残されるんではないか、遅れるんじゃないかということを、みゆきさんは真剣に考えていた。

87年は、ロック元年というふうに言われたんです。もちろんそれまでずっとあったんですけど、ここから新しい何かが始まるとみんなが思っていた。ロックに意味を求めるようになったんですね。それまでと違うロックが俺たちで作れるんじゃないか。その一つが87年の夏に広島で行われた「ピースコンサート」。被爆者支援、10年がかりで養護施設を立て直そうというはっきりした目標があって、それに向けてみんなでお金を集めようという、チャリティコンサートの中では日本であまりなかった形ですね。さらにこれをみんなで提唱した事務所が大同団結していた。マザーエンタープライズ、ハートランド、ジャグラー、ユイ音楽工房、キティミュージックという業界の大手がみんな集まってこれを成功させようとしたんですね。どんなアーティストがいたかというと、マザーエンタープライズはHOUND DOGに尾崎豊、RED WARRIORS、THE STREET SLIDERS、ハートランドには佐野元春さん白井貴子さんがいました。そして若きヒロインがこの人でした。

86年6月発売。年間チャート5位。渡辺美里さん「My Revolution」。

渡辺美里 / My Revolution




伝説のオールナイトイベント「BEAT CHILD」

さっき事務所の紹介の話が途中で終わっちゃいましたけど、ジャグラーはTHE BLUE HEARTS。そしてユイ音楽工房はBOØWYですね。キティエンタープライズからは安全地帯が広島ピースコンサートに出ていましたね。ピースコンサートのフィナーレで美里さんが歌っているとき、後ろに尾崎さんが回り込んで美里さんを抱え上げたというシーンがありました。美里さんは「やめてやめて」とバタバタしながら慌てていた。そんな微笑ましいシーンもありました。それが87年ですね。

美里さんは「My Revolution」がヒットした86年から西武球場のライブを始めたんですね。20年間やりましたよ。世界的に多分あまり例がないでしょうね。そんな87年のハイライトが、8月23日からオールナイトで熊本県阿蘇山の山中、アスペクタという野外劇場で行われた「BEAT CHILD」ですよ。名付けたのが佐野元春さんですね。出演者は、佐野元春さん、白井貴子さん、渡辺美里さん、岡村靖幸さん、HOUND DOG、尾崎豊さん、RED WARRIORS、THE STREET SLIDERS、THE BLUE HEARTS、BOØWY。お客さんが6万7千人です。そして、豪雨だったんですよ。時間降水量70ミリ。山の斜面で何の雨を遮るものもない。そこが濁流と化したんですね。客席が濁流に飲まれて、低体温症で気を失ったお客さんが流されてくるっていう本当に戦場のようなライブだった。



1000人以上が救急車で運ばれましたね。警察がいたんですけど、主催者に続けてくれっていったんです。なんでかというと、斜面の両脇は渓流ですよ。中止してしまって行き場を失ってしまったお客さんがこの谷に飲まれたら死人が出るみたいな感じになってしまって、朝までライブをやってくれと。限界状況ギリギリの中でのライブが続きましたね。一晩中コンサートが続いた最後が佐野さんだったんですね。明け方、客席に湯気が雲のように立ち上っているんです。それはお客さんの体温、湯気だった。今の夏フェスの反面教師でしょうね。それもひとつの新しい波の象徴的な場面だった。そういう新しい波はライブだけではなくて、レコード会社にも形になって現れました。エピックソニーというのがそういう会社ですね。

TM NETWORK / Get Wild


1987年4月に発売になりましたTM NETWORK「Get Wild」。TMのデビューは84年ですね。シングル「金曜日のライオン (Take it to the Lucky)」、そしてアルバムは『RAINBOW RAINBOW』。ずっとお話してきたように、大規模なライブがたくさん行われて、本当にライブシーンが盛り上がった中、彼らはライブをやらない。そういうデビューだったんです。今のライブの機材とか環境では自分たちの音楽は再現できないといっていました。彼らが掲げていたのは、「FANKS」という旗です。パンクとファンク・ミュージックのファンクと音楽ファンのファン、その3つを掛け合わせた造語ですね。小室哲哉さんも造語作りの名人でしたね。

TM NETWORKもエピックでした。エピック、いっぱいいましたよ。佐野元春さん、鈴木雅之さん、渡辺美里さん、TM NETWORK、大沢誉志幸さん、バービーボーイズ、大江千里さん、さらにTHE MODS、みんなエピックですよ。70年代にURCとか、エレックとか、ベルウッドっていうインディーズ系のレーベルがありましたけど、エピックはソニーという大メジャーの中でのロックに特化したレーベルですからね。影響力は70年代のそういうレーベルの比ではありませんでしたね。

TM NETWORKは、コンピュータを使ったダンスミュージックという意味で新しい流れでした。その前にYMOがあって、とっても実験的な形で幕を閉じた。それを継承する形で大衆的なポップミュージックの中に花を咲かせた。これはTMの功績ですね。ただ、年間チャートとかヒットチャートでは、今日ずっとお話してきたような人たちはあまり登場してきていないんです。やっぱり86年87年のシングルチャートはテレビにたくさん出てくる人や演歌や歌謡曲の人たちが頑張っていましたね。86年は桑田さんのソロのKUWATA BANDが「BAN BAN BAN」で4位に入ったりもしている。健闘している人たちもいました。中森明菜さんなんかは、特に87年、そういう中に4曲入れていましたからね。で、87年は桑田佳祐さんが初めてソロで活動を始める。そういう年でもありました。

さて、この87年の年間チャート、「Get Wild」の上にいたのが次の人たちなんですが、このライブの話をしましょう。

BOØWY / Dreamin




BOØWYの渋公ライブで起きた「ロック史上、劇的な瞬間」

1987年12月24日、BOØWYの渋谷公会堂、アンコール最後の曲「Dreamin」です。BOØWYは9月に6枚目のアルバム『PSYCHOPATH』を出して、9月16日からツアーに出ていました。ツアーが始まったときから、ひょっとして解散するんじゃないか、という噂がずっと流れていて、ツアーファイナルを迎えてしまったんですね。渋谷公会堂、中で何かが起きているということで集まったお客さん1000人ぐらいが中に入ろうとして渋公の正面玄関が割れたという、そういう出来事がありましたね。実は、このコンサートを僕は見ていないんです。見ていないっていうよりも、見せてもらえなかったと言ったほうが正しいかもしれません。お声がかからなかった。僕はこの日、RCサクセションの武道館。BOØWYは自分たちのインディーズの事務所から始めていてるバンドですから、最初から関わっていた人たちでやりたいというある種誓いみたいなものがあった。僕はちょっと歳が上でしたし、甲斐バンドとか浜田省吾さんとか、そういう人たちを書く機会が多かった。土屋さんというマネージャーがいました。のちに「氷室がソロになるので、これからよろしくおねがいします」とLAST GIGSの後に連絡をくれるんですが、そのとき土屋さんに「俺、渋公見てないんだけどいいのかな」って言ったら、「いやいいんです。田家さんはおじさんだと思っていましたからお呼びしませんでした」ってはっきり言われました。「これからはそういう人たちともお付き合いしたいのでよろしくお願いします」と。BOØWYはそういうバンドでした。

ロック史上、劇的な瞬間っていうのはたくさんありますが、これは映画になっていますしコンプリート版も出ました。こんなに男が泣かされる場面を僕は知りません。アンコールがはじまって、客席も固唾をのんでいる中で氷室さんが口を開きます。その時に、氷室さんは何度も布袋さんのほうを見るんです。「お前、本当にいいのか?」って感じで見るんですけど、布袋さんがその目をそらすんです。これはぜひ映像でご覧ください。今見ても泣きます。その翌日、新聞に解散が発表されるんですね。88年4月4日5日の東京ドームが最後のLAST GIGSになるわけです。その話は来週。

「J-POP LEGEND FORUM」

流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。個人的なと最初にも申し上げましたが、かなりどころじゃないですね(笑)。まったく個人的な80年代グラフィティ。まあ、80年代ノートですからね。取材したり、ライブを見たり、インタビューしたり、気になっていたり、そういう人たちの話が中心になっております。

冒頭で80年代が開花期と言いました。開花期そして転換期でもあった。鈴木雅之さんがソロになってデビューしたり、久保田利伸さんがデビューしたのもこの頃です。そうやって花を開いたいくつもの新しいジャンルの音楽の中にファンクという言葉がありました。ファンクっていうのは、70年代には日本のロックの中ではほとんど使われてこなかった。そういう音楽をやっている人たちがいなかったんですね。久保田さんがデビューしたとき、松任谷由実さんが言った言葉があったんですけど、「山下くんが10年かかったところを3年でやった」と。久保田利伸さんの登場によってファンクという言葉が誰でもが使えるようになった、音楽をイメージできるようになった。そういう存在でしたね。89年にFM802が開局したときに、ファンキーミュージックステーションというふうに使っていたんですね。90年かな、大阪のスポーツニッポンで「平成バンド天国」って連載を書いたことがありまして、802の今の社長の栗花落光さんにお話を伺ったことがあったんです。「ファンクってどういう意味ですか?」って聞いたら、彼が「ごっつええやんってことですよ」と言っていて。いやあ、いい答えだなと思った記憶があります。802の開局も、来週ですね。

怒涛の80年代。来週は最終週、88年、89年。昭和も終わります。


「J-POP LEGEND FORUM」でDJを務める音楽評論家・田家秀樹。手にしているのはBOØWYが解散宣言をしたLIVEステージを収めた『BOØWY 1224 FILM THE MOVIE 2013 ORIGINAL SOUNDTRACK』のCDジャケットで。


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
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