圧倒的な力を見せたブルーとオレンジのマシン│ポルシェとガルフの強さを探る

ガルフはいかにモータースポーツに貢献したかガルフ・オイル・カンパニーがレースの世界に本格的に参加して50有余年。強いレーシングスポーツカーといえばどれもブルーとオレンジの塗り分けと、誰もがそう思うほど存在感のあるスポンサー・カラーだった。とくにポルシェには大きな力を与えたガルフというスポンサー。両者はいかにして頂上を極めたか、デルウィン・マレットが解き明かす。

60年代後半から70年代前半は、世界の主要メーカーと大御所チームがレーシングスポーツカーにひとつの頂点を築いた時代だった。クルマだけでなくドライバーも世界の一線級が集い、F1で活躍する著名ドライバーも参戦した。スポンサー企業の存在も重要だった。FIAは参加車両の広告表示規制を撤廃し、ブランド名をアピールしやすくすることで大企業にスポンサーへの道を拓いた。ガルフやマルティーニはその代表的存在だ。レーシングカーはナショナル・カラーやチーム・カラー、部品メーカーのデカール装着義務から解放され、これまでにないファッションをまとうようになった。ガルフ・オイルのシンボルカラーであるブルーとオレンジは、1967年から75年にかけてフォードとポルシェのチャンピオンカーのボディカラーとなった。
 
ガルフ・オイル誕生の発端は1901年に遡る。クロアチア生まれの石油試掘人、アンソニー・フランシス・ルーカスが、テキサス州ガルフ海岸の小さな町で石油を掘り当てたのが事の起こりだ。彼の大発見はテキサスに油田ブームを起こすきっかけとなり、テキサスは一躍石油生産の中心地となった。ガルフ海岸に因んで名づけられたガルフ・オイル社は1907 年に設立されるや、たちまち世界的な巨大企業に急成長した。ガルフとモータースポーツの最初の出会いは1930年代。当時の速度記録保持者に潤滑油を提供し、さらなる記録更新を手助けしたことが最初だ。1937年、著名なレーシングカー・デザイナー、ハリー・ミラーが開発中だった初のミドエンジン・インディ・カーの開発にコミットし、クルマは成功を収めるが、その陰にガルフの支援があったことはあまり知られていない。


 
ガルフ・オイルをもっとモータースポーツにどっぷり浸らせたのはグレイディ・デイヴィスである。ガルフ・オイルで猛烈に働いたデイヴィスは瞬く間に出世街道を駆け上がり、1960年には副社長まで上り詰めた。デイヴィスはその一方で自分の愛車コルベットで参加するほどレースが大好きだった。だからガルフの石油マネーをモータースポーツ活動に投じることは自然の成り行きだった。アメリカ車の大活躍を夢見た彼は61年、ジェネラル・モータースの協力を得てコルベットのホットモデルを誕生させる。このクルマもまだブルーとオレンジのカラーリングではなく、アメリカの国際色である白をベースにブルーのストライプを入れたものだった。コルベットとコブラはアメリカのレース史に記されるほど幾多の名勝負を繰り広げたが、ガルフが支援するコルベットは62年に開催されたSCCAの14のレースで12の勝利を収める活躍を見せた。
 
その頃、自分の意志で潤沢な資金を自由にできる男がもうひとりいた。彼はアメリカのクルマがヨーロッパのクルマを彼の地で打ち負かすことを心から願っており、とくにフェラーリをル・マンで破ることに情熱を傾けていた。ヘンリー・フォードⅡ世である。彼は以前、フェラーリを買収したいとオファーしたが拒否されたいきさつがあった。そのリベンジが63年に始まったGT40計画である。
 
フォードはかつてアストン・マーティンのチームマネジャーとして辣腕を振るったジョン・ワイヤを、ロンドンの西、スラウに新たに興したフォード・アドバンスト・ヴィークルズ社のプロジェクト・マネジャーとして招聘した。ワイヤはこのガルフ・ストーリーの中で中核を担う人物である。


ガルフ・カラーをまとった917が初めて公の前に姿を現したのは、1969年9月にロンドン・カールトン・タワーホテルで開かれたプレス発表会だった。
 
ローラMk.6の発展型であるGT40がベールを脱いだのは、1963年4月1日。エイプリルフールを発表の日に選んだのは、今年も優勝することなく不遇な63年シーズンをフォードが送るだろうとエンツォ・フェラーリを安心させるためであった。といってもヘンリー・フォードに自信があったわけではない。彼はクルマをアメリカのキャロル・シェルビーのもとへ送り、さらなる開発を依頼した。ワイヤにとっておもしろいはずがない。もっとおもしろくなかったのは、シェルビーが仕立てたGT40が初出場のデイトナ2000で勝ってしまったことだった。シェルビーはコブラで得た「大排気量に優るチューニングなし」の信念から7リッター・エンジンをGT40にも搭載した。

これによりフォードは速さを獲得したが、信頼性の欠如からそれ以上の勝利を挙げることはなかった。それは65年シーズンも同様だったが、66年に歴史は塗り替えられることになる。

・・・次回へ続く