ダイエー時代の石毛宏典 【写真=Kyodo News】

◆ 『男たちの挽歌』第7幕:石毛宏典

 80年代のプロ野球は、原辰徳の時代だった。

 1980年代セ・リーグの通算本塁打数と総打点の両部門トップは、山本浩二でも掛布雅之でもバースでもなく、偉大なONと比較され“巨人史上最低の4番”とバッシングを受けた原辰徳の274本塁打767打点である。つまり、当時誰よりも叩かれた男が、誰よりも結果を残したわけだ。

 同じく80年代のパ・リーグの総打席数1位は5058打席で、西武黄金期のチームリーダー石毛宏典だ。オフの風物詩、なぜか自主トレで窯元を訪ね、ろくろを回すあの風景はなんだったんだ……というのは置いといて、2019年に坂本勇人(巨人)のセ遊撃手初のMVP獲得が話題となったが、球界初の遊撃手MVPは86年の石毛だった。

 この年の背番号7は、129試合、打率.329、27本塁打、89打点、19盗塁、OPS.917とキャリアハイの好成績を残し日本一の原動力となっている。


◆ 最強西武のリーダー

 プロ入りは、原と同じく80年ドラフト1位で、プリンスホテルから西武へ入団。1年目から58年の長嶋茂雄以来の新人3割打者という大活躍を見せる。当時の雑誌では原と石毛の新世代ニューリーダー対談企画が度々組まれるほどの人気を誇り、ともに新人王に輝いた盟主・巨人の若大将と、新興勢力の西武の顔。原の方も石毛の存在を強く意識していたようで、引退直前の『週刊ベースボール』95年10月30日号のインタビューでは、こんなコメントを残している。

「自分の野球人生の中で、最後にやり残したことは何だろう? と考えたときに、とにかく西武に勝ちたい。プロ13年目を終えるくらいのときに思いましたね。僕の心の中では、西武とは石毛・西武なんですよね。年は僕よりも上ですが、同期でプロに入った石毛さんのいる西武に勝ちたい。そういう気持ちが強かったですね」

 正直に書けば、選手時代だけを振り返ると、将来的に監督として成功しそうなのは、人の良さそうなエイトマンより、強烈なリーダーシップで最強西武をまとめあげていた背番号7の方だった。

 やんちゃな新人類と呼ばれる若手を束ねるキャプテン。日本全体が異様な熱気で浮かれたバブル真っ只中、昭和から平成に変わる直前の『週刊ポスト』89年1月6日号では、石毛、清原和博、工藤公康が顔を揃える3年連続日本一レオ軍団の座談会が掲載されている。

 21歳のキヨマーは「西武は本当に強いと思うもの。みんな、やるべきことをちゃんと知っていた。このままならば負けるはずがない」と前向きな自信にあふれ、そんな後輩に「4年連続日本一は目標じゃないな。もう義務だよ」なんてきっちり締める石毛大将。するとビッグマウスで鳴らした若き工藤は先輩に対し、「さすが優等生。これだから、年俸1億円を2割8分の打率でもらえるわけだ(笑)」なんつって茶化す。あの頃の西武は圧倒的に強く、楽しく、明るかった。

 だが、石毛は2002年にオリックスの監督に就任すると、いきなりチーム39年ぶりの最下位に終わり、翌03年の開幕20試合目にして電撃解任されてしまう。4月中の監督交代はパ・リーグでは初めての珍事。なぜ石毛は古巣・西武ではなく、オリックスで監督をすることになったのか? その答えを知るために、波乱に満ち溢れた現役晩年の出来事を振り返ろう。


◆ ミスター・レオが下した決断

 西武がパ・リーグ初のV5を達成した94年(平成6年)オフ、森祇晶監督が辞任する。9年間で8度のリーグ優勝、6度の日本一に輝いた名将の後任は石毛で決まり……と誰もが思ったが、本人は現役にこだわりこれを固辞。38歳の石毛はこのシーズン、主に三塁手として111試合で打率.266、11本塁打、46打点、8盗塁、OPS.732という成績を残していた。

 自身初のランニングホームランに2度のサヨナラ打と、まだ充分にプレーできる状態。長嶋巨人に敗れた日本シリーズ最終戦後に就任依頼をされ、悩みに悩むも、出した結論は「オレはまだ現役でやれる」だった。組織の世代交代は分かる。でも、まだ終われない。終わりたくない。いつの時代も男の引き際は難しい。

 最終的にスポーツ各紙で報じられた兼任監督でもなく、石毛はFA宣言をして西武を去ることを決断する。在籍14年で11度のリーグV。「ミスター・レオ」と呼ばれた “西武グループの顔”の流出は内外で物議を醸した。

 プロ15年目の新天地は西武時代の恩師・根本陸夫が専務を務めるダイエーへ。ゼロからの再出発という意味で「背番号0」を選択。王貞治新監督を迎え、秋山幸二や工藤公康ら西武の主力選手が続々と福岡に集結していた時期だったが、95年の石毛は2億円の高年俸にもかかわらず、52試合で打率.200、1本塁打とキャリアワーストの成績に終わる。そして、39歳の「最後の1年」を迎えるわけだ。

 慣れ親しんだ背番号7に戻した96年は、春先の右太もも肉離れで16年目にして初の開幕二軍スタート。4月21日のウエスタン・リーグ中日戦で3安打猛打賞を記録した直後に一軍昇格するも、若返りを図るチーム事情もありほとんど起用されることはなくベンチを温める日々。8月初旬に再び二軍落ちすると、そのまま昇格することなくユニフォームを脱いだ。

 最終年はわずか29打席で打率.130に終わり、西武時代は達成が確実視されていた通算2000安打にも167本足りなかった。それでも、40歳の石毛はプロ野球選手としての契約を全うするため、ファーム全日程終了後も秋季練習に参加すると若手に混じり打撃練習を行ったという。まさに選手・石毛で完全燃焼した現役ラストイヤーである。


◆ポスト王の最有力候補も…

 その後、ポスト王の最有力候補として、メジャーリーグのドジャースへのコーチ留学を経て、ダイエー二軍監督に就任。しかし、投手や打撃などのコーチの肩書きを廃止したり、打順を選手にジャンケンで決めさせる斬新すぎるスタイルが空回りし、わずか1年で石毛体制は終わってしまう。

 オリックス監督時代も前述の通り、歴史的な大敗を喫し短期政権に。結果だけを見たら、94年オフの決断が野球人生の岐路になってしまった感は否めない。

 現在、西武では現役時代に石毛と二遊間を組んだ後輩の辻発彦が指揮を執るが、もし「あの時、石毛が西武監督の就任要請を受諾していたら……」というのは平成球界のターニングポイントのひとつだろう。

 さて、この石毛とは駒沢大学野球部寮で同室の先輩・後輩だった仲で、西武と巨人のチームリーダーとして日本シリーズでも度々火花を散らしたのが、3つ年上の“絶好調男”中畑清である。


(次回、中畑清編へ続く)

▼ 石毛宏典の主要成績


文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)