カレラ・アバルトの真実│真のボディ製造元と、その製造数の解明③

カレラ・アバルトの真実│真のボディ製造元と、その製造数の解明②

残りのボディはこうした問題を解決した上で、トリノのロッコ・モットの作業場で造られた。「職人45名、パワーハンマーが3台」揃っていたので融通が利いたとモットは話している(職人の数にはそのハンマーの数も含めたようだ)。モットはカルロ・アバルトの訪問にも準備万端だった。そのときの様子をこう振り返っている。

「彼は荒削りなダイヤモンドで、いつも大声を張り上げていた。私は"いけない"と諭したよ。けれど、そのうちに彼を見直した。今では礼儀正しい友人に思えるよ。あの頃が懐かしい」
 
モットの仕事にはツッフェンハウゼンの技術者たちも舌を巻いた。モットはこう話す。「ドイツ人技術者から、ドイツに来るようにと熱心に誘われた。私のためだけに仕事場も用意すると言っていた。私が彼らの上に立って指図できるというなら行ったけどねえ。だけど、仕事をするだけならトリノのほうがいいよ」
 
タルガの2週間後、プロトタイプのGTLは実験的なディスクブレーキを装着してニュルブルクリンク1000kmレースに出走。リンゲ/グレーガー組は総合7位で、ディスクブレーキ装着のため割り当てられた1600ccスポーツクラスで2位という好成績を収めた。2人の最速ラップ10分23秒は、従来のクラス最速記録を20秒も塗りかえた。また、GTクラスで出走したシュトレーレ(シャシーナンバー1002)はクラス優勝を飾り、3台目のGTL(シャシーナンバー1003)を購入したゲルハルト・コッホはクラス3位でフィニッシュした。
 
6月のル・マンでは、プロトタイプ(シャシーナンバー1001)はヘッドライトにカバーを付け、通常のドラムブレーキを装着して、ワークスとしては唯一GTクラスに出走した。ボディは相変わらず雨漏りがひどく、対してポルシェのフレームは"水を漏らさなかった"ため、ヘルベルト・リンゲとハンス-ヨアヒム・ヴァルターは、シートやフロアが水浸しの状態で何時間も走行することとなった。


 
アバルト・カレラを最初に購入したシュトレーレにとってはお馴染みの状況だった。「雨のレースでは、窓やボディなど、あらゆる場所から水が入ってきた。横からも下からも常に雨が入ってくる。けれど水は出ていったよ。私たちは大きな穴を開けておいたから」だが冬のラリーではそうはいかなかった。「車内は凍り付いた。凍ったら穴があっても無駄だったよ!」
 
1960年のル・マンでヴァルター/リンゲ組はクラス優勝を飾り、出走したポルシェの中でトップの総合10位でフィニッシュした。ポルシェでは既に確認済みだったが、アバルトバージョンはロイター製カレラより速いことがル・マンであらためて証明された。ミュルザンヌストレートでは138 mph(222km/h)にも達したが、それでもクルマの最高速より6mph(9.7km/h)遅かったとリンゲは証言している。


 
この1台目のカレラ・アバルトをル・マンのあと数人の記者が試乗した。『Sports Cars Illustrated』誌のジェシー・アレクサンダーは次のように書いている。「アバルト製の優れた特徴のひとつに素晴らしいドライビングポジションがある。ただし、ステアリングを握るまでが大変だ。体をほとんど二つ折りにし、ゆっくり乗り込むしかない。それほどルーフが低いのだ。ドライバーの頭とルーフとの間隔はぎりぎりで足りているが、身長が6フィートを超える人はひどく苦労するだろう」

「スポーツレーシングカーでアウトバーンを飛ばすと面白い経験ができる。110mph(177km/h)で駆け抜ければ、警察でさえ羨ましそうに振り返るのだ。高速に達したときのエンジンノイズは容赦がなく、少しでも窓を開けようものなら轟音と乱流が襲いかかってくる。操縦するというより、方向を定めて突き進む4輪付きのミサイルだ。ルーフ付きのスパイダーと形容してもいい」
 
ウーリ・ヴィーゼルマンは、エンジンが「耳をつんざく大音響を上げるので、レーシングカーに乗っているのを痛感する」と書いている。「5500rpmで本領を発揮するから、2速や3速でスロットルペダルを踏み込むと、胸にパンチを浴びたように感じる。また、あくまで主観的な印象で客観的な証拠はないが、通常のカレラより路面をしっかり捉えるようだ。おそらく重心が低いためだろう」

『 Auto Motor und Sport』誌のテストによると、タイプ692/3aエンジンを搭載したカレラGTLは、静止状態から8.7秒で60mphに達し、21秒足らずで100mphに達した。それまでのカレラで最速の記録だ。


 
1960年、シュトレーレを皮切りに、プライベートドライバーの元にGTLが納車されていった。銀色に輝くアバルト・カレラはドイツでは2万5000マルクで、ロイター・カレラより3500マルク高く、アメリカでは6300ドルで販売された。ポルシェがアバルトに提供したシャシーは20台で、それがアバルト・ポルシェの総数だ。そのうち、ワークスカーとしてファクトリーに留まったシャシーナンバー1013と1018はオイルフィラーが延長された。その他、サイドウィンドウのカーブやナンバープレート灯の位置、テールランプの形状など、ボディのディテールにはばらつきがある。
 
アバルト・カレラは21 台造られたとする説がある。正式なファクトリーの仕様書であるカーデックスがその証拠とされていた。しかし、マルコ・マルティネッロの調査によって、21台目と考えられていたシリアルナンバー1021は、実は当時ポルシェで働いていたあるエンジニアの父親のために特別に造られた356Aカブリオレに割り振られていたことが判明した。このクルマは" B"の駆動系にスーパー90のエンジンを組み合わせ、オーナーの好みで" A"のボディを架装していた。
 
ロッコ・モットは非公式に21台目のGTLを製作していた。火災でダメージを受けた356Bのシャシーを使用して、フランスのポルシェ・ディーラーのために造ったものだ。ディーラーは1963年にこのクルマでレースに何度か出走した。クルマは現在も市場に流通しており、アバルト・カレラの歴史をいっそう複雑なものにしてくれている。


 
実は、アバルト・カレラはもっと増える可能性もあった。1962年9月、モンツァで開催されたイタリアGPで、ポルシェのレース監督フシュケ・フォン・ハンシュタインが、カルロ・アバルトにある思いつきを相談していた。1.6ℓカレラのボディを、新しい2リッターのカレラ2のシャシーに架装するという案だ。それを聞いたアバルトの反応を「明らかにこの方法をエレガントだとは思っていなかった」とハンシュタインは報告している。
 
アバルトはこう答えた。ポルシェのために同じ型で新しいボディを製造するのはやぶさかでない。だが、プロジェクトの経済性を考えれば、最低でも25台の注文が必要だ。いずれにしても大きな利益が出ることは期待していない。「ポルシェ・カレラ・アバルトに自分の名前が入ったことで、世界的な宣伝ができたから、ポルシェの新しい仕事で利益を出す必要などまったくない」、そうハンシュタインに話したのだという。
 
これを受けてポルシェは10月に、25台のボディを1963年6月25日までに完成させられるかアバルトに問い合わせた。それが確実にクルマを完売できると考えられる最終期限だった。しかし、1962年末にこの案は立ち消えとなった。カレラ2の軽量ボディの製造は、ポルシェが抱える職人に割り当てられたのだ。そして、そのデザインはフェルディナント・"ブッツィ"・ポルシェに任された。ここからツッフェンハウゼンにおけるデザインの新時代が幕を開けるのである。