ジョニー・キャッシュ、新ドキュメンタリー『The Gift』で描かれた10の真実

YouTube Originalsのドキュメンタリー『The Gift: The Journey of Johnny Cash』は、伝説のシンガーであるジョニー・キャッシュの苦悩、そして魂の解放を描いている。

11月11日、Youtube Originalsにてジョニー・キャッシュの新ドキュメンタリー『The Gift: The Journey of Johnny Cash』(日本語字幕未対応)のストリーミングが開始された。エミー賞およびグラミー賞の受賞で知られるThom Zimny(『(Elvis Presley: The Searcher, Springsteen on Broadway』)が監督を務めた90分に及ぶ本作には、ブルース・スプリングスティーン、エミルー・ハリス、そしてキャッシュの娘であるロザンヌ・キャッシュと息子のジョン・カーター・キャッシュ等が出演している。

本作の核となるのは、1944年当時12歳だったキャッシュの兄ジャック(当時14歳)の事故死がもたらした後年まで続く影響、そしてキャッシュが自身の居場所と存在意義を再発見するきっかけとなった1968年のフォルソム刑務所での慰問コンサートだ。彼の人生を変えることになったこれらの出来事は、成功がもたらした罪の意識と、やがて訪れる魂の解放と深く結びついている。「父が痛みから逃れようとしていたことは、誰の目にも明らかでした」ロザンヌ・キャッシュはそう話す。「父はステージに立つことで、自身の最も根深い問題と向き合っていたのです」

本作で描かれる10の事実を、以下で紹介する。

1. 作品のタイトルはキャッシュの母親にインスパイアされている。

自伝の執筆を目的に音声インタビューで、キャッシュは10代だった自分が歌うのを初めて聴いた母親が、声変わりによって身についたバリトンボイスを褒め称えた時のことについて語っている。「母はこう言った。『あなたは天から才能を授かったの。そのことを決して忘れないで』母が才能という言葉を使ったのは、それが最初だった。歌うこと、そのために曲を書くこと、それが私に与えられた才能だった」


2. テキサスで兵役に服したばかりの頃、キャッシュは最初の妻であるVivian Libertoと出会った。

キャッシュは朝鮮戦争勃発の1週間前に空軍に入隊しているが、彼が赴いたのはドイツだった。1951年7月に、2人はサンアントニオのセント・メアリーズにあったアイススケート場で出会った。「私たちは既に結婚について話し合っていた」彼はそう話している。「式の日取りについても決めていた。(空軍での兵役の大半を過ごしたドイツから)戻って来たらすぐに、彼女と結婚するつもりだった。私は家庭を築きたかったんだ」やがて2人は、ロザンヌ、キャシー、シンディー、タラという4人の娘に恵まれる。またキャッシュは当時、歌手になりたいという願望についても語っている。「良き家庭人であり、優れたミュージシャンでもありたかった」彼はそう話している。

3. 軍隊では語学の才能を生かした任務を与えられていた。

口頭でのやり取りの聞き取りに優れていた彼は、ラジオの電波妨害という任務を与えられていた。「父は単語や文章、それにリズムがどのように組み合わされるのかを熟知していました」彼の息子のジョン・カーター・キャッシュはそう語っている。3年間にわたって海外での生活を強いられた彼は、任務期間中に1951年発表の映画『 Inside the Walls of Folsom Prison』を観たとしており、同作にインスパイアされた「Folsom Prison Blues」を1953年に発表している。1968年に発表された同曲のライブバージョンは、カントリーチャートで首位を記録した。「私は犯罪者たちの視点で歌っている。ぞっとするような話を音楽として楽しむということに、多くの人々が興味を持ったんだ」同曲における最も有名な一節「俺はリノで男を撃った 人が死ぬところを見たかったんだ」について、彼はそう語っている。

4. キャッシュはクリエイティブ面での自由を求め、サム・フィリップスのSun RecordsからColumbia Recordsに移籍した。

ポップに接近した「アイ・ウォーク・ザ・ライン」を含め、キャッシュはSun Records在籍時に大きな成功を収めたが、ゴスペルのレコードや様々なコンセプトアルバムの制作を認めることを条件に、彼はColumbia Recordsに移籍する。その宣言通り彼は、全編にスピリチュアルなメッセージを込めたアルバムや、アメリカの原住民に対する意識の向上を訴える作品などを発表した。移籍は商業的成功と創作面での自由をもたらしたが、一方で結婚生活の破綻と、以降何十年にもわたって苦しむことになる薬物中毒という弊害ももたらした。「子供たちと妻には苦しい思いをさせてしまった」キャッシュはそう語っている。


5. 後に彼の2番目の妻となるジューン・カーターは、キャッシュが1962年に行ったツアーに同行している。ほどなくして彼は、彼女の「リング・オブ・ファイア」をレコーディングする。

「彼女が私たちのツアーに同行することに、私は胸が高鳴るのを感じていた。互いに対する私たちの思いは、単なる雇用者と従業員という間柄のものではなかった」キャッシュはそう語っている。母であるMaybelle、そしてHelenとAnitaという2人の姉妹とともに活動しながら、自身を「コミックリリーフ」的存在と位置付けていた彼女は、過去にはニューヨークの著名な演劇の講師Sanford ”Sandy” Meisnerのもとで、2年間にわたって演技について学んでいた。本作は1962年に残された、2人によるゴスペルのスタンダード「Where You There When They Crucified My Lord」のデュエット映像を収録している。

6. 本作に収録されたインタビュー映像で、彼は60年代を通じて西部開拓時代やアメリカの原住民に捧げられたコンセプトアルバムの数々を発表した理由について語っており、その逼迫感は今も失われていない。

具体的な日付こそ記録されていないが、本作に収録された音声インタビューで、キャッシュは以下のように発言している。「100年が過ぎた今、我々が犯した過ちを明らかにしておく必要がある。現在まで続く反ユダヤ主義、反黒人、反移民、反女性、そしてアメリカ原住民たちに対する虐殺同然の行為など、マイノリティーの人々に対して行ってきたことを」各ラジオ局が1964年作『Bitter Tears: Ballads of the American Indian』からの曲をかけようとしなかったことに対し、キャッシュはディスクジョッキーたちを「根性なし」と非難する広告をビルボード誌に掲載した。

7.1965年の時点で、とめどないツアーで消耗した姿と、薬物中毒に起因する横暴な振る舞いに、彼自身を含む多くの人々が危機感を覚えていた。

「私は骸骨のようだった」彼はそう話している。「まるで歩く死人で、私はそのことを自覚していた。当時の私には凶暴な一面があった。特に理由もなく、あらゆるものを容赦なく破壊した。グランド・オール・オープリーでのことは、ほとんど覚えていない。スタンドからマイクが外れずに苛立ち、私はマイクスタンドを投げつけた。それは幾つか照明を破損し、私は飛び散った破片を見て満足していた」ジューン・カーターとデュエットする予定だったキャッシュは、ステージ上でそのマイクスタンドを振り回し、全ての照明を破壊した。その様子を見ていたカーターは、「萎れた花のようだった」という。キャッシュは1956年から続いていたオープリーとのレジデント契約を解消されたが、後年に再び招聘されている。


8. テネシー州チャタヌーガ近郊の洞窟内で、キャッシュは魂の解放を経験した。

1967年に最初の妻と離婚し、彼女と共にカリフォルニアで暮らす娘たちと会うことを禁じられていたキャッシュは、酒を浴びるほど飲み、1日で最大100錠の精神安定剤(興奮剤と鎮静剤の両方)を摂取していた。3日間睡眠をとらず、洞窟の入り口に座り込んで泣き続けていた彼は、ジューンに見つからないよう洞窟の奥に身を隠し、暗闇の中で別れの祈りを捧げた。「何かの気配を感じ、遠方で小さな光が灯るのを目にした」彼はそう語っている。「私は這いながら出口へと向かっていった。そして目覚めると、そこにはジューンがいた。私が死の間際にいたことを、彼女は察知したようだった。死ぬところだったのよと言った彼女に、私はこう伝えた。『俺は生きるよ』」

9. 薬物中毒を克服した直後、キャッシュは伝説のフォルソム刑務所でのコンサートを行い、再婚して息子のジョン・カーター・キャッシュが生まれ、大いに人気を博すことになるABCでのテレビシリーズを開始させた。

「薬物漬けのままでは、到底不可能だっただろう。あのショーを始めたとき、私は完全に素面だった」彼が4年前に追放されたオープリーの跡地にできたライマン公会堂を舞台に、ロックやポップからカントリーまで、様々なアーティストが出演した歴史に残るテレビシリーズについて、キャッシュはそう語っている。同番組では、キャッシュとジューンが息子のジョンを前に歌う姿が放送されたこともあった。「僕が生まれた頃、父のキャリアは絶頂期にあり、肉体的にも精神的にも、僕ら家族と分かち難く結びついていた」彼はそう述べている。「悲しいことだけれど、それは僕の姉たちが幼い頃に得られなかったものだ」「父は家庭に混乱をもたらし、母と自分自身に大きな苦痛を与えていました」ロザンヌはそう語っている。「拷問のような痛みにさらされながら、彼は救いを求めていました。(兄の)ジャックを亡くした時から、それはずっと続いていたのです」

10. 70年代と80年代にはアルバムの売り上げこそ低下したものの、キャッシュは娘たちとの交流を再開させ、オーディエンスと繋がるための新たな方法を見出した。

救済というテーマに焦点を当てる本作の最後のセクションでは、ビリー・グラハム牧師との交流、1968年作のライブアルバムでキャッシュが歌った「グレイストーン・チャペル」を作曲したフォルソム刑務所の囚人Glen Sherleyとの友情が描かれている。またロザンヌとカーリーンによる「アイ・スティル・ミス・サムワン」のパフォーマンスにジョニーが涙ぐむシーンなど、6人の娘のうち4人との交流を描いた心温まるシーンも収録されている。(リック・ルービンをプロデューサーに迎えた『アメリカン・レコーディングス』に到るまでの)以降の20年間は商業的成功にこそ恵まれなかったものの、キャッシュは長年求め続けていた心の平穏をようやく手にすることになる。