ポルシェ356が誕生するまで│フェリー・ポルシェの大きな誤解とは?

1943年の秋、ドイツではフェルディナンド・ポルシェがデザインオフィスを移動しようと考えていた。戦争が車の製造に影響を及ぼすというリスクをなるべく減らしたかったのだ。その結果として、移動したのがオーストリア・ケリンテン州のグミュントであった。

もとは製材工場として使われていた小さな場所であったため、ポルシェが雇っていた300人以上のスタッフを要することは現実的ではなかった。何を置くにも狭く、仮小屋が作られた。しかし、そこも人が通れるのがやっとというほどの広さだった。デザインエンジニアやマネージメントする人間たちが仕事をする場所として、仮の小屋がさらに作られた。そこは田舎街で、戦争に狙われる心配もなく、物価も安かったため従業員が暮らすには調度良い場所であった。

フェルディナンド・ポルシェの息子であるフェルディナンド・アントン・ポルシェは”フェリー・ポルシェ”として知られている。彼こそが、"どこにも自分が求める車を見つけることができなかった。だから、自分のために作ろうと決めた"という言葉を残したことで有名な人物だ。ポルシェはトラクターも手掛けていたが、それはフェリー・ポルシェが求めているものではなかった。



1948年、VWビートルから取ったトランスミッションやエンジン、コンポーネントを使用して1台のスポーツカーを生み出した。ポルシェのエンジニアリングで35psまでパワーアップし、585kgの車重で最高速度135km/hまで達した。こうして、1948年6月8日、シャシーナンバー 356.001の356 "No.1 ロードスター"が誕生したのだ。

No.1をベースとして2台目の356が作られた。そして、最初のクーペが1948年8月に登場。4気筒水平対向エンジンは40psを発揮し、リアに搭載された。このような要素が、現代でも911にも受け継がれている。356/2のクーペは44台、カブリオレは8台が製造され、1950年に生産終了となった。クーペのボディは、スペシャリストだからこそ出来るようなアルミニウム叩き出しで作られていた。グミュントで生産されたポルシェは、1949年 ジュネーヴ・モーターショーにて発表された。



フェリー・ポルシェが彼自身の356を作ることを決意したとき、"こんなスポーツカー売れても500台程度であろう"と考えたそう。しかし、1965年までに356は8万台近くが世に送り出された。この誤解こそが、フェリー・ポルシェが犯した唯一のミスであったであろう。