フリードリッヒ・ベツナー 911 ターボを救った男 前編

フリードリッヒ・ベツナーは、見習い工として15歳でポルシェに入社し、フラッグシップモデルである911のプログラムマネージャーにまで上りつめた。1988年には911ターボを消滅の瀬戸際から救い、開発チームを率いてポルシェの21世紀スーパーカー、996ターボを生み出した立役者でもある。ポルシェ・ミュージアムのアーカイブでベツナーに話を聞いた。

ポルシェがクルマを造り始めた頃。社員のほとんどが地元の住民だった。フリードリッヒ・ベツナーもそのひとりだ。ポルシェがあるシュツットガルトのツッフェンハウゼン区から北へ8kmほどの位置にあるルートヴィヒスブルク市で1940年に生まれた。戦後、父親が復員すると、ベツナーはシュツットガルトまでの鉄道の復興作業員となり、鉄道の再開後にポルシェで働き始めた。1950年に疎開先のグミュントから戻ってきたポルシェが最初に雇用した従業員のひとりだった。
 
当時のポルシェは、若者を雇って高等教育を受けさせる傍ら、基本的な金属加工の技術を教えていた。ベツナーの父親は息子にとって素晴らしいチャンスになると考え、若きフリードリッヒ(愛称はフリッツ)をツッフェンハウゼンのレアリンク(見習い)にしたのである。ベツナーによれば、金属を切断して削り、簡単な道具を製作することや、機械を分解してまた組み立てることを学んだという。真面目なベツナーはめきめきと腕を上げ、2年ほどで本人曰く「356を好きにさせてもらう」までになった。2、3年の間に、エンジン組み立てを含む製造過程のあらゆる作業を経験した。

ベツナーを指導したのが、かの偉大なヘルムート・ボットだった。その下で働いてから30年が過ぎた今でも、ポルシェの伝説的テクニカルディレクターのことをベツナーは克明に覚えている。1955年からチーフ・テストエンジニアを務めていたボットについて、ベツナーは敬愛の念をこめてこう振り返った。



「彼は教員になる勉強をし、ポルシェに入社する前は高校で働いていました。優秀な教師であり、天性のコミュニケーション能力の持ち主でした。部下に仕事を任せることで人材を見いだしていったのです」これは、ボットの下でキャリアを始めたポルシェのエンジニアの多くが口にすることだ。
 
ボットを最もよく表すのが飽くことなき探究心だ。代替案や技術的改良策を常に探し求めた。当時、ビートルから派生した356 のサスペンションは、トーションバーとスウィングアクスルだった。そこから生まれた興味深いプロジェクトに10 代のベツナーも関わった。「ボット教授の"代替アクスル案"に私も取り組みました。彼は以前からシャシーデザインに関心を持っていて、私たちはクラッシュした356にメルセデスから流用したサスペンションを取り付けてリビルドしました。結局、ポルシェの製品には採用されませんでしたが…」

「1959年にヘルベルト・リンゲがアメリカから戻ってくると、私は彼と共に356のテスト車両を準備しました。当時、ほとんどのテスト走行はエーラ・レシェン(ヴォルフスブルクにあるVWのテストコース)で行っていました。ヴァイザッハには高速のオーバルコースがなかったからです。私はときどきロルフ・ヴーテリッヒとも仕事をしました」
 
ヴーテリッヒは優秀なテストドライバー兼メカニックで、リンゲと共にアメリカの顧客をサポートした。

ジェームズ・ディーンが乗るスパイダーに他車が衝突してディーンが死亡した事故の際、助手席に同乗していたのがヴーテリッヒで、自身も大怪我を負っている。

「ロルフと私が全開試験でよく使ったのが、3kmの直線が続くA81(シュツットガルトとハイルブロンを結ぶアウトバーン)でした。警察に非公式な協力を仰ぎ、数分間だけ一般車を止めてもらったんですよ。当時のテストは比較的シンプルなものでした。特に356の場合は、リンゲが自分の満足するようにセットアップし、ボットの承認を得たら、それで終了でした」


 
その後、ベツナーは初期型911のギアボックス、特にスポルトマチックの開発に携わった。次に進化すべき点を常に探し求めていたボットは、特に電子機器とその応用に関心を抱いていた。シフトダウンの際にはダブルクラッチを必要としていた時代である。ボットはベツナーをポルシェの電子工学のエキスパートにしようと、近所のボッシュに1年間派遣した。
 
ポルシェは1970 年代初頭まで、多くの技術をVWと共有していた。そもそも、そうした技術をヴォルフスブルクのために開発したのはポルシェだったのだ。そのひとつが真空と油圧を利用したフィヒテル&ザックスの自動クラッチで、これがポルシェではスポルトマチックとなったのである。
 
次にベツナーに課されたプロジェクトが"EA266"の設計と製作だった。ビートルの後継車であり、ポルシェの新車のベースとなる予定だったモデルだ。
 
しかし、プロジェクトは1973 年に無に帰した。ヴォルフスブルクの上層部が入れ替わり、VWの方針が変わったためだ。「そこで私たちはメルセデス・ベンツに目を向け、従来型のトルクコンバーター式オートマチックの開発を目指しました。これを最初に導入したのが928です」とベツナーは語る。
 
一方、ボットは1972年に開発担当役員に昇進すると、信頼するベツナーを助手に指名した。こうして年下のベツナーはボットの私生活とも関わりを深めることとなった。

「私たちは密接な関係で仕事をしました。ボット夫人をカールスルーエまで抗ガン剤治療に連れていくのも私の役目でした。ボット教授はあまりに多忙で、自分では連れていけないことが多かったのです」治療の甲斐もなく、ボットの二人目の妻は夫と4歳の娘を残してこの世を去った。
 
1970~80年代にかけて、ポルシェはアルジェリアのサハラ砂漠を舞台とするラリーを911と928の開発に大いに利用した。テストや評価の経験が豊富だったベツナーも、すぐに現場に駆り出された。信頼あるベツナーは会社の現金を運ぶ係に選ばれたのである。時に1カ月にも及ぶ遠征では、あらゆる支払いに現金が必要となる。全パーティーの経費を管理していたベツナーは、その責任を重大なものと捉えて、現金の入った袋を肌身離さず持ち歩いていた。
 
砂漠でキャンプを張ったある夜の出来事を、開発責任者のペーター・ファルクが『33イヤーズ・オブ・ポルシェ』に記している。あるいたずら者が現金の入ったベツナーの袋を隠してしまった。しかし、ベツナーのあまりの狼狽ぶりに、すぐに返却した。

それでもベツナーはすぐにはショックから立ち直ることができず、アフリカのビール"エクスポート33"を数本せっせと飲ませなければならなかったという。