エルトン・ジョン、ベスト・カントリー・ソング10選

エルトン・ジョンの伝記映画『ロケットマン』公開を祝い、聴いておくべきエルトンのカントリーに傾倒した曲を振り返る。

ロサンゼルスのライブハウス、トルバドールでアメリカ・デビューを成功させてから10年後の1980年8月、ロックンロール・アイコン、エルトン・ジョンはロサンゼルスのまた別のナイト・クラブのパーティに参加していた。奇抜な衣装と激しい勢いのライブで長きに渡り名を馳せてきたジョンは、西海岸で最も重要なカントリー・ミュージックのライブハウスの1つとして知られるノース・ハリウッドのパロミノ・クラブにフリンジのついた黒いジャケットとラインストーンの星が散りばめられたカウボーイハットを身に着けて登場したが、それはそれまでの彼からは想像もできないことであった。しかし、その夜、ジョンと彼の新しいバンドの4人のメンバーはパロミノのハウス・バンドのメンバーと共に、彼の最も有名な2曲「可愛いダンサー(マキシンに捧ぐ)」と「僕の歌は君の歌(Your Song)」、そして、彼が60年代にイギリスのパブでよく演奏していたカントリー・ポップの名曲、ジム・リーヴスの「ヒィル・ハフ・トゥ・ゴー」を披露した。

ジョンは「僕は昔からカントリー・ミュージックが好きだったよ。ビルビリーも好きだし、ブルーグラスも好きだ。僕はその音楽性が好きなんだ」と2005年にCMAアワードでドリー・パートンと共演する少し前にCMTに語った。また、そのインタビューでタミー・ワイネットやマール・ハガード、ロレッタ・リン、ジョニー・キャッシュなどのレジェンドの名を挙げる一方、その年のゲイリー・アランの『タフ・オール・オーバー』を彼のお気に入りのアルバムの1枚として挙げながら情熱と説得力を持って語っている。ジョンと共に長年、ロックやポップス、ゴスペル、ブルースの要素を取り入れた作品を作ってきた作詞家バーニー・トーピンは2002年にマット・サーレティックと共作したウィリー・ネルソンとリー・アン・ウォーマックのグラミー受賞曲「メンドニコ・カウンティ・ライン」で新しいオーディエンスを獲得した。

一方、トーピンのソロ・アルバム(と彼のアコースティック・ルーツのバンド、ファーム・ドッグスの2枚のアルバム)のカントリーに傾倒した曲には彼が子供の頃にイギリス北東部で受けたそのジャンルの影響が見受けられる。2018年、ジョンとトーピンは名だたるアーティストたちの協力を得て彼らのヒット曲のカヴァー・アルバムを2枚リリースした。片方の『レストレーション』はカントリーに特化しており、リトル・ビッグ・タウンやマレン・モリス、ミランダ・ランバート、クリス・ステイプルトン、エミルー・ハリス、ローザンヌ・キャッシュが参加している。

レジナルド・ケネス・ドワイトという音楽的才能に恵まれたぽっちゃりしたロンドンの少年が世界的スター、エルトン・ジョンになるまでの途方もないストーリーが改めて語られる『ロケットマン』の公開にあたり、彼が最もカントリーに影響を受けた10の楽曲を振り返りたいと思う。

1.「ルイーズに靴紐はない」(1970年)

ストーンズの『ベガーズ・バンケット』に収録された、ミック・ジャガーのスローテンポな曲「ディア・ドクター」に大きな影響を受けた2年後、芽が出始めたばかりのそのスーパースターは、セルフ・タイトル・アルバムに収録したこの曲で歌っている「男たちからきれいに搾り取った」ずる賢いルイーズのような都会の女性をこき下ろした。この曲のイギリス人バックアップ・シンガーのロジャー・クック(CMTのパーソナリティ、ケイティ・クックの父であり、ジョージ・ストレイトやドン・ウィリアムズ、クリスタル・ゲイルにカントリー曲を提供)に音楽業界の深い繋がりを感じることができる。


2.「故郷は心の慰め」(1971年)

ジョン・アンダーソンからジュース・ニュートンまで様々なカントリー・アーティストにカヴァーされたジョンとトーピンの作品の中の宝であるこの曲は、典型的なアメリカーナ・アルバム『エルトン・ジョン3』の中心的な曲であり、南部地域が産業化、都市化される前のシンプルな生活を称えている。この曲は友人であるロッド・スチュワートがジョンより先に音源化しており、ジョンも2001年のアール・スクラッグスのアルバム『アール・スクラッグス・アンド・フレンズ』でそのブルーグラスのレジェンドのバンジョーをバックにセルフ・カヴァーしている。

3.「スレイヴ」(1972年)

近代的な宇宙探索を描いた「ロケット・マン」が収録されたアルバム『ホンキー・シャトー』で、ジョンは南北戦争前のアフリカ系アメリカ人奴隷の立場で、彼自身や家族、仲間たちの抑圧の足鎖からの解放を願いながら、地球に落下した。最愛の人の涙を悲しく響かせるスチール・ギターと心を打つ彼の裏声のコーラスによって「スレイヴ」は勇気と決断が感じられる優しいカントリー・バラードとなっている。

4.「テキサスのラヴ・ソング」(1972年)

保守的なテキサス州をやりすぎなぐらいにネタにしたこのコミカルなカントリーは、今であれば不適切とみなされたかも知れないが約50年前はそんなことはなかった。しかし、70年代のニクソン嫌いの長い髪を洗わないヒッピーや、共産主義者、同性愛者、そして海外のポップ・スターが穢れのないアメリカの土地に入ってきたことを嘆いていたのはアーチー・バンカー(保守的で有名なキャラクター)だけではなかった。早口に、汚い言葉で罵り、殺してやると脅す。ジョンが鼻にかけた声で歌うそんな曲は今でも非常におもしろい曲ではあるがライブの定番曲ではない。しかし、『ピアニストを撃つな!』に収録されているこの曲を、彼は1998年に一度ライブで演奏している。しかもテキサス州オースティンで。


5. 「歌うカウボーイ、ロイ・ロジャース」(1973年)

「風の中の火のように(孤独な歌手、ノーマ・ジーン)」や「土曜の夜は僕の生きがい」のような曲の鮮やかに色づけられたノスタルジアはジョンの才気あふれたアルバム『黄昏のレンガ路』が持つ数ある魅力の1つである。白いカウボーイハットをかぶって映画やテレビを席巻していたジョンの幼少期のヒーロー、ロイ・ロジャースへの思春期前の憧れを歌ったこの曲は、輝かしいロック・スターである彼が歌う曲の中でも最も無邪気で美しい曲なのではないだろうか。その「輝くすばらしいカウボーイ」(カントリー・ミュージックの殿堂に唯一2度選ばれたアーティストである)はジョンの未来の衣装にも相当な影響を与えている。

6.「いたずらジャック」(1973年)

なぜもっと多くのカントリーやブルーグラスのアーティストがこのワクワクさせてくれる曲(「土曜の夜は僕の生きがい」のB面曲である)に気づかなかったのかは謎である。これは農夫の銃撃から逃げるうさぎに向けて歌った癖になるような曲であるが、同じAメロとサビが2回繰り返される2分にもならない曲で、確かにそれほど大した内容もないかもしれない。しかし、その演奏は見事なもので、狡猾なこのタイトルのキャラクターの運命について考えるためだけでも、何度も聞く価値があるだろう。

7.「デキシー・リリー(ショーボートが川を行く)」(1974年)

デキシー・リリーと名前がついたショーボートが通り過ぎていくミシシッピ川の土手でジョンとトーピンがのんびりしているのが想像できるようなこの壮大な曲で、彼らはアメリカ南部に立ち戻った。ジョンの軽快なホンキートンク・ピアノで曲は進行し、ノスタルジックで夢のような歌詞で、彼が「リリー号が世界から去っていくのを眺めていた」頃のシンプルな時代を呼び起こしている。ディキシーランド・ジャズのテイストが少し入ったカントリーであるこの曲は2人の作品の中でも特に情景が目に浮かぶような曲で、1974年の『カリブ』のハイライトでもある。


8.「キャプテン・ファンタスティックとブラウン・ダート・カウボーイ(エルトン、バーニーの華麗な夢)」(1975年)

このアルバムの見開きジャケットのダリ風の絵を初めて見た時は率直に言って少し困惑させられたが、曲作りのパートナーとしての2人の初期の頃の出来事が歌われたこのアルバムに収録されたこのタイトル・トラックは、優しいカントリー・ロック・バラードとして始まる。しかし、曲はそれほど待たずして、2人がトップへと上りつめるまでの目まぐるしい旅を反映したかのようなテンポの速いロックに変わり、そしてまた、最初の素朴なパートに戻る。ジョンとトーピンはこの曲のアップデート・バージョンを2006年の『キャプテン・アンド・ザ・キッド』にそのタイトル・トラックとして収録した。

9.「キャント・ゲット・オーヴァー・ゲッティング・オーヴァー・ルージング・ユー」(1981年)

ゲイリー・オズボーンと共作したイギリス限定シングル「ジャスト・ライク・ベルギー」のB面でジョンはカントリー・シンガーとして主張した。「キャント・ゲット・オーヴァー・ゲッティング・オーヴァー・ルージング・ユー」はカントリー界のレジェンド、ビル・アンダーソンの歌詞、特にコニー・スミスのために書かれた「ワンス・ア・デイ」をお手本としている。「僕は君のことをほとんど考えない。朝と夜、そしてまた翌日の午後以外は」と彼は歌っている。しかし、彼は悲しみに溺れず、すぐに元の生活に戻れるという自信を見せている。確かに歌詞にはカントリー界の秘技を使われているかもしれないが、ジョンがナッシュビルの哀愁を歌っているのが聞けるのはおもしろいことである。

10.「ジミー・ロジャーズ・ドリーム」(2010年)

ジョンが特に影響を受けた人物との共作アルバム『ザ・ユニオン』のハイライトであるこの曲は、誰もが認めるカントリー・・ミュージックの父、ジミー・ロジャーズの目線で歌われている。ジョンとトーピンはアルバムのプロデューサー、T・ボーン・バーネットのサポートを受けて、そのミシシッピ州生まれの”歌うブレーキ係”と呼ばれたミュージシャンが短い人生の中の鮮やかなシーンを描写した、悲痛でもあり夢中にもさせてくれる彼の最期の時間の物語を作り上げた。ロジャーズは1933年にニューヨークにあるタフト・ホテルで35歳の若さで亡くなったが(ラッセル自身もこのレコーディングの6年後に亡くなった)、この胸を刺すようなデュオ曲で語られている彼の魂は、ラッセル、ジョン、トーピンの魂と共に、驚くほどに生き生きと輝いている。