激動の時代を乗り越えて誕生したランボルギーニ・ディアブロ

ディアブロの父といわれるエンジニアのルイジ・マルミローリは、1945年にフィオラノで生まれた。まだフェラーリのテストコースはなかったが、テストに向かう12気筒スポーツカーの音を聞いて育ち、卒業するとフェラーリのレース部門に加わった。10年ほどで独立してミナルディのF2カーを設計し、やがてアルファロメオでF1チームを指揮した。それが、なぜランボルギーニに加わることになったのだろうか。マルミローニは次のように答えた。

「いい質問だ。ランボルギーニから誘われたときは、はっきり断った。モータースポーツが恋しくてたまらなくなると思ったからだ。しかし彼らはまたやって来て、さらに詳しく説明した。新たなカウンタックを生み出せる者を探しているんだ、とね。それは私にとっても非常に魅力的だったから、1986年に一緒に働き始めたんだ」

「初めはスローペースだったけれど、ゴーサインが出ると、すべてが急ピッチで進み始めた。1987年4月17日の感動は今もよく覚えている。最初のプロトタイプが社屋の周りを2周したんだ。ミムランさん(当時のオーナー)もいて、シャンパンを開けて祝ったっけ…」

「1987年末にランボルギーニがクライスラーの一部となると、プロジェクトはさらにスピードアップした。奇妙な立場だったよ。向こうはデザイン部門だけで350人も抱えているのに、こっちには外注のマルチェロ・ガンディーニひとりきりなんだから」



「クライスラーはプロジェクト自体は気に入ったものの、デザインに関してはいくつか修正を求めてきた。彼らは正しかったよ。だからディアブロの生産は何年も続いたんだ。常に良好な、ウィン・ウィンの関係だった。そしてついに1990年のF1モナコGPで発表する準備が整ったんだ」

困難はなかったのかと聞くと、マルミローリはこう答えた。「多すぎて本が書けるよ。一番の問題は予算不足だった。例をひとつ挙げよう。私たちはカウンタックのエンジンをすっかり変更したが、経費を節約するため、ヘッドガスケットだけはモディファイしなかった。ナルドでのテストで325km/hに達したときは、皆で大喜びしたものだ」

「パリに出掛けたときは命を危険にさらした。トラックのレンタル料を節約するために、小型の車載トレーラーにプロトタイプを載せ、四輪駆動のランチアで牽引したんだ。だがランチアには重すぎて、道路を外れてしまった。すべてお釈迦さ。プロトタイプ以外はね!」

「ディアブロは最初から大成功を収めた。私たちは、すぐにさらなる開発に取りかかった。まずロードスター、続いて四輪駆動のVTだ。四輪駆動の開発は大変だった。私たちには経験がなかったからだ。だが、非常によいものに仕上がった。基本的なシステムは現在も使われているよ」

写真はアウディ傘下になったあとの四輪駆動モデル、6.0VTだ。

ディアブロをドライブする
私はカーメルバレーからラグナセカまでの山道を、2000年のディアブロ6.0VTで走ったことがある。ミウラSVとカウンタックLP400も一緒だったのだが、ふと気づくと、2台を完全に置き去りにしていた。しかも何の苦もなくである。25年の進化をまざまざと見た思いがした。

ビッザリーニが設計したV12エンジンを搭載する点は共通している。しかし、ディアブロの出力は550bhpに上り、カウンタックを175bhpも上回る。前輪のトラクションも助けになるし、パワーステアリングを備え、ダンピングも電子制御だ。スロットルペダルはまさに精密機械で、1mmの動きにも反応する。ただし先代に比べると、あのヒリヒリするような感覚がわずかに失われた。とてつもなく速く、高性能で楽しい車だが、少々静かすぎる。それはスイッチ類からドアの閉じ方まで、あらゆるディテールについても感じる。これもアウディの影響なのだろう。ディアブロは手なずけられた猛牛なのだ。将来、先行モデルほどの人気を得られるのかどうかは、今後を待つしかない。

生産期間:1990-2001
生産台数:2884