初めてF1世界選手権に参戦した女性が歩んだ歴史

マリア・テレーザ・デ・フィリッピスは、モータースポーツ史上、初めてF1世界選手権に参戦した女性として名を残している。ナポリの富裕な家庭に生まれ、若き日にはコンテッサ・モーターサイクルを乗りこなし、1948年にモーターレーシングの世界に足を踏み入れた。後年に彼女が語っているが、兄弟たちはモーターレーシングは彼女には無理だと考えており、これが刺激となってレースに参加するようになったという。参加したからは、自分の価値を証明するのに夢中になったという。初期にはフィアット500トポリーノに乗り、さらにジャウルを入手した彼女は、数種のカテゴリーで勝利を重ねたことで、兄弟たちの考えは誤りだったと証明された。
 
デ・フィリッピスは1950年代にマセラティと密接な関係を結び、1955年のジーロ・ディ・シチリアで総合10位を収めるなど、自身が所有するA6GCSで成果を築いていった。1958年5月にはモナコGPに250Fに乗って出走し、F1世界選手権へのデビューを飾った。だが、彼女を含めた15人が予選を通過できなかった。1カ月後にスパ・フランコルシャンで開催されたベルギーGPではプライベートエントリーながら予選を通過し、決勝では優勝したトニー・ブルックスとは2ラップ差の10位に入った。

続いてランスで開催されたフランスGPには参戦していないが、2006年に行われたインタビューで、女性のレース出場を好まなかった当時のレース・ディレクターによって出場できなかったことを明らかにしている。
 
さらに同年のポルトガルGPは最下位で予選を通過したが、決勝ではたった6周目に250Fのエンジントラブルで戦列を去った。1958年9月にモンツァで開催されたホームレースのイタリアGPは最後尾から出走し、70周のレースで57周目にエンジントラブルを起こしてリタイアに終わった。
 
当時は女性のレーシングドライバーが新奇の目で見られていた時代だった。ちなみに、ル・マン24時間は男性のみの伝統を厳守し、インディアナポリス・モーター・スピードウェイでは女性はコースに立ち入ることができないという、そんな時代だった。
 
それでもデ・フィリッピスは他のドライバーたちからの支持を得ていた。彼女によれば、フアン・マニュエル・ファンジオは頼れる兄のように振る舞ってくれていたという。また、フランス人のジャン・ベーラとも親しい友情が培われた。予選通過は催されたラヴァント・カップ(写真右上)ではロータス19クライマックスに乗り、同じエンジンを搭載したクーパー・モナコT61に乗るジャッキー・スチュアートや、ブラバムBT8(BRMエンジン)に乗るジャック・ブラバムをおさえて勝利を果たした。彼がロータスに乗って樹立したラップ記録は、1966年にグッドウッド・サーキットが閉鎖された際にも、最高記録であった。
 
ディック・プロスローとともにカウンドリーもジャガーEタイプに乗ったが、国際戦の勝利記録は2回にとどまった。1964年にロー・ドラッグ"CUT7" で参戦したモンレリー1000kmレースとランス12時間レースだ。また同年、ブランズ・ハッチではトジェイロ・フォードで優勝し、1963年にはフランク・ガードナーと組んでロータス・エリートに乗り、ル・マンに参戦している。カウンドリーにとって最後のレースとなったのはマクラーレン・エルヴァ共同開発のMk.1A(オールズモビル製エンジン)で、スポーツカーによるレースを支持していた1965年イギリスGPや、グッドウッドで開催されたウィットサン・トロフィーなどで勝利を収めた。
 
1966年にカウンドリーはレースを引退。その後は不動産業務に集中し、65歳のときに第二子が誕生。自家用飛行機を操縦し、85歳にして自身で所有するランドローバーを運転して砂漠を横断している。また、彼はBRDCのメンバーでもあったが、これはジム・クラークからの提案にロイ・サルバドリの賛意を受けたものであった。3回結婚し、元日に永眠した彼は、二人の息子リチャードとチャールズを残した。叶わなかったものの、1959年のモナコGPで彼女が乗っていたのはベーラ・ポルシェであった。
 
1960年にAVUSで開催されたドイツGPでベーラが事故死すると、デ・フィリッピスはヘルメットを置く決心を固めた。休暇中にベーラの死を知った彼女は、その場で引退を決意したという。1960年に結婚して家庭を築き、以降はモーターレーシングから遠ざかっていたが、1970年代にCIAPGPF1(Club International des Anciens Pilotes de Grand Prix F1:現在のF1グランプリ・ドライバーズ・クラブ)に加わり、後に副代表に就任した。
 
現在に至るまで、F1世界選手権で予選を通過してレース参戦した女性はマリア・テレーザ・デ・フィリッピスとレラ・ロンバルディの2名のみである。また、デ・フィリッピスは1950年代にグランプリに参戦したイタリア人のうち最後の生き残りでもあった。