伝説のF1レーサー ニキ・ラウダ 70年の生涯を振り返る

ミスの少ない冷静なドライビングで、1975年、77年、84年と3度F1ワールドチャンピオンに輝く伝説を残したニキ・ラウダ。フェラーリとマクラーレンで王座に就いたのは今なおラウダ、ただひとり。そんな彼が、2019年5月20日、70年の生涯に幕を閉じた。

1975年当時、不振であったフェラーリで、ラウダはチャンピオンとなり一気にチームを脚光の中に引き戻した。エンツォのNo.1ドライバーとして無敵のようにみなが思っていたであろう。ラウダとフェラーリの縁は、BRMでのチームメイトだったクレイ・レガツォーニが1974年にフェラーリに戻り、そこでラウダを売り込んでくれたことがきっかけだったという。フェラーリは彼との契約を提示し、ラウダはマラネロのチームに加わることになった。

ニキ・ラウダギャラリー

ラウダは力を付けていくジェームス・ハントを目の前にし、新たな契約を結んで欲しいと自ら契約金を提示してエンツォに申し出た。この先制攻撃に対してエンツォは怒りを爆発させたのであった。というのも、ドライバーの気持ちを引き締めるため、シーズンの終わり頃まで金額の交渉をしないのがエンツォの決まりだったのだ。エンツォはラウダに対して人種差別的な発言までしたらしいが、ラウダがわずかな減額に応じ、ふたりはしぶしぶながら合意に達したと伝えられている。

エンツォは交渉の決裂を望んでいるのではなく、交渉していること自体が彼にとっては喜びなのだ。したがって、互いをリスペクトする気持ちには一切変化がなかった。ただし、この衝突をきっかけとしてチーム内部には動揺が広がったのは事実。ラウダとフェラーリが"離婚"の危機をようやく脱した頃、ハントとマクラーレンは引き続きハネムーン気分を味わっていた。対するフェラーリは不振に喘ぎ、情熱は不足気味だった。彼らは控訴審で勝利を手に入れ、ラウダはF1を統括するFIAに対して恭順の意を表明した。「トラブルを抱えたドライバーの優勝を認めればフェラーリは不当な利益を手にすることになる」と主張したマクラーレンに同情するかと問われても、ラウダはこれにノーと答えた。同情は、それを受けるにしても申し出るにしても、ラウダがずっと拒み続けてきたもののひとつである。



もちろん順風満帆な日ばかりではない。1976年、ニュルブルクリングでのドイツ・グランプリでラウダは最速のドライバーだったが、サーキットの安全対策に不備があるとして、レースをボイコットするように仲間のドライバーを説得していた。しかしほとんどのドライバーはラウダに同調せずボイコットに反対したためにレースはそのまま開催されたのであった。そして、悪夢が起きる。

スタート後2周目、ベルクヴェルクの手前の高速左コーナーでラウダのフェラーリはコースアウトして土手に衝突、火に包まれた。他のマシーンと絡み合ってつぶれたマシンの中に閉じ込められてしまったラウダは、勇敢にも炎の中に飛び込んだアルトゥーロ・メルザリオ、ブレット・ランガー、ガイ・エドワーズ、そしてハラルト・エートルによって引っ張り出されたが、その時はすでに酷い火傷を負い、有害なガスを吸い込んでいた。事故直後は意識があったラウダだが、その後、昏睡状態に陥ってしまう。

ラウダが残りのシーズンを戦うことは不可能と判断したエンツォ・フェラーリは、すぐさま代わりにカルロス・ロイテマンと契約を交わしたが、わずか6週間後(3レース分)のモンツァの記者会見にラウダは包帯を巻いたまま姿を現した。それどころか、もちろん完全に回復したわけではないのに、AGVの特製ヘルメットを被ってそのイタリアGP で4位に入賞してみせた。著名なF1ジャーナリストのナイジェル・ルーバックは、ピットの中で血が滲んだ包帯を巻き替えるラウダを見かけたという。

ラウダの不在の間、ジェームス・ハントは選手権ポイントを積み重ねていた。カナダとUSGPを制したハントは、シーズン最終戦の日本グランプリを前にラウダに3点差に詰め寄っていた。富士での予選ではラウダは3番手、ハントは2番手、だが決勝レースは豪雨に見舞われ、ラウダはスタートから2周後にリタイアすることを決めた。そんな状況で続けるのは危険だと考えたのである。結局ハントは3位に入り、1ポイント差で逆転してチャンピオンの座を手に入れた。

ラウダの決断は世間から評価されたものの、エンツォ・フェラーリはその行為に激怒した。ラウダならばあの状況を克服し、完走できたはずだと彼は信じていたし、実際にレース終盤になって天候も回復していた。だがラウダはそうせず、タイトルを投げ出してしまった。エンツォは何よりも面目を潰されることが大嫌いだったのである。

ラウダとエンツォの誰も割り込めない強い絆は不意に断ち切れてしまった。翌1977年はタイトルを再び獲得したにもかかわらず、彼にとっては辛いシーズンだった。ラウダは後に語ったように、新たなチームメイトのロイテマンを嫌っていた。「我々はもう互いに我慢できなかった。プレッシャーを軽くするどころか、ロイテマンをチームに加えることでさらに圧力をかけてきた」と、シーズン終了後にフェラーリを去ることを明らかにした時、まだ2戦を残していたが、すでにチームのエースはロイテマンであり、さらに無名のヴィルヌーヴもサードカーを与えられてカナダGPに出場していた。



1978年、ラウダは100万ドルという当時は聞いたことがないような高額サラリーでブラバムに移籍したが、続く2シーズンはリタイア続きで満足な成績を残せず、79年のカナダGPで引退を発表する。母国に戻って、フェラーリを辞めた後に設立した自分の航空会社ラウダ・エアの経営に専念すると言われていた。

ところが1982年、ラウダはマクラーレンでカムバック、1984年にはチームメイトのプロストに0.5ポイント差をつけて3度目のチャンピオンに輝いた。最初の引退から5年後にフェラーリを打ち破ったことには"コメンダトーレ" も目を見張ったに違いない。

エンツォとの関係が修復すると、ずっとラウダが憧れていた288GTOをエンツォ・フェラーリがプレゼントした。288GTOはフェラーリの新時代を象徴する車で、エンツォ自身が直接指示した最後のモデルだったのだ。彼は個人的に名前を決めてそれを部下に指示していたという。ラウダの288GTOは1986年3月に完成し、明け渡された。しかし、288GTOの生産は1985年で終了している。エンツォはラウダの頼みを聞き入れ、特別に1台だけ製造させたのだった。



たとえ死に直面したとしても、自らの人生に挑み続ける。それこそがラウダの生き方だったのである。