型破りなレーシングマシンを造った業界最後の独立独歩の人とは

マーコスで自らのビジョンを形にし続けたマーシュは、業界最後の独立独歩の人といえる。マーシュの造る車が消極的で平凡なものだった試しはない。常に高い性能を誇り、型破りな魅力を備えていた。マーシュは南西イングランド出身で、190㎝を超える長身であった。その人柄は不撓不屈の一言に尽きる。長いキャリアは成功と挫折の繰り返しだったが、万策尽き果てたかと見える状況から何度もマーコスを甦らせた。
 
自ら認めている通り、マーシュは学究肌ではなかった。1946年に16歳で学業を終えると、英国海軍に入隊する道を選んだ。1953年に未完成のオースティン・セブン・スペシャルを入手すると、1年後には初レースに参戦した。除隊直後は車のセールスマンとして働くが、その後、カースタントショーのチームに加わる。アメリカ人を装って"ロデオ・ロッド"という芸名を名乗り、自らの車で様々なスタントを披露した。
 
だが、マーシュが愛したのはあくまでもレースだった。1955年にチューニング会社のダンテ・エンジニアリングに入社するが、2年で退職してスピーデックス・キャスティング&アクセサリーズという会社を興す。だが、そこで満足するマーシュではなかった。

航空機技術者であったフランク・コスティンとの運命的な出会いを契機に、1959年初めにマーコスを創業した。社名はマーシュとコスティンの名前を組み合わせたものだ。二人は合板製モノコック構造による超軽量レーシングカーを実現した。こうして生まれたマーコスは、外観こそ魅力的ではなかったが、わずかにチューンアップしただけの1172 ㏄フォード4 気筒SVエンジンで110mphを叩き出し、周囲を驚かせた。1960年5月にその1台を元ERAワークスドライバーのビル・モスが購入し、10戦9勝という好成績を収めた。しかし、将来の方向性を巡る対立から1961年初めにコスティンが会社を去り、ファクトリーはウェールズからルートンに移転。デニス・アダムズが外観に手を入れ、弟のピーターがシャシーの構造をシンプルにして、マーコス・ガルウィングが誕生した。ところが、ここで資金が底をついてしまう。
 
マーシュに備わった優れた才能のひとつに、自分のビジョンを人に納得させる力があった。すぐに大勢の支援者を集めて事業を軌道に戻すと、1962年末、ブラッドフォード・アポン・エイボンに拠点を移し、マーコス・カーズ社として生産を再開した。新たな目玉が必要だったため、翌63年1月にロンドンで行われたレーシングカーショーでロードスターバージョンを発表したが、反響は芳しくなかった。そこで、この車に発泡スチロールの塊を載せ、ちょうどよいところまで削り取ったものをオス型にして、ルーフを製作。これが通称"ファストバック"となった。
 
レーシングカーの売り上げには季節的な偏りがあることを悟ったマーシュは、安定収入を確保するためにロードカーの製造に乗り出す。合板製シャシーというコスティンのコンセプトは引き継いだが、実質的にはピーター・アダムズの設計となり、ボルボの4気筒B18エンジン搭載という、めずらしい組み合わせを実現した。こうして、純粋なロードカーとして設計されたマーコス1800GTが1964年に誕生。そのシルエットは以後40年にわたって受け継がれた。
 
1960 年代中頃には、ミニ・マーコスも生まれた。野心的なGTとは違い、こちらは純粋なキットカーであった。ディジー・アディコットのDARTスペシャルという車にヒントを得たもので、ADO15ミニのサブフレームを使い、FRP製モノコック構造を採用したため、たちまちモータースポーツ界から歓迎を受けた。


 
1966年にはプライベートチームのミニ・マーコスがル・マン24時間に参戦し、英国車のトップで完走した。レース中、マーシュはこの車とできる限り距離を置こうと努力していたと、2001年に回想している。

「車は急ごしらえだったから、長くはもたないと思っていた。ミニの設計者のアレック・イシゴニスもいたんだが、車を見てあきれ果てていたよ。私はみんなに、長くは走れないといって聞かせた。あくまでもあれはプライベートチームだとね。関わっていると思われるのは迷惑だった。ところが車は走り続けたんだ。私も、これは24時間持ちこたえるかもしれないと思い始めて態度を改めたよ。結局、ぎりぎり半周で完走扱いになったんだ」
 
1960年代には主要な国際レースに断続的に参戦していたマーコスだが、1968年に満を持してウッドフレーム、ミドシップのスポーツレーサーを発表する。
 


「本格的に速い車を何としても造りたかったんだ。もう一度ル・マンに挑戦する計画だった。あの素晴らしいウェッジシェイプの車をデニス・アダムズがデザインした。私はギルフォードにある中華レストランでジャック・ブラバムと落ち合って、レプコ-ブラバムV8を確保した」と回想している。
 
こうして誕生したマンティスXPだったが、ファクトリーが洪水に遭ったため、レースに参戦したのは1度きりだった。ル・マン挑戦も夢と消えた。
 
1年後、マーコスは大きな方針転換を行う。合板製シャシーをスチール製に変更したのだ。木製に対する顧客の抵抗感もあったが、一番の理由は船舶用合板の価格上昇だった。こうして発売された3リッターのフォードV6バージョンは即座に人気を博す。しかし、繁栄は長くは続かなかった。
 
1970年代初頭、ウェストバリーにあるより大きなファクトリーに移り、新たに4座席のマンティスを発売した。だが、この移転が経営に響いた。さらに悪いことが重なり、アメリカに輸出した27台が排ガス基準を守っていないとして押収されてしまった(実際には準拠していた)。
 
収入を失ったマーシュは、1971年にやむなく会社を売却する。その後資産は売り払われ、事業は閉鎖されてしまった。それでもマーシュは隣に店を構えるとスペアを販売してビジネスを続け、1981年にマーコスを再興。以前のシルエットそのままのクーペをキットの形で販売した。だが、キットカーという言葉は禁句だった。マーシュはこの言葉を嫌い、即座に否定した。
 
マーコスは1990年代も何度かオーナーを代えながら存続し、マーシュは名目上ではあったがトップを務め続けた。メディアとはお世辞にも良好な関係だったとはいえない。マーコスに理解を示す者にはフレンドリーで陽気だったが、批判的な者に対しては態度が変わった。だが、マーシュは常に"面白い"人物だったのだ。