クイーンとして生き抜いた、フレディ・マーキュリーという悲劇的なラプソディ

クイーンやフレディ・マーキュリーのような”劇的で、華々しく、過剰で、絶望的な”バンドやフロントマンは他には存在しなかった。クイーンとして生き抜いたフレディ・マーキュリーの生涯について、ローリングストーン誌が2014年に掲載した記事を紹介する。

復活は予想外のことであった。フレディ・マーキュリーとクイーンの他のバンド・メンバー、ギタリストのブライアン・メイ、ドラマーのロジャー・テイラー、ベーシストのジョン・ディーコンが1985年7月13日にロンドンのウェンブリー・スタジアムでの歴史的なライヴ・エイドのステージに登場した瞬間、その日は忘れられないものとなった。マーキュリーがピアノの前に座り、圧巻のサウンドを奏でるバンドを従え、クイーンの最も有名な、奇抜で華やかな曲「ボヘミアン・ラプソディ」を演奏し始めると、過去の出来事に深く根ざしていると思われるその歌を72,000人のオーディエンスが、まるでそれを1日中待ちわびていたかのように歌った。すべてはそこから始まった。マーキュリーが短く切ったマイクスタンドを手に取るとバンドは熱狂的な曲「レディオ・ガ・ガ」の演奏を始め、オーディエンスは一斉に頭上での手拍子をし、マーキュリーが堂々たる叫び声で煽ると拳を突き出してそれに応えた。これほどの大勢のオーディエンスがたった1つのバンド、1人の声の合図で一丸となってまるで”人の波”のように反応する光景には恐怖を感じる人すらいたほど強烈なパワーがあった。

クイーンがこんな復活を遂げるとはほぼ誰にも想像できなかった。彼らはそのまま消えていくと思われていた。1975年の名アルバム『オペラ座の夜』の後、凝ったポップスからハード・ロック、ディスコ、ロカビリー、ファンクまで、彼らはその音楽性の幅広さでヒットを次々と重ねていった。その後、マーキュリーがゲイであることを認めたのを多くのファンが受け止めることが出来ず、1980年代半ばまでに彼らの運命は変わり始めていた。1984年にはアパルトヘイトを行っていた南アフリカでツアーを行うという理解しがたい選択をした結果、クイーンは自国のイギリスでも孤立するようになった。しかし、視野の広さ、技術、ステージでの振る舞いなど、クイーンのすばらしさのすべてを見せつけたライヴ・エイドでのパフォーマンスの後、誰もがクイーンを求めることとなった。数年後、メイは「あれは完全にフレディの力によるものだ。俺たちメンバーは普通の演奏をしただけで、フレディがあそこで別の次元に持っていったんだ」と語っている。

フレディ・マーキュリーがエイズに伴う気管支肺炎によって亡くなってから約23年経った今も(2014年時点)、最も偉大なロック・バンド、最も物議を醸したバンドの1つとしてクイーンが遺したものは、メイとテイラーが数ヶ月後に行われる予定のアダム・ランバートとのツアーでどんな成功を収めようとも、彼と切り離すことはできない。テイラーとメイはマーキュリーとの年月を語る時(ディーコンはそういった話をすることを一切拒否している)、良い経験も悪い経験も含め、そのすべてに惑わされているように感じられることが今でもある。「俺たちはとても親密なバンドだったけど、フレディに関してはあまり多くを知らなかった」とテイラーはマーキュリーの死後に語っている。数年後、メイは「非現実的な体験で俺たちはめちゃくちゃになっていたよ。クイーンは世界で最も大きなものだった…。愛してくれる人たちに囲まれて、崇められて、でも完全に孤独で…。音楽に詰め込みきれなかったものが現実に流れ出たんだ」と語っている。

クイーンはフレディ・マーキュリーに始まりフレディ・マーキュリーに終わった。彼はバンドのアイデンティティと成功と失敗を体現したが、失ったものを乗り越えることができなかった。しかし、初めからフレディ・マーキュリーが存在していたわけではない。


フレディ・マーキュリーは、1946年9月5日ファルーク・バルサラとしてアフリカ東海岸沖のイギリスの保護国ザンジバルでゾロアスター教(世界最古の一神教宗教の1つ)信者のパールシー一家に生まれた。ファルークの父ボミはイギリス政府高等法院の出納係であった。それは彼と妻ジャー、ファルーク、そして後に生まれるファルークの妹カシミラが、ザンジバルに住む大半の人々に比べて特別な扱いを受けて生活していたということを意味している。1954年、ファルークが8歳の時、バルサラ夫妻は彼をインドのパンチガニにあるセント・ピーターズ英国国教会学校に入れた。セント・ピーターズはボンベイ(現在のムンバイ)から150マイルのところにあり、長年に渡ってその地域で最もすばらしい全寮制の男子学校とみなされていた。ファルークは当時、ひどく突き出た上の歯を気にする内気な少年であった(そのせいですぐに「バッキー」というあだ名を付けられ、彼は笑う時は手で口元を隠すなど、その後もずっとその歯を気にして生きていった。同時に、口の奥の4本の過剰歯が原因であるその明白な出っ歯が、彼の声に独特な響きをもたらした神の恩恵なのかもしれないと感じていた)。

多くがファルークはセント・ピーターズで孤立していたと記憶している。「自分の面倒は自分で見ることを学んだ。だから俺は速く成長した」と数年後、彼は語った。何人かの教師が彼を親しみを込めてフレディと呼び始めると彼はすぐにその名前を受け入れた。彼は自分らしさも磨いていった。フレディは家族の影響でオペラに傾倒していたが、西洋のポップ・サウンド、特にリトル・リチャードの激しいピアノのロックンロールやファッツ・ドミノ技巧的なR&Bへの愛も深めていた。彼が一度曲を聞くとピアノで演奏できることにフレディの叔母シェルーが気づき、両親は彼に個人レッスンを受けさせることにした。1958年、彼はセント・ピーターズの他の生徒とザ・ヘクティックスというバンドを組んだ。伝記本『フレディ・マーキュリー ~孤独な道化~』の中で、近くの女子校の生徒Gita Choksiはステージに上がった彼はもはや内気な少年ではなく「とても華やかなパフォーマーで、ステージで間違いなく彼の本領を発揮していたわ」と語っている。

セント・ピーターズの生徒にはファルークがGitaに片思いをしていたと思っていた者もいるが彼女はそのことには全く気づいていなかったと言う。また別の者たちはファルークが性的なことに積極的であった形跡はほとんどないが、ゲイであることはすでに明らかだったと感じていた。現在、前出の女子校の教師であるジャネット・スミスは彼について「極端に細くて強烈な少年で、人を『ダーリン』と呼ぶ癖があって、すこし変わっていたと言わざるを得ない。単純にそれは当時の男の子たちがするようなことじゃなかったから…。ここにいた時、フレディがゲイということは受け入れられていたわ。普通だったら『ああ、なんてこと。ぞっとするわ』ってなっていたかもしれないけど、フレディに関してはそうじゃなく、大丈夫だったの」と回顧する。

1963年、フレディはザンジバルの家族のところに戻った。同年、イギリスの植民地支配が終わり、1964年にザンジバルでは革命と虐殺が起こり、バルサラ一家はイギリスのロンドン郊外のミドルセックス州フェルサムへと逃げた。気候は荒れており、収入もあまり良くなくて、フレディは家族が理解できないような方向へと変わっていった。「俺はとても反抗的で、両親はそれが気に入らなかったんだ。俺は幼い時に家を出て育った。でも俺は自分にとって一番いいことを望んでいた。誰かに指図はされたくなかったんだ」と1981年にローリングストーン誌に語っている。

ザンジバルとボンベイに残してきたものがなんであれ、その過去はフレディ・バルサラが話したがるようなものではなかった。彼はちょうどいいタイミングでスウィンギング・ロンドンやザ・ビートルズ、ザ・ローリング・ストーンズの時代の波に乗ることができた。人生が開け始め、彼は未来のすべての瞬間を大いに楽しむつもりでいた。


(フレディ・)バルサラと同様、クイーンの初期メンバーの2人ブライアン・メイとロジャー・テイラーは1960年代後期にロンドンの大学に通っていた。メイは背が高く、痩せていて、穏やかな話し方で、博学であり、ビジョンを持ったギタリストになる発展途上にあった。彼の感受性が最も影響を受けたのは1950年代から聞いていた、バディ・ホリー・アンド・ザ・クリケッツの多重ボーカルやイタリアの人気コンサートマスター、マントヴァーニのストリングス、そして1960年代のザ・ビートルズの革新的な方法など、ハーモニー重視の音楽だったと彼は後に語っている。1963年の終わりにメイは父と共に暖炉から取ったマホガニー材でエレキ・ギターを作った(レッド・スペシャルとして知られ、メイが今でも使用しているギターである)。メイと友人のベーシスト、ティム・スタッフェルはお互い60年代半ばに大学に通い始めた頃に1984というカバー・バンドを組んでいた。メイはインペリアル・カレッジで数学と物理と天文学を学んでおり、1968年には彼とスタッフェルは激しい即興的なノリを持ったスマイルという新しいバンドを始め、クリームのようなバンドたちが作ったブリティッシュ・ロック界隈で受け入れられていった。インペリアル・カレッジの掲示板に、ジンジャー・ベイカーやミッチ・ミッチェルのようなプレイができるドラマーを募集する張り紙したところ、歯科医を目指していたが勉強に嫌気が指していたテイラーがその広告に応えた。テイラーは可愛らしい顔をしていて、喧嘩っ早く、どちらかというとザ・フーのキース・ムーンのような壮大なプレイスタイルであったがスマイルが求めるものをプレイすることができ、また、ムーンのようにサウンドに対する本能的なセンスも持ち合わせていた。「ロジャーがインペリアル・カレッジでセットを組んだ時、仰天したのを覚えているよ。彼がチューニングしたドラムのサウンドはとにかくそれまでに俺が聞いたことのある誰よりも良かったんだ」と1999年にメイはモジョ誌に語っている。そうしてスマイルのトリオは結成された。

スタッフェルは、それまでに同じイーリング・アートカレッジに通い始めていたフレディ・バルサラとも音楽的趣味を共有していた。その頃までにバルサラの内気さは改善されていた。彼はロングヘアーにエキゾチックな整った顔立ちで、危なげなルックスでもあり、しなやかな身のこなし方も身につけていた。1969年初め、スタッフェルはバルサラをテイラーとメイに紹介するために連れて行った。爪を黒く塗っていたバルサラは女っぽく、2人は彼に対して少し変であるという印象も持ったが、彼には人を引きつけるものがあった。また彼には上から物を言うようなところもあった。「その時の彼は単にまっすぐだっただけなんだ。『これはすばらしいよ。雰囲気を盛り上げることやそれを落とすことを意識しているのはすばらしいことだ。でも服装がちゃんとしていなければオーディエンスを正しく扱っているとは言えない。いつだって(オーディエンスと)繋がるチャンスはあるんだ』と彼は言っていた」とメイは言う。

バルサラはこの頃、いくつかのバンドに入ったり辞めたりを繰り返しており、彼は毎回バンドのすべてを作り変える傾向にあった。彼はブルースを歌うことが好きで、ほとんどのバンドがそれを求めていたが彼が影響を受けたものは、イギリス人の作曲家でシンガーのノエル・カワードの楽曲、ショパンやモーツアルトの楽器のボイシング、ディック・パウエルやルビー・キーラー、ロバート・プラント、アレサ・フランクリンの歌唱法、彼が愛してやまない2人のスター、ジミ・ヘンドリックスとライザ・ミネリの表現法など、それよりも遥かに幅の広いものであった。しかし、スマイルを見てから彼はこのバンドのリード・シンガーになりたいと強く願うようになった。彼はスマイルのライブで時々「俺が君たちのバンドのボーカルだったらどうなるかを見せてみせるよ」と叫んでいた。何度もぬか喜びをさせられた後、1970年初めにスタッフェルがスマイルを抜けることが発表された。この頃までにメイとテイラーとバルサラはアパートで共同生活をしており、2人はバルサラが器用でしっかりと教育を受けたピアニストであり非凡なシンガーへと成長しつつあることに気づいていた。そうして1970年4月、3人は新しいバンドを結成した。彼らは1971年にジョン・ディーコンに出会うまでに数人のベーシストを試した(少なくともそのうちの1人はバルサラの突飛なスタイルに抵抗があった)。ディーコンもまた模範的な学生(彼は音響振動工学の修士号を持っていた)で、みんなに極端に内気な印象を与えた(「彼は俺たちとほとんど話すことが出来なかった」とメイは初めて会ったときのことを回想した)。しかし、彼はすぐに曲を覚えオーディションで、その日その場にいたメンバーの言葉で言うと「欠けていたものを補ってくれて1音もミスしなかった」とのことだ。そうしてディーコンはそのポジションを得ることとなった。


バルサラはすぐにその影響力を発揮するようになり、メンバーにもっと印象的でおしゃれな衣装を着るように説得した。また彼はバンドにピッタリの名前を思いついたと力説した。メイとテイラーはザ・リッチ・キッズやザ・グランド・ダンスのような名前を提案したがマーキュリーはクイーンを強く推した。「この名前にはとても威厳がある」と彼は言った。「とても普遍的で、とても直接的で、強力な名前だ。ビジュアル的な可能性も大きく持っていたし、どんな風にも解釈できる余地があったけど、それは単なる一面でしかないんだ」と数年後、彼は付け加えた。

そして、重大なのはクイーンのリード・シンガーはもうフレディ・バルサラではなかったということだ。彼はフレディ・マーキュリーとなった(その名はローマ神話の神々の使者に由来する)。「彼が名前を変えたのには別の人格を装うような意味もあったんだと思う。彼がなりたかった人間になるための後押しになったんだと思う。バルサラという人間はまだ存在していたけど人前では彼はこの神のような別の人格でやっていくつもりだったんだ」とメイは2000年のドキュメンタリーで語っている。

活動開始当初、クイーンは誰にもその音楽を聞かせず成功への戦略を練ることに1,2年を費やしていたという噂があった(ディーコンは友人たちにバンドには”10年計画”があると豪語していた)。マスコミにはそういった野心は音楽が持つ意味や社会的可能性に対する本物の情熱ではなく、ずる賢い策略に映った。そして、キャリアの大部分を通してクイーンはそのイメージから逃れることはなかった。実際のところ、クイーンの成功には常に契約上の問題や深刻な健康問題が付きまとっていた(ある時、メイは壊疽により片腕を失いかけ、後に肝炎、そして十二指腸潰瘍でも入院していた)。しかし、マーキュリーには退路はなかった。メイ、テイラー、ディーコンは元々、大学の後に目指していた職業を当てにすることができた。メイは活動開始当初、天文物理学の博士論文に取り組み続けており、ディーコンは3枚目のアルバムの後までクイーンで本当にやっていけるか確信を持っていなかったことを後に認めている。最終的にマーキュリーはバンド以外の進路を断つ価値があるということをメンバーに納得させた。「思い切ってロックの世界に飛び込むために他の分野で持っていた資格をすべて捨て去れば2番目の策に甘んじることができなくなるからね」とメイは後に語っている。

1973年7月にデビュー・アルバム『戦慄の王女』をリリースするまでに、収録曲はメンバーたちにとってすでに古く感じるものとなっていた。マーキュリーはジャムや即興といったものが受け入れられなかった。彼は、力強く明確なメロディを乗せた入念に作り込んだ構成の曲こそすばらしいものであり、人に作品を聞いてもらいたいのであれば記憶に残るような演奏をする努力をしなければならない、と信じていた。また、ついに彼はバンドの見え方、どんな衣装を着るのか、どんな風にリード・シンガーが動きステージを指揮するか、が同じく重要であるかをメンバーに納得させることができた。黒い爪とハーレクイン・ボディスーツと天使の羽根のマントでステージ上の彼の力強い輪舞のような動きが強調され、彼はその両性具有的な美しさを大いに楽しんだ。その美しさには不吉さも感じられた。そのような特徴は当時デヴィッド・ボウイやT・レックス、ロキシー・ミュージック、モット・ザ・フープルなどが作り上げていたスタイルに似たものであり、それが懸念であった。「俺たちはスウィートやボウイの前からグラム・ロックに傾倒していた。でも今は心配なんだ。俺たちは遅すぎたんじゃないかって」と当時、メイは語っている。


次の2枚のアルバム『クイーンII』と『シアー・ハート・アタック』(共に1974年リリース)でクイーンはその成功を確かなものにした。『クイーンII』の贅沢なサウンドと『シアー・ハート・アタック』のよりハードで推進力のあるアプローチはクイーンの成功の第1期を特色づけた豪華で複雑なサウンドの基礎を築いた。しかし、ステージではマーキュリーがすべてだった。イギリスのマスコミは彼の大袈裟で派手なパフォーマンスに否定的であった。しかし、彼は、しばしばファンをシンガロングに巻き込んだりすることで着実に強力で異常なまでの絆をバンドとオーディエンスの間に築いていった。「理解してほしいのは俺の声はオーディエンスのエネルギーから生まれているということ。彼らが良ければよいほど俺も良くなるんだ」と彼はあるシンガーに語っていた。

4枚目のアルバム、1975年の『オペラ座の夜』のレコーディングの時、クイーンは自分たちの時代が来たと感じていた。「これは俺たちのキャンバスで自分たちのペースでそこに描いていける」と思ったことをメイは回想する。マーキュリーには異常なまでに壮大な曲のアイデアがあった。それまでクイーンの音楽を手がけていたプロデューサーのロイ・トーマス・ベイカーは初めて「ボヘミアン・ラプソディ」を聞いたときのことをこのように語る。「フレディは自分のアパートで『曲のアイデアがある』と言ってピアノを弾き始めた…。そして彼は突然弾くのをやめて『ここでオペラのパートが入ってくるんだ』と言ったんだ。」最初のバラードのパートから、曲はオペレッタのパートへと舞い上がり、そして激しいロックンロールへと変わり、最終的にはバラードに戻る。「あれはフレディの子どもなんだ」とメイは語った。クイーンとベイカーはその曲に数週間費やした。あの曲の有名な大聖堂での合唱のような180度に広がるようなボーカルのパートのサウンドはオーバーダビングを重ねることで生み出された。トラック数が多すぎてテープが透けるぐらい擦り切れ、それ以上レコーディングを重ねると切れてしまいそうなほどであった。

「ボヘミアン・・ラプソディ」が完成するとバンドはそれを『オペラ座の夜』からの最初のシングルにすることを望んだ。エルトン・ジョンのマネージャーでもあった当時のクイーンのマネージャー、ジョン・リードはカットせずに6分近くにも及ぶ曲を出すことなど不可能だと言った。ディーコンも同じ考えであったがテイラーとメイはマーキュリーの決断に賛同した。どんな疑念もマーキュリーとテイラーが完成した音源をBBCのDJケニー・エヴェレットに聞かせた時、すべて吹っ飛んだ。「30分でも問題ない。世紀をまたぐナンバー1ソングになる」とエヴェレットは彼らに言った。「ボヘミアン・ラプソディ」はイギリスでクイーンの初ナンバー1シングルとなり、アメリカでもトップ10に入った。それ以降、この曲は定期的にイギリスの史上最高および最低のシングル・ランキングのトップに挙げられた。マーキュリーはそれにもひるむことはなかった。「多くの人が『ボヘミアン・・ラプソディ』を酷評したけどそれを比べられるような相手なんかいるかい?」と彼は語っている。

マーキュリーはその曲の意味を聞いてくる人たちに我慢ならなかった。「くそくらえだよ。まともな詩人に作品を解説してほしいと頼んだらおそらく『しっかり見れば答えはそこにある』というだろう。俺も同じだ」と彼は語った。しかし、その曲には単にマーキュリーが明かすことのできなかった意味が込められていた可能性もある。「フレディの曲の歌詞には深く覆い隠された何かがあった。でも、すこし考えるとそこに彼の個人的な考えがあることが見えてくるんだ」とメイは後に語っている。実際、『ラプソディ』には今もなお明かされていないマーキュリーの人生の核心につながるカギがあったのかもしれない。評論家アンソニー・デカーティスは「この曲は人に言えない罪について歌った曲だ。『俺は今、罰を受けている』とね。そして、同時に自由を強く望む曲でもある」と言っている。


マーキュリーが心の奥にあるものを明かそうとしなかったのはそうすべきだと感じていたからである。彼の女性的な振る舞いは見せかけだと思っている人もいた。写真家のミック・ロックはマーキュリーが”試しに”女性と関係を持っていたのを覚えている(「1,2人の名前は知っているよ!」とロックは言っていた)。また、マーキュリーと長年のパートナー、メアリー・オースティン(彼がロンドンの洋服屋「Biba」で出会った若く魅力的な女性)との深い関係は長く続いた。

「彼は自分が女性が好きだと思っていたんだ。自分がゲイであることを理解するのにしばらくかかっていたようだ…。自分の中に生まれた感情に向き合うことができなかったんだと思う」とマーキュリーのアート・カレッジ時代の友人は伝記作家レスリー・アン・ジョーンズに語った。クイーンの1976年のアルバム『華麗なるレース』までにガールフレンドだったオースティンに対してしばらくの間、変な行動を取るようになっていた。「彼が何かに対して心苦しく思っていたのは見て取ることができたわ」と彼女はドキュメンタリー映画『フレディ・マーキュリー 人生と歌を愛した男』の中で語っている。最終的にマーキュリーは自分の中の感情に気づいたことをオースティンに伝えた。「彼の口からそれを聞けてほっとしたわ」と彼女は言う。マーキュリーはオースティンを個人秘書兼アドバイザーとして雇い続けるなど、2人の親密な関係は彼が亡くなるまで続き、その後も数々の相手と関係を持ってはいたがマーキュリーはオースティンのことを内縁の妻としていた。それ以降、マーキュリーは彼の性的指向を誰かに説明しなければならないという義務感を持つことはなくなった、とオースティンは言う。

彼はくだらない中傷でも許すことはなかった。伝記本『Queen: The Early Years』で、マンチェスターのライブでクイーンと仕事をしたことのある人は「クイーンがステージに登場するとある男がフレディに対して『このホモやろう』って叫んだんだ…。フレディはスタッフにスポットライトを客席に当ててそいつを見つけるように指示した。それで彼はそいつに『君、もう一度言ってごらん』って言ったんだ。そいつは何も言えなくなっていて…。その180cm以上の男が数cmに縮み上がっていた」とこのように語っている。

もしマーキュリーの同性愛がクイーンのメンバー間で問題になっていたとしたら、それを公にするようなことはなかっただろう。そのこと以外にもうんざりするほどの批判が彼らに襲いかかり始めていた。1976年の『華麗なるレース』のリリースの頃にはパンク・ムーブメントがロックのジャンルを分断し始め、クイーンのようなバンドの音楽は厳しく批判されていた。「ロックのライブはもはやファンによる儀式的なスター崇拝ではなくなった。クイーンはまだ続けているがそのような幻想はすぐに打ち砕かれていくだろう」とNME誌は言明した(伝えられるところによれば、クイーンがセックス・ピストルズと同じスタジオでレコーディングしていた時、シド・ヴィシャスがマーキュリーに「バレエを大衆に広めようとしているフレディ・プラチナってのはおまえか?」と言い、マーキュリーが「おお、ミスター・フェロシアス。最善を尽くしているよ」と答えたという)。その理由がなんであれ、クイーンのサウンドは1977年のアルバム『世界に捧ぐ』で劇的に変わった。よりシンプルな音楽になり、豪華なオーケストラとハーモニーは新奇なアレンジへと置き換えられた。「セックス・ピストルズが出てくる前から、俺たちは多重録音の作品はもう十分にやったって思っていた。だから、『世界に捧ぐ』では意図的に基本に戻って勢いを取り戻そうとしたんだ」とメイは語っている。


このアルバムの「ウィ・ウィル・ロック・ユー」と「伝説のチャンピオン」の2曲はクイーンの最もよく知られている曲、かつ議論を呼んだ曲である。メイ作曲の「ウィ・ウィル・ロック・ユー」は激しい足踏みから始まり、「Somebody better put you back into your place誰かがおまえの居場所に戻してくれるだろう」と疑い深い人のその疑いを吹っ飛ばしてくれるような歌詞で、パンクへの反論と捉えられることもあった。マーキュリー作曲の「伝説のチャンピオン」はバンド内でも物議を醸した。メイはこの曲が傲慢すぎるものとして捉えられることを恐れ、マーキュリーに「これはできない」と言うとマーキュリーは「できるよ」と答えた。この2曲はとてつもない人気となったが、一部の人は不快感を持ち、ローリングストーン誌のある批評家はクイーンを「初の真のファシズム信奉ロック・バンド」と批判した。2曲ともスタジアムでオーディエンスと一緒に歌うことを想定して作った曲だとメイは言っている。どちらの曲においても「『俺たち』というのは俺たち、オーディエンス、この曲を聞く人たちすべてを含んでいる。『俺たちは誰よりもすごいバンドだぜ』という意味の曲ではなく、もっとみんなに当てはまる友好的なものなんだ」とテイラーは言う。「伝説のチャンピオン」をマーキュリーのゲイであることの密かで挑戦的な告白だと捉えるリスナーもいたが、そういった解釈はこれらの曲が世界的にスポーツイベントで勝者の曲として使われるようになってすべて覆された。

『世界に捧ぐ』はおそらくクイーン史上最高のアルバムだった。『ジャズ』(1978年)、『ザ・ゲーム』(1980年)、『ザ・ワークス』(1984年)、『カインド・オブ・マジック』(1986年)を含めそれ以降のアルバムのほとんどは芸術性を追求したようなものではなかったが、それにもかかわらず(デヴィッド・ボウイとの共作「アンダー・プレッシャー」、テイラー作曲の「レディオ・ガ・ガ」、マーキュリー作曲の「愛という名の欲望」、ディーコン作曲の「地獄への道づれ」など)安定してヒットを生み出し、ライブの動員を増やし続けた。しかし、彼らが期待した以上にファンの層は広がっていったのかもしれない。1980年初期までにマーキュリーは自身の1970年代の飾り立てたイメージにうんざりしていた。彼は髪をばっさり切ってオールバックにし、立派な口ひげを伸ばし、レザーかピタッとしたスポーツウェアを着るようになった。それは当時のロック界には受け入れられていなかった、1970年代後期に典型的な屈強なゲイのイメージとして知られていたものそのものであった。それを、特に「地獄への道づれ」のライブ演奏で、タイトなショーツをはいたマーキュリーが「噛み付くんだ」「強く噛み付くんだ、ベイビー」と歌いながらステージを駆け回り、見せたことで、かつてないほどに彼は自身の性的指向を公に認めたように感じられる。1980年のアメリカ・ツアーのいくつかの公演ではファンが使い捨てのカミソリの刃をステージに投げ入れた。彼らは堂々とゲイのロックンロール・ヒーローを気取っているマーキュリーのアイデンティティを良しとせず、それを辞めさせたがったのだ。

クイーンは1982年以降、二度とアメリカでツアーを行うことはなかった。バンドのメンバーがファンが離れていったのはマーキュリーのイメージのせいだとしているという噂もあった。「それを嫌がっていたメンバーもいる。でも、それが彼だし変えることは出来ないんだ」とディーコンは1981年にローリングストーン誌に語っている。一方メイは、バンドはアメリカのマーケットは気にかけていない、というような口ぶりで「いつだって俺たちが最高の俺たちのままでいられて何の心配もしなくていい場所はあった」と語っていた。


クイーンは1980年代もツアーを続け、世界中のスタジアムやアリーナを埋めた。大規模すぎるツアー、豪華すぎるライブは不評を買う原因ともなり、クイーンはアートではなく”商売”だという人もいた。さらにいくつかのよくない出来事によって薄情な”商売”だと判断されたのだ。1981年初期、クイーンは初めて、短くも重要な意味を持つ南アメリカ・ツアーを行うことを決めた。南アメリカのオーディエンスのためにそこまでの労力をかけようとしたバンドはそれまでにいなかったため、それは立派な志によるものと思われた。最初のライブはブエノスアイレスで行われ、国内で史上最大のライブになる予定であった。当時、アルゼンチンは軍事独裁政権が支配しており、左翼と一般市民に対し、統治期間中に30,000人に上る死者を出した「汚い戦争」が繰り広げられていた。クイーンはそのツアーを正当化しようとした。「俺たちはファンのためにプレイしたんだ。それ以外の目的があって行ったわけじゃない」とテイラーは言ったが彼らは評判を落とした。そのイメージはクイーンが1984年10月に南アフリカ、ボプタツワナのサンシティ・スーパーボウルで12公演を行うことを決めるとさらに悪化した。当時、南アフリカはまだ悪しきアパルトヘイトが実施されており、国連が南アフリカとの文化交流はボイコットするように呼びかけていた。加えて、イギリスの音楽家ユニオンは加盟メンバーのサンシティでの公演を禁止していた。事前にイギリス国内で激しい議論が巻き起こったにもかかわらずクイーンは敢行したが、初日のライブでマーキュリーは喉を潰してしまいいくつかの公演をキャンセルすることとなった。

これらの国で公演を行ったことによってクイーンは権力者につくイメージがついてしまった。その頃にマーキュリーは「俺はメッセージ・ソングを書くのは好きじゃない」と語っている。彼は自分たちはエンターテイナーであり、政治的思想とは切り離されたバンドであって、その国の国民のためにライブをしたからといってその国の政府に賛同しているというわけではない、と彼は力説した。しかし、その反動は強く続いた。1984年の終わりに行われたバンド・エイドの「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」のチャリティ・レコーディング(ボブ・ゲルドフとミッジ・ユーロが中心となってエチオピアの飢餓救済のための資金集めを目的として行ったプロジェクト)にクイーンのメンバーが呼ばれることはなく、マーキュリーは本当に心底胸を痛めた。その頃、バンドは集団うつ状態に陥っており、複数の記事が解散状態、もしくは少なくとも長期活動休止中であったと報じていた。マーキュリーは後に「クイーンが何のためあるのかわからない」と語っていた。

数カ月後、ゲルドフは1985年のライヴ・エイドのロンドン公演(アメリカ公演はフィラデルフィアで同時開催)への参加依頼を出した。クイーンは最初、躊躇した。日の光の下でライブをすることになり、彼らはそれを好まず、サウンドの質に関しても心配していた。また、ロンドンの会場には、ポール・マッカートニー、U2、エルトン・ジョン、ボウイ、ザ・フー、そしてスティングとフィル・コリンズの共演など、ビッグネームな競争相手がおり、その頃の政治的な失敗からして、おそらくクイーンは自分たちはイベントに合わないだろうと感じていた。しかし、ゲルドフは彼らを説得し、ライヴ・エイドが7月13日夕方、世界中に放送される中、ウェンブリーのステージに上がった22分後、クリーンは誰も予想できなかったヒーローとしてステージを後にしたのだ。エルトン・ジョンはバックステージのツアーバスの中でクイーンのメンバーを見つけ、「クソ、君たちに全部持っていかれた!」と言った。「俺たちの人生で最も素晴らしい日だった」とメイは語っている。

そのライブのおかげでバンドは一気に復活を果たした。9月になるとクイーンはミュンヘンで『カインド・オブ・マジック』の制作に取りかかり、1986年の夏ツアーの準備も始めた。「俺たちはたぶん今、世界最高のライブ・バンドだと思う。そして、それを証明してみせる…。『ベン・ハー』が『マペット』に見えてしまうようなツアーになるだろう」とテイラーは語った。ライブは、これぞ正真正銘の絶頂期のクイーンだ、という宣伝の仕方に恥じないようなものであった。しかし、マーキュリーは精神状態が安定しない時期でもあった。スペインで言い争いになった時、彼はディーコンに「こんなことを一生やっていくつもりはない。これでおそらく最後だ」と言った。メンバーはひどくショックを受けた、とメイは言う。


ツアーの終わりには莫大なチケット需要があり、クイーンは1986年8月9日にネブワース・パークで約200,000人キャパの追加公演を決めた。そして、それっきりだった。ライブが終わるとマーキュリーは慌ただしく会場を去った。何かが彼の頭にあったことは明らかだった。彼は自分を愛してくれたオーディエンスにこれ以上見られたくなかった。クイーンは最後のライブを終えたのだ。

1980年代初め、アメリカでは当初、感染の約半数が記録されたニューヨークを始めとしてエイズが猛威を振るい始めていた。その致命的な病を「ゲイの伝染病」だというものもいたが、すぐにそれがそのような偏見にさらされるべきものではなく、免疫システムを破壊するHIVウィルスによって引き起こされ、精液や血液などの感染した体液を通じて伝染するものであるであることが明らかになった。それは主に薬物使用者による注射器の使い回しや、複数のパートナーと避妊具を使用しないセックスをすることで広がった。フレディ・マーキュリーは後者に当てはまった。「俺は毎朝起きて相手の男の頭に触れて相手がヤりたいか確かめようとするようなただの軽いやつなんだ」と彼はかつて語った。

1970年代の終わりから1980年代の終わりにかけて、クイーンはミュンヘンを拠点としていたが後に後悔することとなる。ミュンヘンには活発で多様性に飛んだセックス・カルチャーがあり、マーキュリーにとってそこは天国でもあり地獄でもあった。マーキュリーは時折スタジオにいるのを我慢できないことがあり、夜はミュンヘンのディスコやクラブに行くために「彼は自分の分を終わらせたらすぐに出ていきたがったんだ」とメイは後に語っている。ある夜、彼はライナー・ファスビンダーの映画の何本かに出演していたバーバラ・バレンティンに出会った。マーキュリーは(噂されたバレエのスター、ルドルフ・ヌレエフも含め)複数の男性の恋人と真剣で、時に激情的な関係を続ける一方、バレンティンとも深い恋愛仲になった。彼はこの頃、ドラッグに手を染め酒にも溺れており、記憶をなくし前日の夜のことを思い出すことができないことも何度かあった。バレンティンはマーキュリーがアパートのバルコニーから下にいた工事作業員に向かって裸で「伝説のチャンピオン」を歌った後に「その中で一番でかいペニスのやつ、上がってこい!」と言っているのを見つけた時のことをレスリー・アン・ジョーンズに語った。

マーキュリーがエイズの感染のリスクとどのように向き合っていたかは様々な記事に書かれている。彼が1982年以降クイーンのアメリカ・ツアーを望まなかったのはそれが理由だと考える人もいた。しかし、BBCのDJポール・ガンバチーニは1984年のある夜にロンドンのヘヴンというクラブで偶然であった時のことをこう語る。ガンバチーニはマーキュリーにエイズの存在によって野放しのセックスに対する態度は変わったかと聞いた。するとマーキュリーは「『クソくらえだ』俺はみんなとやりたいことをすべてやっている」と答えた。ガンバチーニは「本当に気持ちが沈んだよ。フレディが死ぬのを確信できるほどニューヨークでいろんなものを目にしてきたからね」と語る。マーキュリーは以前、ジャーナリストのリッキー・スカイに「俺は生まれつきとても落ち着きがなく、神経質で…。本当にぶっ飛んだ人間で自分にも人にもよく害を与えてしまうんだ」と語っていた。ある時、マーキュリーははっきりと考えを改めた。1985年の終わりに彼はエイズ検査を受け結果は陰性だった。ミュンヘンのクラブ・シーンを離れ、またバレンティンとの関係も終わらせた。ケンジントンの邸宅に落ち着いた。元恋人で当時の秘書であるメアリー・オースティンが1980年に彼のために見つけた家である。「セックスのために生きてきた。俺はまったく見境なく関係を持っていたけどエイズが俺の人生を変えてくれた」と彼は後に語っている。


1987年、マーキュリーは再びエイズ検査を受けたが検査結果を見るのを避けていたように思われた。彼がかかっていた病院はマーキュリーに何度か連絡を取ろうとしたが反応がなく、オースティンに連絡を取り事態の緊急性を彼女に説明した。マーキュリーはついにHIV陽性の診断が下された。「心が抜け落ちるのを感じたわ」とオースティンは後に語っている。しかし、マーキュリーはまだバンドには伝えなかった。「何かが起こっているのはわかっていた。でもそれについて話すことはなかった」とメイは後に語る。この頃までにマーキュリーの前マネージャー、ポール・プレンターがイギリスの新聞にその血液検査についてすでに話しており、マスコミはその問題を公表するようバンドにプレッシャーをかけ始めていた。しかし、マーキュリーはその噂が嘘であると主張した。飲み過ぎで肝臓を悪くしているのではないかと推測する友人もいたが、1987年にバレンティンが彼の顔と手にある、カポジ肉腫の可能性が疑われる傷に気づいた。

バンドの13枚目のアルバム『ザ・ミラクル』が1989年初旬に完成するとマーキュリーはすぐに次のアルバムに取りかかろうとした。彼はできる限り多くの作品を録るために、ついにメンバーにその理由を話さなければならないと悟った。「彼は俺たち全員をミーティングのために家に招いた」とテイラーは言う。マーキュリーはメンバーに「たぶん俺の問題に気づいていると思うけど…、その通りだ。でも今までと何も変えたくないし、人に知られたくもないし、話したくもない。ただ俺は倒れるまでどんどん曲を作っていきたい。だから俺をサポートしてほしい」と伝えた。メイ、テイラー、ディーコンはひどくショックを受け、「俺たちはその場を後にし、それぞれでこっそりと落ち込んではいたが彼の病気に関して直接話をしたのはその時だけだった」とメイは後に語っている。

マーキュリーの問題に対する認識は当然のように新作『イニュエンドウ』の制作に影響した。「それによって一体感、団結力が生まれたんだ」とテイラーは語る。それぞれが曲を作る者としてクイーンは自分たちにとっての究極のテーマに向き合っていることを自覚したがバンドの慣習からそれについて話し合うことを難しいことであった、とメイは言う。「照れくさくて俺たちは詞について話し合うことはできなかった」とメイは2004年にモジョ誌に語っている。たとえそうであったとしても『イニュエンドウ』は差し迫った死を、他のどんな作品もが望むほど印象的かつ優美に、そして、自らを憐れむような瞬間を見せることなく描いている。「終盤に近づくにつれてはっきりとわかってきたんだ。フレディは時々、自分が言いたいことを言葉にできないことがあって、こんなふうに言うと変に聞こえると思うけど、歌詞を書くにあたって、ある意味ロジャーと俺が彼の代わりにそれを言葉にしたと言ってもいいと思う。フレディはもうそれを言葉するのが難しくなって来ている状態だったんだ。だから、俺の「ショウ・マスト・ゴー・オン」やロジャーの「輝ける日々」は、フレディの俺たちとの協力の仕方で俺たちがフレディのために作った曲なんだ。でも、それは話し合ったわけではない。終わりにたどり着く前に俺たちが終わりを見つけようとしていたんだ」とメイが語り、「俺たちは最後まで団結しようって決めたんだ」とテイラーが付け加えた。

「不思議なことにすごく楽しく感じたんだ。フレディは苦しんでいたけど…、スタジオの中は温かい空気で、彼は幸せを感じ自分が好きなことを楽しむことができたんだ…。彼は日によっては疲れてしまって1日数時間しか出来ないこともあった。でも、その数時間で彼は多くをやり遂げたんだよ。立ち上がることが出来なかった時、彼は机を支えにしてウォッカをぐいっと飲み干して、『血が出るまで歌うよ』って言ったんだ」とメイは語る。


『イニュエンドウ』の後もマーキュリーはレコーディングを続け、できるならもう1枚アルバムを完成させようとした。「フレディが『俺のために曲を書いてくれ…。俺のために歌詞を書き続けてくれ。俺が歌うから』とフレディは言ったんだ」とメイは言う(その成果は1995年リリースの『メイド・イン・ヘヴン』に収録されている)。「彼は続けたの。それが彼の好きだったことだから。そして、そうすることが病気に向き合う勇気を彼に与えていたのよ」とオースティンは言う。マーキュリーの最期まで同棲していた長年の恋人ジム・ハットンも「もし音楽がなければ彼は持ちこたえることが出来なかっただろう」と同意する。

1991年9月、フレディ・マーキュリーは予定していたレコーディングをすべて終わらせてケンジントンの家に戻った。彼は「両親が理解することも受け入れることもできないようなことに巻き込みたくなかった」と両親のことを気にかけ続けていた、とピーター・フリーストーンは回顧録『Freddie Mercury: An Intimate Memoir』に綴っている。数年後、彼の母ジャーは「息子は私たちのことを傷つけたくなかったのよ。でも、私たちには最初からわかっていたわ」と語っている。

マーキュリーはほとんどの訪問者を受け入れなかった。体が弱っていくのを見られたくなかったのだ。彼は薬の使用をやめ、視覚障害の症状も現れていた。それにも関わらず、その状態を認める以下の声明を発表した1991年11月の夜まで、彼はエイズであるという報道を強く否定し続けた。「メディアによる多大な憶測がありましたが、私がHIV陽性の診断を受け、エイズを発症していることを認めたいと思います。このことを公表しないことが私の周りの人たちのプライバシーを守るために正しいことだと思っていました。しかし、私の友人たちと世界中のファンのみなさんに真実を打ち明ける時が来ました。みなさんに私と私のドクターたち、そして、この恐ろしい病と戦っている世界中の人々と力を合わせてほしいと願っています。」彼の世話をしていた人たちは、その後の彼は心の重荷が下りたように見えたと語っている。その翌晩、フリーストーンとハットンがフレディのベッドシーツを変えようとしていた時、ハットンは彼がもう息をしていないのに気づいた。「彼は逝ってしまった」とハットンはフリーストーンに言った。フレディ・マーキュリーは45歳だった。フリーストーンはマーキュリーを訪ねてくるところだったテイラーに電話をして、「来なくていい」と伝えた。

マーキュリーの葬儀は数日後、ゾロアスター教にしたがって執り行われた。アレサ・フランクリンが歌い、ソプラノ歌手モンセラート・カバリェはヴェルディのアリアを披露した(カバリェはオペラ調のアルバム『バルセロナ』で共演している)。マーキュリーの遺体は火葬され、マーキュリーが唯一、心から信頼し、彼の家を遺したメアリー・オースティンが遺灰を埋葬し、その場所は明かされていない。

翌年4月、残されたクイーンのメンバーは亡くなったマーキュリーの追悼コンサートをウェンブリー・スタジアムで行い、様々なエイズ関連団体のために資金を集めるマーキュリー・フェニック・トラストを始動するためのイベントとした。そのコンサートの後、バンドは13年間、活動を休止した。ディーコンは、マーキュリーが晩年取り組み、1995年に完成した4人の最後のスタジオ・アルバム『メイド・イン・ヘヴン』のレコーディング・セッションを最後に完全に音楽業界から引退した。このアルバムの曲はすべて愛の美しさと儚さを歌った曲である。


「彼の死は乗り越えられていない。メンバーの誰もね。みんなすぐに受け入れられると思っていたと思うけど、彼の死が俺たちの人生に与えた衝撃の大きさを俺たちはわかっている。今でも俺はそのことについて話すのは楽なことではないと感じている。残されたメンバーにとってはクイーンはまるで完全に別の人生だったかのように感じるものだったんだ」とテイラーは後に語っている。

人々はマーキュリーの生き方にも死に方にも悩まされた。彼が病に倒れたのを、彼の性的指向と不特定多数の相手と性的関係を持ち続けたことに対する罰だと見る同性愛反対派もいた。また、エイズ撲滅のために戦っていた人たちは彼が最後まで自身の病を認めなかったことを非難した。こういった批判は常にマーキュリーについて回ったが、もし彼の音楽が意味のあるものであるとしたら彼が犯した失敗にも価値があったと言えるだろう。様々な曲で死の必然性や孤独の寂しさ、希望について歌っているが、『ザ・ゲーム』の「セイヴ・ミー」に「I have no heart, Im cold inside(俺には心がない、内側が寒い)/I have no real intent.( 俺には本当の意図なんてないんだ)/Save me(助けてくれ)/I cant face this life alone(1人じゃこの人生に向き合うことが出来ないんだ)」とあるように、得ることの出来ない救いも彼は求めていた。しかし、マーキュリーは子供の頃そうだったように、孤独でいなければならないとも感じていた。「すごく孤独な人生かもしれない。でも、俺はそれを選んだんだ」と彼は語った(1970年代初め頃、オースティンが子どもを作ろうと提案するとマーキュリーは「それならネコを飼うほうがいい」と答えたと言われている)。家庭的な安住の代わりに彼は人生の大半で快楽を求め、そして、言うまでもなくその選択は大きな代償を招いた。彼の最高の曲の1つ「ドント・ストップ・ミー・ナウ」では至福の気持ちを「Im a rocket ship on my way to Mars(俺は火星に向かうロケット)/On a collision course(衝突する軌道に乗って)/Im a satellite out of control(俺は操作不能の人工衛星)/Im a sex machine ready to reload(俺は再装填の準備が出来たセックス・マシーンなんだ)」と、ありのままに歌っている。

よく知られているが『天国と地獄の結婚』で詩人ウィリアム・ブレイクは「過剰の道が知恵の宮殿に通ずる」と言った。自己抑制することなく欲望を追求する過剰な人生を送るとやがてそういった快楽に意味がないことに気づき、もっと意味のある目的を見つけるようになる、という意味の格言である。しかし、リスクを冒さなければ可能性や自分をもっとも輝かせてくれることを見つけることはできない、という意味ととることもできる。『ザ・ミラクル』で彼は労を惜しまず自身の過剰さに向き合い、答えを見つけた。「Was it all worth it all these years?(この年月に価値はあったのか?)/It didnt matter if we won – if we lost.(勝ったか負けたかなんてどうだっていい)/Living, breathing rock & roll(生きて呼吸するロックンロール)/Was it all worth it?(全部価値があったのか?)/Yes, it was a worthwhile experience(そうだ、価値のある経験だった)/It was worth it.(価値があったんだ)」と。この歌詞を歌った時、彼は自分にほとんど時間が残されていないことを知っていた。偽った気持ちを表現する時間などなかった。「俺の失敗は俺の責任だ」と彼は語っていた。

マーキュリーが晩年に歌った最高の曲「輝ける日々」は彼のためにテイラーが書いた。人生でやってきたことのすべてを受け入れ、毅然とした態度で自らの旅立ちに備えるという曲である。この曲のビデオにはカメラに映る最後のマーキュリーの姿が収められている。彼は痛々しいほどにやつれ、死が目前に迫っているのは明らかで、撮影の現場にいた人は服が皮膚に触れるだけでもひどい痛みを感じていたと語っている。しかし、撮影の瞬間は完全に彼が”戻ってきて”、輝いてすらいた。彼は空を仰ぎ両腕を広げ、そして、カメラを見て言い残したことのすべてを歌う。「Those were the days of our lives – yeah(それが俺たちの輝ける日々だったんだ、そう)/The bad things in life were so few(人生で悪いことなんてほとんどなかった)/Those days are all gone now, but one things still true(そんな日々は過ぎ去ったけど1つ確かなことがある)/When I look and I find(よく見たら気づいたんだ)/I still love you. . . . I still love you.(今でも君を愛している、今でも君を愛していると)」

この瞬間に彼のすべてが許された。彼は苦しんでその”知恵”を身に着けた。おそらくそれ以外の方法はなかったのだろう。
フレディ・マーキュリーは死によって救われたのだ。

ローリングストーン誌2014年7月3-14日号からの転載