「グランジ」史上最高のアルバム50選

ニルヴァーナ、パール・ジャム、アリス・イン・チェインズ、サウンドガーデン、マッドハニー……マルチプラチナムの名作から、忘れがたいアンダーグラウンド作品まで。ロックの歴史を作り直したはみ出し者たちが残した「グランジ・アルバム」のトップ50を紹介する。

25年前、カート・コバーンはグランジはダサいものになると予言していた。「グランジはニューウェイヴと同じぐらい強力な呼び方だ。時代遅れになるのを避けることはできない」と、彼はローリングストーン誌に語っている。当時、エディ・ヴェダーがタイム誌の表紙を飾り、ファッション・デザイナーのマーク・ジェイコブスがモデルにフランネルシャツを着せ、ニューヨークタイムズ紙までもが「不浄やゴミを意味する言葉が、なぜ音楽のジャンルやファッション、ポップカルチャーの社会現象を指すようになったのか?」という記事を書くほどであった。その呼び方は廃れてしまったが、当時の音楽はいまも重要な役割を果たし続けている。

当人たちがその呼び方を好んでいたかどうかは別として、グランジはムーブメントであった。10年もしないうちにニルヴァーナやシアトルの一握りのバンドがアンダーグラウンドからはい出てポップカルチャーを席巻し、自分たちのヴィジョンでそれを作り直した。歌詞では感情をむき出しにし、多くの女性たちや80年代のボサボサな髪型が持て囃されたメインストリーム・ロックから取り残された人たちに居場所を作った。そして、パンク・ロックに倣い派手なロックスター的演出を排除した。その音楽はハード・ロックとメタルとパンク(と、至るところに垣間見えるニール・ヤングからの影響)の融合であり、それにより音楽的な幅が生まれそれぞれのバンドが独自性を持っていた。やがてすぐに、インディ・レーベルでの数年の活動を経た世界中のバンドが幅広く認知されていくようになった。しかし、そのムーブメントはニュー・メタルがロック界に台頭し数年で急速に下火になっていった。

ただ、グランジが死んでしまったというわけではない。パール・ジャムやマッドハニー、アリス・イン・チェインズ、メルヴィンズのようなシーンを代表するバンドは高評価を受けるようなアルバム、商業的成功を収めるアルバムを未だにリリースし続け、グランジはアメリカン・カルチャーの一部になっている。その影響はヒップホップにも響いているし(ジェイ・Zは2013年の曲「ホーリー・グレイル」で「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」のサビを使っている)、インスタイルなどの雑誌はグランジ・ファッションの再興を伝えている。また、ブリーやメッツ、スピーディー・オーティズ、そしてジュース・ワールドのような若いアーティストたちが、このジャンルの鋭いギター・リフと本音の叫びという伝統を受け継いでいる。

アリス・イン・チェインズ、サウンドガーデン、ストーン・テンプル・パイロッツ、ニルヴァーナ、パール・ジャムのアルバムが1位を取り、そして悲しくもカート・コバーンが自殺した1994年は、グランジがメインストリームを席巻していた最後の年である。我々はその25周年を記念して、ローリングストーン編集者たちでその時代のベスト・アルバムを選んでみることにした。グランジというジャンルの幅の広さを感じ、決してそれが時代遅れなものにはなっていないことを証明するために、チャート1位を獲得したバンドのみならず、あまり日の目を見ることがなかったPawやザ・ギッツ、ザ・ユー・メンのようなバンド、さらにはグランジの祖(ニール・ヤング)などもピックアップした。ブッシュやキャンドルボックス、シルヴァーチェアーのように、大ヒットしたものの時の試練に耐えることができなかった作品は除外してある。

では、古着屋で買った一番いいセーターを着て、ドクターマーチンを履いて髪を肩まで降ろして、最も偉大なグランジ・アルバム・トップ50をしっかりと楽しんでほしい。

50位 マザー・ラヴ・ボーン 『アップル』(1990年)
49位 トーディーズ 『ラバーネック』(1994年)
48位 フィーカル・マター 『イリテラシー・ウィル・プレヴァイル』(1986年)
47位 ザ・ユー・メン 『Step On A Bug』(1988年)
46位 ヴェルーカ・ソルト 『アメリカン・サイズ』(1994年)
45位 ザ・ストゥージズ 『ファン・ハウス』(1970年)
44位 スキン・ヤード『Hallowed Ground』(1989年)
43位 ブラック・フラッグ 『マイ・ウォー』(1984年)
42位 アリス・イン・チェインズ 『ジャー・オブ・フライズ』(1994年)
41位 サウンドガーデン 『スクリーミング・ライフ』(1987年)
40位 マッドハニー 『エヴリ・グッド・ボーイ・ディザーヴ・ファッジ』(1991年)
39位 ザ・ギッツ 『Enter: The Conquering Chicken』(1994年)
38位 The Fluid 『Purplemetalflakemusic』(1993年)
37位 L7 『スメル・ザ・マジック』(1990年)
36位 ニール・ヤング&クレイジー・ホース 『ニール・ヤング&クレイジー・ホース』(1990年)
35位 Paw 『Dragline』(1993年)
34位 7・イヤー・ビッチ『¡Viva Zapata!』(1994年)
33位 ベイブズ・イン・トイランド 『ファンタネル』(1992年)
32位 スマッシング・パンプキンズ 『ギッシュ』(1991年)
31位 タッド 『8-ウェイ・サンタ』(1991年)
30位 ワイパーズ『Youth of America』(1981年)
29位 グリーン・リヴァー『Come On Down』(1985年)
28位 サウンドガーデン 『ラウダ-・ザン・ラヴ』(1989年)
27位 ベイブズ・イン・トイランド 『スパンキング・マシーン』(1990年)
26位 スマッシング・パンプキンズ 『メロンコリーそして終りのない悲しみ』(1995年)
25位 メルヴィンズ 『Bullhead』 (1991年)
24位 ストーン・テンプル・パイロッツ 『パープル』(1994年)
23位 サウンドガーデン 『ウルトラメガ・OK』(1988年)
22位 コンピレーション・アルバム 『ディープ・シックス』(1986年)
21位 ジェリー・カントレル 『ディグラデーション・トリップ』(2002年)

※21〜50位のジャケット写真はこちらをチェック。

20位 グリーン・リヴァー 『ドライ・アズ・ア・ボーン』(1987年)


数年のライブ活動の後、少し変わったレコーディングの末、グリーン・リヴァーは1987年の『ドライ・アズ・ア・ボーン』にそのグルーヴを刻んだ。『Come On Down』(1985年の前作:29位)が”あるがままの生の”作品であったのに対し『ドライ・アズ〜』は3、4分に切り分けた感情的爆発をパンクとメタルの境目のない混合物として完璧に仕上げたものであった。「『ドライ・アズ〜』は俺のお気に入りのグリーン・リヴァーのアルバムだ。あの頃はまだそれをすごく楽しくやれていた。成功しつつあったしあまり考えることに時間を費やさなくてよかった」と最近になって、ギタリストのストーン・ゴッサードはローリングストーン誌に語っている。彼らはこのアルバムをスキン・ヤードのギタリストでもあるプロデューサー、ジャック・エンディノの下、たった数日でレコーディングした。エンディノは『ドライ・アズ〜』に洗練された鋭さをもたらし、激しい「ディス・タウン」(「崖っぷちに追いやられてしまった」とマーク・アームはがなるように歌っている)やエアロスミス風ブギーの「アンワインド」のような曲がアルバムを引き立てている。

サブ・ポップはこのリリースの宣伝で大げさに「時代のモラルをぶっ壊す超絶自由なグランジ」と書いており、これが「グランジ」という言葉を使って世に出された初めてのレコードであった。数年後、このバンドのメンバーたちはマッドハニー、パール・ジャム、ラヴ・バッテリー、マザー・ラヴ・ボーン、テンプル・オブ・ザ・ドッグで、時代を決定づけるその予言を実現させることとなった。





19位 『シングルス:オリジナル・サウンドトラック』(1992年)


キャメロン・クロウが脚本と監督、マット・ディロンとブリジット・フォンダが主演を務めるラブコメ映画『シングルス』はグランジのカルチャーが重なり合う、時代を象徴する映画だ。しかし、クロウは『ネヴァーマインド』が世に出る前にこの映画に着手しており、シアトルには個人的な繋がりがあったり(当時の妻、ハートのナンシー・ウィルソンは長年のシアトル居住者だった)するなど、『シングルス』は金儲けを狙って作った映画ではなかった。映画公開の数カ月前にリリースされたサウンドトラックは、シーンを代表するバンドが『シングルス』のために提供した新曲で構成されており、グランジを世に知らしめる完璧な序奏となった。

パール・ジャムの攻撃的な「ブレス」や「ステイト・オブ・ラヴ・アンド・トラスト」、スクリーミング・トゥリーズの力強い「ニアリー・ロスト・ユー」、アリス・イン・チェインズがアンドリュー・ウッドに捧げた曲「ウッド?」などの曲はグランジの絶頂そのものであり、クリス・コーネルのアコースティック曲「シーズンズ」はシーンのあまり知られていないサイケ・フォークの一面を示している(ジミ・ヘンドリックスや、アン&ナンシー・ウィルソンのサイドプロジェクト=ラブモンガーズの曲が収められているのは、シアトルのロックがグランジから始まったわけではないということも思い出させてくれる)。サイモン&ガーファンクルの曲を『卒業』で使用したマイク・ニコルズの手法のファンであるクロウは、『シングルス』のサウンドトラックについて「『卒業』のような感覚があったんだ。『シングルス』はその感覚の中に本当に飛び込んでいくような作品だ」と語っている。





18位 マッド・シーズン 『生還』(1995年)


シーン内の結びつきが密接な1990年代中期のシアトルの音楽シーンには、一度限りのものも含め、すでに成功を収めたアーティストによるバンドがいくつも生まれた(モンキーレンチ、元気かい?)。1995年に1枚のアルバムをリリースしただけであるにもかかわらず、アリス・イン・チェインズのフロントマン、レイン・ステイリー、パール・ジャムのギタリスト、マイク・マクレディ、スクリーミング・トゥリーズのドラマー、バレット・マーティンとベーシスト、ジョン・ベイカー・ソーンダースで結成したマッド・シーズンは、マクレディがその年にギター・ワールドに語った「ジャズっぽい曲、ブルースの曲、アリーナ・ロックの曲」でその名を後世に残る強固なものにした。

マクレディとソーンダースは薬物アルコール中毒のリハビリ施設で出会い、他のメンバーも再びそういったものに手を出さないようにお互いを見張るという意味も込めて集められ、音楽セラピーの実験的なものとしてこのバンドは結成された。「もし俺が”クリーン”な状態でなければ、このプロジェクトが形になることはなかった。レコーディングはスムーズにいった。それぞれのバンドにあった”荷物”はなかったからね。俺たちはただ音楽を作るためにスタジオに入ったんだ。とても自由な環境だったよ」と当時マクレディは語っている。「ロング・ゴーン・デイ(遠き過去)」の変わったサックス・ソロや「アイム・アバヴ(自我生還)」のスパニッシュ・ギターによるソロなど装飾的サウンドもあって、重苦しい内容にはなっていないが、ステイリーの無類のヴォーカルがスラッジーかつ突き抜けるようなギターに混ざって、『生還』にはアリス・イン・チェインズとパール・ジャムが完璧に融合したフィーリングが生まれている。




 
17位 スクリーミング・トゥリーズ 『スウィート・オブリヴィオン』(1992年)


ワシントン州出身のスクリーミング・トゥリーズは、6枚目のアルバムのレコーディングをした時、それが彼らの最後のアルバムになると感じていた。1991年にメジャー・デビュー作『Uncle Anesthesia』をリリースしたばかりであったが、バンド内の不和により解散の危機に瀕していたのだ。

1993年、ベーシストのヴァン・コナーがスピン誌に語ったように、バンドは喧嘩するのを止めて「ダサいぐらいに仲良くやっていく」ことを決めた。彼らは関係を修復し、グランジのメインストリームの波に乗り送れることなくハード・エッジなロックにレトロなサイケデリア感(「バタフライ」「セレブレイションズ・パスト」)やほろ苦いフォーク(「ダラー・ビル」)を取り入れたアルバム『スウィート・オブリヴィオン』を発表した。このレトロへの傾倒とマーク・レネガンのディープで美しく枯れた声のおかげで、彼らの同世代による激しく苦悩が込められた作品よりも大人なサウンドのアルバムに仕上がっている。同年公開のキャメロン・クロウによるシアトルへのラブレター『シングルス』の中でも特に目立って耳に残る「ニアリー・ロスト・ユー」は、めまぐるしいグランジの全盛期にメインストリーム・ロック・トップ20を飾った。





16位 メルヴィンズ 『フーディーニ』(1993年)


『ネヴァーマインド』以降の90年代は、30分程のドローン・ドゥームの作品を妥協せずにリリースしたメルヴィンズのようなバンドが、フィル・コリンズやベット・ミドラーと同じレーベルと契約するような不思議な時代であった。バンドはアトランティック・レコードからのデビュー時に、長年の友人であるカート・コバーンを共同プロデューサーとして迎えた。コバーンは数曲を任されていたがその結果は実りあるものとは言えず「残念ながらコバーンは何かをプロデュースできるような状態ではなかった」とフロントマンのバズ・オズボーンは2009年にThe Strangerで語っている。

5枚目となるこのアルバムには、滑稽なまでにヘヴィでありえないほどキャッチーなリフと、完全に意味不明な言葉で構成された1曲目の「フーチ」、92年にリリースしたシングルを録り直したヘヴィで激しいロック曲「ナイト・ゴート」、キッス『地獄のさけび』収録のスカスカなオリジナル版を遥かにしのいだ重厚なカバー「ゴーイン・ブラインド」など、今日に至るまでのバンド史上、最も力強く聞きやすい曲が収録されている。しかし、バンドのトレードマークであるタイムストレッチさせたような不思議さも忘れられてはおらず、それは傑出してスローモーション的な「ハグ・ミー」や、(ツェッペリンの)「モビー・ディック」というより(ブーレーズの)「イオニゼーション」に近いデイル・クローヴァーのドラム・ソロが入った最終曲「スプレッド・イーグル・ビーグル」に表れている。

「この20年間、いろんな人に『ああしろ、こうしろ言われるからメジャー・レーベルにはいない方がいい』みたいなことを言われてきたけど、俺はそれに対していつも『俺らがメジャーでやった作品を聞いたのか?』って答えていたよ(笑)。それがレコード会社の干渉だというなら、別に構いやしないよってことだ」とフロントマンのオズボーンは2012年、ナッシュビル・シーン紙に語っている。





15位 L7 『ブリックス・アー・ヘヴィ』(1992年)


L7は3枚目のアルバム『ブリックス・アー・ヘヴィ』で商業的成功のピークに到達した。プロデューサーのブッチ・ヴィグは、アイデアが尽きることのない厚みのある彼女たちのリフに、埋もれないメロディとシンガロングのサビを作る手助けした。ブッチによる改良が功を奏し、アメリカのビルボードのヒートシーカーズ・チャートで1位を獲得し、イギリスとオーストラリアではそれ以上の成功を収めた。「彼女たちはぶっ飛んでいるし攻撃的で自信に満ちていて、本当にやりたい放題な90年代を代表するバンドよ。私たちをツアーに呼んでくれて、そのときは日記をつけていたわ」とルナチックスのギタリスト、ジーナ・ヴォルプはローリングストーン誌に語っている。

その栄光の大部分はシングル「プリテンド・ウィ・アー・デッド」と、MTVで繰り返しオンエアされた同曲のミュージック・ビデオによってもたらされた。この曲は、スージー・ガードナーのしゃがれ声の哀歌「スライド」や「モンスター」、メタル的な力強さを持った「エヴァーグレイド」、ポーカーフェイスな怒りの「ワン・モア・シング」(後者2曲ではベーシストのジェニファー・フィンチがレアなヴォーカル・パフォーマンスを見せている)のような、アルバムの持つより激しい”快楽”へ導いてくれるゲートウェイ・ドラッグ的な役割を果たしていた。

ブッチ・ヴィグがこのアルバムで果たした功績は、カルト教団に入る前に友達の家のガレージでスプレー缶を吸ってハイになるスキンヘッド(実話だ!)から、怠け者の夫をベッドに縫い付けてフライパンで殴って子どもたちと出ていく妻(実話かも!)まで、ドニータ・スパークスの歪んだ奇抜なアイデアを何でも自由に歌わせたところにあると言えるだろう。しかし、それが実話であれ創作であれ、どんなに異常であったとしても、映画『ナチュラル・ボーン・キラーズ』で不朽の名作となった、このアルバムのもう1つの際立った曲「シットリスト」で感じられるスパークスの異常性には足元にも及ばない。





14位 アリス・イン・チェインズ 『フェイスリフト』 (1990年)


ニルヴァーナの『ネヴァーマインド』はグランジを全国的な社会現象に変えたが、グランジのコアなファンベースを築き始めたのは『ネヴァーマインド』の1年前にリリースされたアリス・イン・チェインズの『フェイスリフト』である。このアルバムが成功した秘訣は何だったのか。ヘヴィでスローなブラック・サバス的サウンドでヘヴィ・メタルのファンに訴えかけたのだ。そしてまた、オジー・オズボーンもアリス・イン・チェインズのファンであり、彼らを自身のツアーの前座に呼んだり、去年の彼のお気に入りのメタル・アルバムのリストに『フェイスリフト』を選んだりしている。

しかし、『フェイスリフト』がグランジであることに疑いの余地はない。このアルバムで最も広く知られ、グラミー賞にもノミネートされた曲「マン・イン・ザ・ボックス」を聞いてみてほしい。ギタリストのジェリー・カントレルによるシンプルなチャギング・リフは、アリス・イン・チェインズがなぜか一緒にツアーを回ったポイズンのような、当時のポップ・メタル・バンドの甲高いギター・トーンや派手な演奏とは全く対照的である。ステイリーの絶望に満ちた悲痛なヴォーカルはお祭り騒ぎ的なヘア・メタルとは正反対のものであった。「俺は俺自身やこの世界に100%満足することは決してない。ずっと何かに不満を言っているだろう」と、2002年にオーバードーズで亡くなったバンドのヴォーカリストは、1992年にローリングストーン誌に語っていた。

(アルバムの大半の曲と同様、カントレル作曲の)シングル曲「ウィ・ダイ・ヤング」「シー・オブ・ソロウ」「ブリード・ザ・フリーク」を引っさげ、『フェイスリフト』はこれから訪れるシアトル台風の第一波として世に吹き付けた。また、注目すべきはこれがゴールド・ディスクとして認定された初のグランジ・アルバムだったということだ。それに次ぐのが『ネヴァーマインド』である。





13位 ニルヴァーナ 『ブリーチ』(1989年)


ニルヴァーナはこの『ブリーチ』で、シアトルの乱雑かつヘヴィで不機嫌なハード・ロックを広める存在としてインディ・ロック・シーンに登場した。当時、結成からたった2年であった彼らは、たった600ドルの予算で、急成長していたグランジ・シーンの異常なまでに退廃的なサウンドを見事にまとめあげたのだ。「サブ・ポップと”ロック”をやっているシーンからのプレッシャーがあった。俺たちは最初みんなを喜ばせようとしていたんだ。それでどうなるか見てみたくて」とカート・コバーンはバンドの伝記『Come as You Are』の中で語っている。その努力の結果、単にコバーンがメルヴィンズの熱烈なファンだということを反映しているだけでなく、実際にメルヴィンズのドラマー、デイル・クローヴァーを起用した「フロイド・ザ・バーバー」「ペーパー・カッツ」などの曲の荒々しいリフが生まれた。

このアルバムはアンダーグラウンドからの影響は明白であるが、コバーンの歌詞とメロディはポップ音楽への深い理解も感じることができる。甘くも気まぐれなパンク版ビートルズのような流れの「アバウト・ア・ガール」、クリス・ノヴォセリックの催眠術的なベースの「ラヴ・バズ」(ショッキング・ブルーのカバー)、ハイテンポでキャッチーな「ネガティヴ・クリープ」など、『ブリーチ』は表面的には攻撃性をひけらかしているが、聞けば聞くほど繊細な違いを感じることができるアルバムなのだ。

「『腹が立っているけど、自分でも何に対してなのかはわからない。ただネガティブな歌詞を歌おう。それが性差別的とか極端に恥をかくようなものでさえなければ大丈夫だ』って感じ。どの歌詞も自分にとって重要なものだとは思っていない」とコバーンは1993年、ニルヴァーナのデビューの裏にあった意図についてスピン誌に語っている。彼がパッと作ったように思えるような、この『ブリーチ』がシーンのファンや初期のバンドの熱狂的な信者を獲得する第一歩となった。これを足がかりとして、ほんの数年後、彼らは世界をものにするのだ。





12位 スマッシング・パンプキンズ 『サイアミーズ・ドリーム』(1993年)


レコーディング自体はほんの4カ月しかかかっていないが、『サイアミーズ・ドリーム』はビリー・コーガンとバンドメンバーが5年の歳月をかけて生み出した総決算だ。デビュー作『ギッシュ』(32位)で批評家たちから絶賛を受け、熱狂的ファンを獲得し、メジャー・レーベルと契約して、次にコーガンが目指したのは一般大衆へのウケだった。例えば『ギッシュ』ではメンバーに不満を抱かせながら、コーガンがすべての曲を作りギターとベースのパートを演奏するなど、制作の主導権を完全に握っていた。この緊張感に薬物中毒、悪化した恋愛関係、ノイローゼが合わさって、パンプキンズはこのアルバムをリリースする前にすでに崩壊寸前であった。幸いにも彼らの苦悩は報われ、『ネヴァーマインド』のプロデューサー、ブッチ・ヴィグの助けを受け、「天使のロック」や「武装解除」、胸をえぐられる「マヨネーズ」のような、ファジーでシューゲイズ的でフックが散りばめられた曲の力によって舞い上がったグランジの傑作アルバムを実現することができた。

ハイライトはもちろん、自信を喪失した空想的かつ楽観的なバラードである衝撃的なほどに皮肉な「トゥデイ」だ。「それを捨てて実現できない理想を追い求めるのか、それとも、シカゴ出身のダサい少年である自分を受け入れるのか? この曲は真実の場所から響いているんだ」とコーガンは1995年、「トゥデイ」についてローリングストーン誌にこう語っている。

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11位 ストーン・テンプル・パイロッツ『コア』 (1992)


「これパール・ジャムの曲?」ストーン・テンプル・パイロッツ(以下STP)の「プラシ」がテレビで流れた時、ビーバスはそうつぶやいた。それに対し、「エディ・ヴェダーは髪を赤く染めたんだ」とバットヘッドは答えている(訳注:TVアニメ『ビーバス・アンド・バットヘッド』での一幕)。

大半の人は1992年にSTPが出現したときそんな愚かな反応をしなかったが、サンディエゴのバンドがグランジ・シーンに便乗したことを避難する向きが多かったのも事実である。そういう批判をしていた人々は、70年代のグラム・サウンドをモダン・オルタナティブ・ロック・シーンに融合させたデビュー・アルバム『コア』で、STPが何曲ものキラーチューンを生んでいたことに気づいてなかった。「プラシ」が実際、パール・ジャム『Ten』から取り出したような曲に聞こえたとしても、「クリープ」「ウイックド・ガーデン」「セックス・タイプ・シング」のような曲では完全に彼ら自身のスタイルを聞くことができる。

「俺たちのバンドに類似点があるとは全く思っていない。俺はパール・ジャムのことを、現代版のバッファロー・スプリングフィールドのようなクラシック・ロック・バンドだと思っている。見下して言っているつもりはない。ただ、俺たちは全然違う道を進んでいるんだ」と、1994年にスコット・ウェイランドはローリングストーン誌に語っている。





10位 パール・ジャム 『Vs.』(1993年)


パール・ジャムは元々、このセカンド・アルバムを『Five Against One(5対1)』というタイトルにしようとしていた。それは新曲の「アニマル」にある一節であることに加え、フロントマンのエディ・ヴェダーが他の4人のメンバーやマネージャーのケリー・カーティスと対立していたところから来ていた。簡潔に言うと、ヴェダーは露出を減らし元のDIYスタイルに戻るためにバンドの目標を思い切ってスケールダウンしたいが、他のメンバーはMVを作りラジオで曲をヒットさせ続けたいということだった。「1枚目のアルバムの時、俺たちは地下室に住んでいた。2枚目であの地下室から遠くに来すぎてしまったと感じた。そこは当時の俺にとって、アルバムを作るには難しい場所だったんだ」とエディ・ヴェダーは語っている。

どうにかして彼らは意見の相違を解決し、お互い協力する道を選び、「ゴー」「ドーター」「ディシデント」「エルダリー・ウーマン・ビハインド・ザ・カウンター・イン・ア・スモール・タウン」のような名曲を次々と生み出した。そのおかげで、このアルバムは1本のビデオも作らず、インタビューもほぼ受けていなかったにも関わらず、初週で100万枚近く売り上げた。ヴェダーが望んでいたことが何であれ、パール・ジャムは単純に大きく、才能がありすぎたため失敗することなどありえなかったのだ。

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9位 サウンドガーデン 『スーパーアンノウン』(1994年)


1994年までにグランジはラジオ、フェス界隈(ロラパルーザ)、MTVを席巻していたが、特にアートの一形態としてはそこからどこに向かおうとしていたのか? それがただ一時の流行りではなく、ロックそのものの次のステップであることを示さなければいけないということをサウンドガーデンは知っていた。後にクリス・コーネルが「俺たちが世界のステージで演奏したり、テレビでMVを流したり、ラジオで曲を掛けたりする価値のあるバンドであるということを、みんなで証明しなければならなくなると感じていた。これは『ブリティッシュ・インヴェイジョン』とか『ニューヨークのノイズ・シーン』のようなただの流行ではないんだ」とローリングストーン誌に語っていたように。

そんなプレッシャーを物ともせず、クリス・コーネルとメンバーは「レット・ミー・ドラウン」や「スーパーアンノウン」などの暴れ馬のようなロック曲から「ブラック・ホール・サン」や「フェル・オン・ブラック・デイズ」などのダークなサイケデリア曲まで彼らのバンド史上最も強固な曲群を書き、プロデューサーのマイケル・ベインホーンが彼らの初期のスプラッターペイントのような荒々しさを磨き上げることで、とてつもない作品へと変貌させたのだ。その結果、バンドの巧妙で新しい一面を示すこの4枚目のアルバムが、偶然にもサウンドガーデン自身にとっての『レッド・ツェッペリン IV』のようなものとなり、すぐさまハード・ロック史を代表するアルバムになった。

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8位 ニルヴァーナ 『イン・ユーテロ』(1993年)


ニルヴァーナの最後のスタジオ・アルバムは”叫び”であった。マルチプラチナを獲得した前作のようなスタイリッシュな叫びではなく、『イン・ユーテロ』は苦痛とフラストレーションの無作法な叫びで、このバンドのことを一切理解することのなかった音楽業界への究極の反抗だったのだ。このアルバムでは痛烈な皮肉(「サーヴ・ザ・サーヴァンツ」「ラジオ・フレンドリー・ユニット・シフター」)と怒りによる浄化(「セントレス・アプレンティス」「ミルク・イット」)、無防備な精神状態(「ペニーロイヤル・ティー」、「フランシス・ファーマー・ウィル・ハヴ・ハー・リヴェンジ・オン・シアトル」)が歌われている。カート・コバーンの怒りは時にそのターゲットを見失っているが(例えば、元々フェミニストを擁護するものとして作った「レイプ・ミー」は、その役割を果たすにはあまりにも露骨すぎた)、変わらない自己破壊的な激しさによって『イン・ユーテロ』はグランジに不可欠な作品となった。

1993年秋のリリースまでにアルバムの”物語”はすでに始まっていた。2年前に突然スターダムに駆け上ったことに動揺したニルヴァーナは、荒々しく商業的ではないサウンドにして、当初レーベルがリリースを拒否したと思われるアルバムを作るため、スティーヴ・アルビニをエンジニアに起用した。「当然、彼らは次の『ネヴァーマインド』を期待しているが、そんなことをするぐらいなら死んだほうがマシだ」とコバーンは言ったと伝えられている。そして数週間後、彼らが富をもたらしたレーベルの人間たちと公に対立する結果となった。

他のどんな話でもそうだが、これも真実の一面でしかない。「ダム」や「オール・アポロジーズ」、「ペニーロイヤル・ティー」「ハート・シェイプト・ボックス」などの曲は『ネヴァーマインド』を躍進させたポップさを洗練し複雑にしたものであり拒絶したものではない。コバーンは後に、このアルバムを『I Hate Myself and Want to Die』というタイトルにしようとしたことについて、ただのダークな冗談だったとローリングストーン誌に語っている。「多くの人が思ってるよりも俺はずっとハッピーなヤツなんだ」と彼は主張した。次は「優美なアコースティック」アルバムを作ると彼は話していた。この後1年もしないうちに彼は亡くなってしまったが、『イン・ユーテロ』の中に込められた矛盾を彼が払拭する曲を聞くことができなくなってしまったことも、その悲劇の一部である。

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7位 テンプル・オブ・ザ・ドッグ 『テンプル・オブ・ザ・ドッグ』(1991年)


1990年3月に起きたマザー・ラヴ・ボーンのシンガー、アンドリュー・ウッドの死は、シアトルのロック・シーンに大きな打撃を与えた。そのカリスマ的なフロントマンの親友にしてルームメイトであったクリス・コーネルは、その悲しみのすべてを「セイ・ハロー・トゥ・ヘヴン」や「リーチ・ダウン」などの新曲に込めた。コーネルはそれらを残されたマザー・ラヴ・ボーンのメンバー、ジェフ・アメンとストーン・ゴッサードに聞かせ、彼らがサンディエゴ出身のエディ・ヴェダーというシンガーとバンドを組んだことを知ると、すぐに彼らは皆でウッドを追悼するためにテンプル・オブ・ザ・ドッグという名前でレコーディングすることを決めた。このプロジェクトは元々フルアルバムを作る予定ではなかった。

「アルバムにもっと重みがあった頃だ。それからは精神自浄のため、楽しむためのものになった」とコーネルは2016年にローリングストーン誌に語っている。2018年のコーネルのショッキングな死を経てからは、喪失と後悔を歌った曲は全く新しい意味を持つようになった。

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6位 アリス・イン・チェインズ 『ダート』(1992年)


グランジ初のゴールド・ディスクとなった1990年のデビュー・アルバム『フェイスリフト』の成功の後、ニルヴァーナが音楽シーンに開けた風穴を背景に、アリス・イン・チェインズはより幅広いMTVの視聴者に自分たちの音楽を知らしめる段階にあった。映画『シングルス』に出演し、サウンドガーデンやパール・ジャムも参加するサウンドトラックの1曲目にモンスター・ヒット・シングル「ウッド?」が収録されるなど、幸先の良いスタートを切っていた。他の多くのグランジ・バンドとは違い、アリス・イン・チェインズはパンクよりヘヴィ・メタルからの影響が大きく、それはブレイクのきっかけとなった曲「マン・イン・ザ・ボックス」ですでに明らかであった。

そして、『ダート』には彼らの新しい音楽に裏で影響を与えていたものがあった。ヘロインである。「ゼム・ボーンズ」「ルースター」のようなダークで生々しい曲や、そのままのタイトルの「ジャンクヘッド」など、このアルバムはレイン・ステイリーが当時も続けていた薬物乱用が反映されていた。「このアルバムは曲が進むにつれてドラッグを称賛する内容から、悲惨な状況になって、初めは自分の役に立っていると思っていた物に対して疑問を投げかける内容へと変わっていく。アルバムが終わりに行くまでに、思っていたようにはうまくいかなかったっていうことが明らかになっている」と、彼は1992年にローリングストーン誌に語っている。





5位 マッドハニー 『スーパーファズ・ビッグマフ』(1990年)


『ネヴァーマインド』の方が人気だったかもしれないし、マッドハニーはシアトル・シーンの中で誰もが知るようなバンドにはならなかったかもしれないが、『スーパーファズ・ビッグマフ』はおそらくこのリストの中で最も影響力のあるアルバムだろう。バンドの2大お気に入りのエフェクターから拝借したタイトルのEPのオリジナル版は1988年にリリースされ、その直球の攻撃性がアンダーグラウンド・ロック・シーンに衝撃を与えた。フロントマン、マーク・アームの不機嫌な声とスティーヴ・ターナーのガレージ・ロックなギターソロが特徴的な「ニード」、暴れまわるダーティなベース・リフの「ノー・ワン・ハズ」、芸術的なブレイクダウンの「インNアウト・オブ・グレイス」など、バンドの振り幅の大きさを感じることができる。

レーベルは1990年にこのEPを再リリースするにあたって、彼ら最初の2曲のシングル曲を追加し、『スーパーファズ・ビッグマフ』はニルヴァーナなどのバンドが当時目指していたサウンドの見本のようなものとなった。キャメロン・クロウは「タッチ・ミー・アイム・シック」を『シングルス』の劇中でグランジ・バンド、シチズン・ディックの曲として「タッチ・ミー・アイム・ディック」に変えて使用し、ソニック・ユースはキム・ゴードンのボーカルで同曲をカバー。カート・コバーンは「スウィート・ヤング・シング」の特徴的なアイデアを『ブリーチ』の「ネガティヴ・クリープ」に借用している。

このアルバムは、サブ・ポップのベストセラーのひとつとなった。「もし『スーパーファズ・ビッグマフ』が1年もイギリスのチャートに残り続けることがなく、マッドハニーがこんなに評判にならなかったとしたら、ニルヴァーナがどうなっていたかはわからないだろう」とサブ・ポップの共同設立者ブルース・パヴィットは1993年、スピン誌に語っている。以降、本作の曲はマッドハニーのライブで欠かせないものとなっている。「俺たちはただがむしゃらに、お互いメンバーに着いていこうとしていただけ。ある意味、今でもそうだ」とアームは2008年にローリングストーン誌に語っている。





4位 ホール 『リヴ・スルー・ディス』(1994年)


『リヴ・スルー・ディス』は自分自身を引き裂くコートニー・ラヴのサウンドそのものだ。この2ndアルバムは激情的な女性フロントマンである彼女が、それまで悪女として扱われていたが本当はポップカルチャーのヒロインであるということを主張するように、共依存や母性、フェミニズムを波乱万丈に反映した作品である。もちろん、そのタイミングは疑いようもなく悲劇的であった。ホールのメジャー・デビュー作品は、ラヴの夫であるカート・コバーンがショットガンで自殺し、2人が暮らしていたシアトルの自宅でその遺体が見つかってから、ほんの数日後にリリースされた。『リヴ・スルー・ディス』はラヴが突然、未亡人セレブという役割を押し付けられるのを予言していたようなタイトルである。それでも、世界を揺るがしたコバーンの死の前からラヴは世の中に示すべきものを持っており、このアルバムで想像の遥か上を行く結果を残したのだ。

自分の世間的イメージをおもしろがったり(「プランプ」)、ワシントン・シーンのキッズをからかったり(「ロック・スター」)、産後の鬱に向き合ったり(「アイ・シンク・ザット・アイ・ウッド・ダイ」)、恋愛関係の不安を赤裸々に歌ったり(「ドール・パーツ」)しているが、これらはすべてラヴの痛烈な皮肉であり、レズビアンの繊細な声から、腹の底から引き裂かれたかのように血を固まらせるようなしゃがれた叫びまで彼女の声は節操なく変化する。

コバーンと、このアルバムで演奏しリリースの3カ月後にオーバードーズで亡くなったクリスティン・ファフの悲しみを乗り越えた後、ラヴは物議を醸したツアーに出た。彼女はこのアルバムが持ち続けうる影響を理解し、自分というアイコンに対する世間のイメージをみずから作り上げていこうとした。「同情票をもらっているとは思いたくないし、そうするには私が持っているものが本物だということを証明するしかない。それが『リヴ・スルー・ディス』の意味よ」と、ラヴは1994年にローリングストーン誌に語っている。





3位 パール・ジャム 『Ten』(1991年)


パール・ジャムはたった3カ月のライブ活動を経て、1stアルバムを作るために1991年3月にシアトルのロンドン・ブリッジ・スタジオに入った。彼らはムーキー・ブレイロックというバンド名で、主にアリス・イン・チェインズの前座として西海岸の小さいライブハウスを回っていたが、その時に「BLACK」「EVEN FLOW」「ALIVE」「WHY GO」など、最終的にこのアルバムの中心となった新曲を試していた。エディ・ヴェダーはシアトルのシーンに来たばかりで、バンドのメンバーとも前年の10月に出会ったばかりであったが、彼の深みのある声と非常にパーソナルな歌詞が、80年代のどんな音楽よりも70年代のパンクやアリーナ・ロックから影響を受けていたバンドの音楽と完璧にマッチしていた。

数年後、ヴェダーはこのアルバムが、自身の人生にとっての大きなターニングポイントであったと振り返っている。「俺がちゃんとした音源を作った初めての機会だったし、めちゃくちゃ集中してやった。俺は新しい街に来ていたから、その曲が友達や家族の代わりだったんだ」と2009年にローリングストーン誌に語っている。しかし、このアルバムが13×プラチナ・アルバムに認定され、今でもラジオでかかり続ける時代のアンセムを生み出し、パール・ジャムを小さなライブハウスのバンドから世界中のスタジアムで演奏するようなバンドに押し上げることになろうとは、誰も想像できなかったはずだ。

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2位 サウンドガーデン 『バッドモーターフィンガー』(1991年)


テンプル・オブ・ザ・ドッグでの経験から、もっとキャッチーで簡潔な曲作りに再び焦点を合わせなければと感じたクリス・コーネルは、サウンドガーデンの商業的成功のきっかけとなった『バッドモーターフィンガー』でバンドを新時代へと導いた。ドラマーのマット・キャメロンは誇らしげに「俺たちはポップなアルバムは作らない」とローリングストーン誌に語っていたが、このアルバムが出たのはヘヴィ・ロックにとっての大転換期であったため、「アウトシャインド」「ジーザス・クライスト・ポーズ」(MTVがミュージック・ビデオの公開を禁止したおかげでもある)、リズム的に変化のある「ラスティ・ケージ」(後にジョニー・キャッシュがカバー)の3曲が大ヒットとなった。それぞれの曲にこれらの曲を名曲たらしめている、音程を外すことのないコーネルの異次元レベルの高音に合った個性的でブルータルなリフが入っている。

一方、オーディエンスを突き上げるような「スレイヴズ&ブルドーザーズ」や「サーチング・ウィズ・マイ・グッド・アイ・クローズド」などの、よりディープな曲はライブに欠かせない曲となった。「『ラウダー・ザン・ラヴ』(89年の前作)の後、俺たちは少し後戻りしなければならないような状況だった。『ラウダー・ザン・ラヴ』でダークなサイケデリアは感情的なヘヴィさにいくらか置き換わったけど、それが『バッドモーターフィンガー』で奇抜さとともに戻ってきた」とギタリストのキム・セイルは語っていた。

サウンドガーデンはニルヴァーナやパール・ジャムよりもヘヴィだったが、それでもグランジのスターバンドたちの第一波の中でしっかりと居場所を確保し、シーンを代表する曲を生み出した。そして、そのアルバムはビルボードライブ200で39位を記録し、ダブルプラチナとして認定された。またグラミー賞にもノミネートされた。「俺は『バッドモーターフィンガー』をすごく気に入ってるんだ。車で聞くと本当にいい感じだからね。このアルバムにはサウンドガーデンの典型的な奇抜さが詰まっている。俺たちはいつもクレイジーで変わった要素を入れてるんだ。ヘヴィさを追求しながらも、真面目になりすぎない能力が俺たちにはある。全力を尽くしながらも笑うような感じだ」とセイルは語っていた。





1位 ニルヴァーナ 『ネヴァーマインド』(1991年)


90年代初期のポップ音楽は悲惨な状況であった。ラッパーたちはジニーパンツを履き、ロッカーたちは「11月の雨」について感傷的な9分の長編曲を作り、マイケル・ボルトンはアイズレー・ブラザーズの曲を盗作していた。ニルヴァーナはそんなシーンの根本を揺るがした。彼らはメインストリームの音楽に存在するくだらない流れを無視し、生々しく修正されていない、包み隠すことのない4分の曲を作り、ビルボード・ホット100に並ぶ顔ぶれを変え、その後の10年間の大部分を荒々しいギター・リフと心からの歌詞にスポットライトがあたる時代にした。カート・コバーンは愚かさ(「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」)や醜さ(「リチウム」)、幻滅(「サムシング・イン・ザ・ウェイ」)を歌い、女性を人ではなく物のように扱ってきたハード・ロックの因習に抵抗(「ポリー」)した。このアルバムは、マイケル・ジャクソンの『デンジャラス』から全米チャート1位の座を奪うほどの勢いがあった。

1987年の結成からバンドはとてつもない成長を見せた。数年前のコバーンは、明らかにメルヴィンズやマッドハニーからの影響を滲ませつつ、低音のリフの上で低い声でつぶやいたり高音で叫んだりするようにして歌っていたが、ツアーでの経験や、すべてを『ブリーチ』より強くクリーンにしたプロデューサーのブッチ・ヴィグの助けによって、最高傑作を作り上げることに成功した。

「『ネヴァーマインド』の制作過程を思い出すと今でも恥ずかしくなる。バンク・ロックのアルバムというよりモトリー・クルーのアルバムに近い」とコバーンは、バンドの公式伝記『Come as You Are』の中で語っている。しかし、彼はあちこちにハーモニー・ボーカルを入れたり、ギター・パートを重ねたりしているが、それでも『ネヴァーマインド』は激しくパンクに聞こえる。ヘヴィであるがメロディックでもあるアレンジの中に、よく知られるピクシーズの「LOUD-quiet-LOUD」な様式からの影響や、新ドラマーのデイヴ・グロールによるハード・ヒットのドラムなどの絶妙なニュアンスがあり、コバーンの歌詞にも世俗っぽさがある。

スキッド・ロウは1991年のナンバー1アルバム『スレイヴ・トゥ・ザ・グラインド』で、『ネヴァーマインド』の「ステイ・アウェイ」の「神はゲイだ」のような歌詞を書くことはなかったし、サミー・ヘイガーは遊ぶことに精を出しすぎて、陰気に昂ぶった「リチウム」の歌詞のように「俺はひどく孤独だが それでもいいんだ」なんてことを認めることはなかった。「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」で聞くことができるウィリアム・バロウズ調のコラージュ的歌詞は「まあ別になんだっていい」という、態度のゆるいロックスターたちの新時代の到来を告げていた。ウィアード・アルが「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」を替え歌にしたり、パティ・スミスも同曲をカバーしたりと、コバーンは望まずして時代の代弁者となった。このアルバムのインパクトは圧倒的であった。「シアトルにいた数年はサマー・オブ・ラヴみたいで最高だった。ギターを持ったままオーディエンスの上に飛び乗って、会場の一番後ろまで運ばれても無傷で戻ることが出来た。何を祝ってるのかは誰にもわからなかったが、お祝いみたいなものだったんだ。でもメインストリームに出てしまって全部終わってしまった」とコバーンは語っている。

『ネヴァーマインド』のリリースから数カ月もしない間に、パール・ジャムの『Ten』は全米チャート2位になり、アリス・イン・チェインズの『ダート』もトップ10に入り込み、サウンドガーデンの『バッドモーターフィンガー』はゴールド・ディスクに認定された。『ネヴァーマインド』は大げさなロックにうんざりしていた音楽ファンとって時代を変えてくれるものとなった。そのジャンルの分け方を彼らが好きか嫌いかは別として、ニルヴァーナは音楽というものを永遠に変えたのだ。「俺たちの小さなグループはこれまでもそうだったし、最後までずっとそのままだろう」と『ネヴァーマインド』の中の歌詞にもあるように。

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