奇想天外なアストンマーティン│催眠術にかかるような魅力とは?

1976年、アストンマーティンは近未来的なスタイリングのラゴンダで各地のモーターショーを席巻した。40年という歳月が流れた今、突如としてラゴンダはファッショナブルな車として大注目を浴びている。

1970年代、子供心にイギリス中がSFで満ち溢れていたことを鮮明に覚えている。テレビをつければ1999年の月面に設けられた核物質廃棄施設を舞台にした『Space 1999』に釘付けになった。学校ではテキサスインスツルメンツが発売した"TI-30"という関数電卓を叩いていたし、ボールペンの登場で万年筆とは違い指先が汚れなくなった。子供のみならず大人も機械式のアナログ時計ではなく、カシオトロンのデジタル腕時計を身に着けるようになった。そう、時代は大きく進化していた。

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それこそ当時は、本気で空飛ぶ車の登場が間もないと、誰しもが信じてやまなかった。1976年、アールズコート・ショーに現れたアストンマーティン・ラゴンダを見て、これこそ空飛ぶ車が登場するまでの"つなぎ"だという認識を持ったことが記憶に新しい。ロングボディで、真っ平らで鋭敏で角ばったそのスタイリングは、それまでの高級サルーンの常識を覆す、まさにラディカルでアバンギャルドだった。それを手掛けたデザイナーがウィリアム(通称、ビル)・タウンズという、イギリスではごく平凡な名前であることがアイロニーに感じられ、思わず微笑んでしまった。



この頃、アストンマーティンの財務状況は厳しかった。実はラゴンダが登場する前年には破産申請を申し立て、半年間は操業が完全にストップしていたのだ。起死回生を計って実行された、ショック・アンド・オー(衝撃と畏怖と呼ばれる軍事作戦名)は見事に成功し、その後、新たな資本家によってアストンマーティンは生き返った。これらの方策とラゴンダの人気によって、1970年代を乗り切ることができた。ラゴンダは特に中東からの人気が高く、デビューからしばらくはV8よりも販売台数が上回ったほどであった。

ラゴンダとオーナーの蜜月にも、いつしか終わりが来る。特にラゴンダ・オーナーは、時間の経過とともに増してくる莫大な維持費に嫌気がさすようになっていった。70年代の最先端エレクトロニクス機器は、なんとか80年代を乗り切ったものの、90年代以降はもはやレトロに分類される。やがてクールでファッショナブルだったラゴンダは、いつしか熱狂的なエンスージアストによって、「保護の対象」へと変わっていった。流麗なスタイリングを持つ歴代のV8クーペが愛され続けているなか、70年代半ばに突如として現れた奇想天外でアバンギャルドなラゴンダの唯我独尊ぶりは、普遍というわけにはいかなかったのだろう。

しかし"ファッションは繰り返す"とはよく言ったもので、このタイミングで急にラゴンダが見直されている。というのも、アストンマーティンが新たに投入したタラフがラゴンダにインスパイアされたものだからである。「ラゴンダを初めて見かけたのは17か18歳の頃、美術展を観ようと地元のシェフィールドからロンドンを訪れたときでした。

多分、バークレー・スクエア近くだったと記憶しています」そう語っているのは、アストンマーティンのデザイン部門を率いるマレック・ライヒマンだ。目を見張るほど低いフロントノーズはもちろん、あのデザインはほかの車と一線を画すばかりか、ほかの時代からやってきたようだった。

「スマートフォンなんて存在しない時代でしたし、カメラも持ち合わせていませんから、ラゴンダの側でラゴンダを感じようとジッと立っていましたよ」

カーデザイナーの多くがラゴンダのデザイン、もしくはあのデザインに至った思考に少なからず影響されているはずだとライヒマンは語っている。

「ラゴンダは完璧なデザインでしょうか。いや、違います。ラゴンダはドラマチックか。それにはイエスです。当時、タウンズはデザインの限界を試していたからこそ、ドラマチックであることが完璧なデザインの具現化よりも重んじられたと思っています」

ジウジアーロやガンディーニをはじめとしたイタリアの著名スタイリストに依頼すれば、流麗かつバランスが取れた"いつも通り"の美しいデザインに仕上がっていたことだろう。しかし、タウンズが求めたのは"いつも通り"の美しさではなく、言うなら挑戦的なものだったのだ。ライヒマンはさらに続ける。「ラゴンダのボディラインは、まるでデザインスケッチ画のように見えませんか。大規模な自動車メーカーなら、生産効率や機械化のために、どんどんデザインスケッチ画は修正されていきます。すると量産されるものは、オリジナルデザインとは異なるものに仕上がっている場合も多々あります。その点、アストンマーティンは手作業を多用する小規模な自動車メーカーだったからこそ、『あのパネルはボクが折り曲げてなんとかします』とか『その部分は私に担当させてください』となったわけです」

昨今のコンクール・デレガンスにラゴンダが参加できたなら、ほかの車に引けをとらない注目度の高さを誇ると思う、ともライヒマンは言う。



ラゴンダは奇抜なルックス以外にも、極めて短期間で実車がお目見えしたという点で特筆すべき車だった。自己破産から半年間の休業を経て新たな投資家を得ることができたものの、復活を確固とするためには、翌年のモーターショーで世間を驚かせる作品を公開しなければならなかった。そのチャレンジに挑んだのがデザイナーのウィリアム・タウンズと、当時シャシー設計担当のマイク・ロースビーだった。1976年2月にはラゴンダのデザインが出来上がり、10月12日のモーターショーでお披露目された。たった8カ月で完成したのだ。

デザイン通りのボディサイズでは、既存のV8用シャシーでは強度が足りないため、ロースビーは新たに補強を施した。低いボンネットを実現させるため、エアクリーナーボックスの搭載位置を極力下げ、オイルパンを改造した。エンジンはAM V8のものをベースにし、サルーンらしいフィールが得られるように、カムシャフトのプロファイルをマイルドにし、その分のパワーを補うためにバルブを大型化した。トランスミッションは、信頼性が高いことで定評のあるクライスラー製「トルクフライト」3速ATを組み合わせた。また、ZF製のマニュアル・ギアボックスの搭載も検討されたが、実現には至らなかった。エッジの効いたエクステリアデザインの衝撃度と比べたら、機構面にはさほど驚くようなことはなかったと言ってもいいだろう。

エクステリア同様、インパクトを与えるのがインテリアだ。後席のヘッドスペースが思いのほか窮屈なこと、長身者にはちょっと窮屈な膝のスペースも、フカフカの本革シートに座ればすべて忘れる。しかし、もっとも驚かされたのはリアドアのウィンドウかもしれない。強く寝かされたことで、構造上開閉ができなかったのだ。エアコンディショナーに頼ればいいとはいえ、灼熱の中東市場に向けたモデルとして顧客に受け入れられるか否かは賭だった。しかも開発段階ではフロントの開閉も確実ではなかったと聞く。



これほどまでにデザインを優先した車は、今の時代では考えられないことだろう。そして、ラゴンダの最大の特徴といえば、当時では超ハイテクだったLEDとタッチパネルを採用したインスツルメントパネルを語らずにはいられない。

当初、ラゴンダからは既存のスイッチ類を排除し、すべてをタッチパネルで操作するよう計画されていた。まず、イギリスのクレーンフィールド・インスティチュート・オブ・テクノロジーが開発に取り組んだものの、あえなく失敗。その後、タッチパネルの開発はアメリカ・テキサス州にあるジャヴェリン・コーポレーションに委ねられた。出てきた開発コストの見積もりは、なんと車両開発総予算の4倍だったという。デリバリーが始まった1978年、まるでSFのようなラゴンダのコンセプトにも若干の妥協が成された。それでもタッチパネルのスイッチは当初の計画よりも減って17個、ドライバー側のドアに14個、そして換気をするための従来のスティック型スイッチが3個配された。果たして、ラゴンダのコンセプトは成功と呼べるのだろうか。イエスでもありノーでもある。

インスツルメントパネル周りのコンセプト自体は素晴らしかった。従来のアナログ表示を廃止して、デジタルによって具体的に表示することで、ドライバーには正確な情報が伝達された。たとえば燃料計は残量がパーセンテージで表示されたほか油圧、速度やタコメーターもすべてが数値で表示された。様々な情報が数値で表示されることで近未来さを感じさせはしたが、運転中における視認性の高さという点では疑問が残ったのは事実かもしれない。しかし、ラゴンダにとって視認性も、後席のレッグスペースがひどく狭いのも、窓が開かないことも、どれも大した問題ではない。

さらに言えば、これだけ近未来の演出に徹していたのにもかかわらず、エンジンは普通にキーを回さなければならず、ATのシフトレバーもワイパーレバーもその辺の乗用車と同じものだった。それでも許せる。



ラゴンダには、催眠術にかかってしまうような感覚に陥いらせる魅力がある。これが40年前の人々が思い描いた21世紀の車だと思うと、どうしても感慨深くなってしまう。アクセレーターを踏み込めば、どっしりと静かに加速していく。アストンマーティンが手掛けた車ではあるが、スポーツカーではなく高級サルーンに仕立て上がっている。アイドリング時にはLEDで表示される数値が上下に行き来する。LEDの数字が踊る計器板もさることながら、異様に小径なステアリングホイールにも目を奪われる。シトロエンの唯我独尊ぶりを超えるとでも記しておこうか。パワーアシストの出来の良さは、想像するよりもオーバーアシストではなく、適度な重さとタイヤからのフィードバックがある。

特別に速いわけではないが優れた前後重量配分と、バランスの良い足回りによって、グランドツアラーとして申し分ない走りを披露してくれる。開発段階にはツインターボを装着した試作車もあったが、エンジンルーム内のスペースの都合上、市販車では見送られた。

『Motor Sport』誌は1982年1月号に、ラゴンダ500マイル試乗記を掲載している。そこには「丸一日、500マイルを走破しても、アームチェアに座っていたようなもの」と記されている。それはジェントルマンズクラブに置いてあるようなアームチェアに座るような雰囲気こそ、ラゴンダに乗る際には大切な要素だと筆者は考えている。

ラゴンダへの注目度は高い。長年、アストンマーティンの本拠地であり、現在はクラシック・モデル部門があるニューポートパグネルの街でさえ、ラゴンダの姿を見かけるとたくさんの視線が集まる。それほど特異な存在であり、ほかの車と比べようがない。

ラゴンダの車両本体価格は、LED表示のタコメーターのように目まぐるしく変わっていった。1977年5月には2万4570ポンドだったものが、1982年2月には5万6500ポンドにまで跳ね上がった。ちなみに、1979年時点では、ラゴンダはアストンマーティン全体の約半分の売上を占めた。1983年9月には大幅な改良が施され、なんと後席のウィンドウが僅かながら開閉するようになった。従来のステンレス・スチール製ホイールは、BBS製のアルミとなり、計器板はLEDからブラウン管へと変わった。1970年代にアストンマーティンに入社した若きデザイナー、サイモン・ソーンダーズ(後にアリエル・アトムを手掛けて一躍有名になった)に課せられた仕事は、ラゴンダの狭い室内をどうにかすることであった。しかし、それは不可能であったという。

「瀕死のアストンマーティンを救ったラゴンダですが、ボディサイズに似合わず狭い車室は、欠陥と言っていいほどです。どうにもこうにも、やりようがありませんでした」とソーンダースは回想している。しかも開発陣は、積極的にラゴンダのテストカーに乗ることを推奨されていたのだが、彼は社用車であったフォード・コルティナに乗っていたという。



ラゴンダは、1986年に再度マイナーチェンジで装いを新たにした。テールランプはトランクリッド部分からボディ下部へと移設され、リトラクタブルヘッドライトは廃止され、普通にラジエターグリル(実際はトランスミッション・クーラーだったが)の両脇に移動した。計器板はブラウン管をやめ、アウディ・クワトロのような真空蛍光ディスプレイへと変更された。 

車としては確実に進化を遂げたが、ラゴンダが当初持っていたラディカルな魅力が薄れていったのもまた事実だった。1990年の生産終了までに645台が生産され、約半数は中東で販売された。超富裕層が多い中東では高級車さえも捨てられるため、何台が現存しているかは定かではない。
 
これからラゴンダ・オーナーになろうとする方々にとっては、アストンマーティン・ワークスが強い味方になる。かつてのニューポートパグネル工場には歴代モデルのレストアを手掛けるアストンマーティンの子会社があり、どんなトラブルでも解消してくれる。もちろん、ラゴンダのダッシュボードも修理できる。



「2世代目に備えられているブラウン管は高圧電流を使うために湿気に弱く、歴代ラゴンダのなかで特に不安定です」と語ってくれたのは、ヘリテージ部門を率いるナイジェル・ウッドワードだ。アストンマーティン・ワークスが顧客に勧めているのは、AM V8に使われているアナログメーターへの交換だ。もちろんブラウン管ダッシュボードは新車時の状態に戻すことも可能だが、そもそも新車時から不安定だったことが最大のネックだという。

「そのほか大容量のバッテリーと大型オルタネーターへの交換は、配線の多いラゴンダにはお勧めしています。ハードウェアでのトラブルは思いのほか少なく、AM V8との部品互換性は約9割に上るので、さほど心配はいりません」とも語っている。もちろん、この手のレストア作業には金がかかる。ただ、最近のラゴンダ相場の値上がりぶりを見ていると、いずれレストアコストも回収できそうな勢いだ。事実、2015年5月に開かれたボナムズのオークションでは、1984年式の美車が10万ポンドで落札されたほどだ。

ラゴンダが現役だった頃、自動車誌はこぞってロールス・ロイス・シルバースピリットやベントレー・ターボRなどと比較テストを特集したが、アストンマーティンが1位に選ばれることはなかった。だが、現在、シルバースピリットもターボRも10万ポンドでは取引されていない。ウィリアム・タウンズはラゴンダの現状にさぞ満足していることだろう。