茨城県の倉庫で見つかったマセラティ・メキシコ│38年ぶりに公道へ

2017年、岐阜県の納屋の軒下でフェラーリの稀少モデルが発見されたというニュースが世界中を駆け巡った。そのアルミボディのデイトナは、40年間ほどそこで眠っていたという。今、私の前にある稀少なマセラティもまたこのフェラーリと同様に、バーンファインドされ、38年ぶりに公道に舞い戻った。

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"バーンファインド"についての説明など、本誌の読者の方々には必要ないだろう。長い期間、倉庫や納屋などの中に、人知れず長く保管されていたものが見つかることをいう。オリジナルの状態がそのまま残されていたり、走行距離が少なかったり、内外装の痛みが少なかったり、当時の使用感が残されているなど。さながらタイムマシンで過去から現代に送り届けられて来たかのようなコンディションであることから、ヒストリックカーの世界では高く珍重されている。

話を進める前に、まずマセラティのV8エンジンモデルについて簡単に触れておこう。

1957年のジュネーヴ・ショーでマセラティが3500GTを発表したことはよく知られているが、その背景には、創業以来レースに邁進していた同社らしい事情があった。それは安定した経営基盤の確保だった。同年、マセラティはファン・マニュエル・ファンジオのドライブでF1へのワークス参戦したほか、大排気量レーシングスポーツカーの450Sによる耐久レースへの参加など、多大な投資を行っている。その英断によって、F1ではフェンジオがワールドチャンピオンの座を射止めるという大成功を収め、マセラティ製レーシングモデルを求めようとするジェントルマン・ドライバーへの大きなアピールとなった。だが、こうした多大な出費ゆえに財政状況は悪化し、翌58年には政府の指導のもとで、資金の流れを再構築することになり、経営再建の切り札とすべく、高性能ロードカーとして企画されていた3500GTの完成を急ぐ決定が下された。もちろん、屋台骨である市販レーシングカーの生産が続行されたのは言うまでもない。レースで勝つために、整備や部品供給などが大きな収入源になるからだった。

この時期に開発されたV型4500ccエンジン搭載の450Sはコンペティションカーだけに留まらず、1959年には超弩級ロードカーの5000GT(ティーポ103)が派生している。その誕生の切っ掛けを作ったのは、当時、世界有数の高性能車エンスージアストであった、イランのパーレビ国王であった。3500GTに魅了されたパーレビ国王は、さらに強力なパワーを求めて、マセラティのチーフエンジニアであったジュリオ・アルフィエリに3500GTのシャシーに、450SのV8エンジンを搭載することを提案した。これに応えたアルフィエーリは450S用エンジンをベースに4937ccに排気量を拡大し、出力を325bhp/5500rpmとした専用エンジンを開発した。

こうした経緯で誕生した5000GTであったから、事実上、注文生産車であり、あまりに高価になったことから、顧客となったのは世界の富豪だけであり、32台が生産されたにすぎない。だが、5000GTを起点としてV8エンジン搭載の新シリーズがラインナップに加わることになった。

5000GTに続くV8モデルは、1963年のトリノ・ショーでデビューした、4ドアモデル"クワトロポルテ"(ティーポ107)だった。パワーユニットは5000GT用に改良を加えた4.2リッターのDOHC、V型8気筒で、4個のキャブレターを装着して260bhp/5200rpmを発生し、最高速度が213km/hに達する当時最速の4ドアセダンであった。開発コンセプトは、長距離を高速で快適に移動できるグランツーリスモであった。それ以前、グランツーリスモといえば2ドアのクーペが一般的であり、4枚のドアを備えることはマセラティにとっての新しい挑戦であった。ドイツや英国には高級な4ドアセダンはいくつか存在したが、クワトロポルテはそのどれよりも格段にスポーティーで高速性能に優れた存在であり、まさに唯一無二の存在としてマーケットに放たれたことになる。ボディはヴィニャーレが、「時間を金で換算することのできる人たちのためのビジネスマンズ・エクスプレス」というコンセプトに沿って、"過度に目立たぬ"端正なスタイリングを完成させた。1970年に生産を終えるが、その生産累計は679台であった。

1965年のトリノでは、実質的に5000GTの後継モデルに当たるメキシコ(ティーポ112)が登場した。広いガラスエリアが特徴の4座クーペのスタイリングは、クワトロポルテと同様にヴィニヤーレの手になるもので、エンジンはそれと同じ4.2リッターと、拡大版の4.7リッターを搭載し、それぞれメキシコ4200、メキシコ4700のモデル名を冠した。1966年の発売から68年の生産終了までの総生産台数は480台で、内訳は4200が350台、4700が175台であった。メキシコの市場はジウジアーロが手掛けたギブリに引き継がれた。



本記事の主人公である1968年製メキシコは、2017年になって茨城県内の倉庫から引き出された。メキシコは当時のマセラティ総代理店であった新東洋企業によって、1968年に1台が正規輸入されていることがわかっているが(この車は現存)、新車で輸入されたのはこれ1台だけだ。これ以外に何台かが個人輸入され、現オーナーの調査によれば、一時期には4台があったことが分かっているが、現在確認できているのは2台だけだという。

このメキシコ(シャシーナンバー:AM112 276)は、メーカーの公式記録から、1968年2月13日に完成した"4200"モデルで、完成後、イタリアのヴァレーゼで登録されたことが明らかになっている。日本にやってきたのが1973年であることは、愛知県で職権打刻を受けた記録簿から判明した。これ以降のヒストリーは調査中で現在のところ不明だが、群馬県内での整備記録が残っていることから判断して、その周辺地域で使われていたと思われる。1979年にナンバーを返納し、その後、茨城県の倉庫に仕舞い込まれた。このメキシコの存在を知っていたのは、所有者を除けばごく少ない数の人たちだけであった。オーナーと旧知の仲であるこの私も、マセラティ・ミストラル4000を所有していたときに、マセラティ好きの仲間から聞いた記憶がある。

2017年1月にオーナーが所有者から譲り受けることに成功した。私が所有していたミストラルはその後、巡り巡って現オーナーの所有となり、氏は暫く堪能されたあと、新たなチャレンジの対象にメキシコを選び、なんとか復活させたいと考え、周到に準備を進めていたという。

薄暗い倉庫の中から太陽の下に引き出されたメキシコは、素人目にも保存状態がよかったことが想像できる状態にあった。適度の湿度に保たれていたのだろうか、錆の発生は殆ど目視できず、ボディの表面を覆っていた埃を拭うと塗面の劣化によるヒビ割れが明らかになったが、幸いにしてどれも深いものではなかった。室内には欠品がなく、革装にうっすらと黴が生えている状態であった。

オーナーは、内・外装については現在の状態を可能な限り残したまま(手を付けずに)、可動状態に戻すことを目標に掲げた。全塗装など無粋なことはせずに、このメキシコが辿ってきたヒストリーを大切に残すことにしたのだ。修理を依頼したのは、オーナーや私が懇意にしている宇都宮の(株)ブレシアだが、同社の森社長も、氏のポリシーに諸手を挙げて賛同し、私たちはあえてレストアという言葉を使わずに"整備"と呼んでこの作業に当たることになった。言い忘れたが、ニスの艶が保たれたままのウッドパネルに配された速度計内のオドメーターは6万2000kmを示しているにすぎず、エンジンは分解してOHしたことがない"未開封"の状態だった。

森さんからは、経験上からエンジンなどメカニズムについても保存状態は極めて良好と思われるとの判断を得た。通常のドライブができるように消耗品は交換するが、可能な限り純正部品で賄うことに決め、世界中から探そうとの意欲を持ってあたることにした。装着されていたボラーニ製のワイアホイールは目視では異常は認められず、表面がうっすらと錆びていた程度だったが、将来、オーバーホールに出すことを前提に温存し、ボラーニ社からまったく同一のものを購入して、純正サイズのミシュランXWXを履かせた。

エンジンについての大まかな作業手順は、工業用内視鏡で内部を目視点検するとともに、プラグを外してプラグホールからエンジンオイルを注入してしばらく放置し、その後、手でゆっくりとクランキングするという手順を繰り返しながら、オイルをシリンダーやクランクなどの摺動部分に行き渡らせることから着手した。並行して、ディストリビューターの分解清掃や、キャブレターのオーバーホール、タンク内や燃料配管内の掃除など、燃料・点火系の整備を行い、トランスミッション、デフはもちろん、回転部分のグリスなどすべての油脂類を交換した。

各シリンダーの圧縮を測定して、8気筒がどれも基準値内で揃っていることを確認した後、イグニッションに通電してところ、4.2リッターのツインカムV8エンジンは、あっけないほど静粛に、長い惰眠から目覚めた。その後も何度か始動して異常がないことを確認。2017年末にクローズドサーキットでの有志走行会に持ち込んで徐々に速度を上げて確認テストを行い、2018年1月にめでたく車検を取得することができた。

長いあいだ消息不明だったに違いない"AM112 276"は、すべての"整備"を終えたあと『Maserati Mexico Registre』に登録された。レジスターで確認できている現存数は約250台だが、世界で実動しているものは200台程度だという。


サイドのスタイリングは端正でクリーン。過度に目立たぬことは、この手のVIPカーの作法なのだろう。レジストリーによれば工場出荷時の塗色はシルバーであったという。だれが、いつ、このダークなカラーに化粧直ししたのだろうか。それもまたこの車のヒストリーの一部だ。