カーデザイン界の問題児3人が作り上げた3台の問題作

イタリアを代表する天才的デザイナー、フィオラバンティ、ジウジアーロ、ガンディーニ。この3人が同じ車で腕を振るったら…?アルファロメオ33ストラダーレと、それをベースに3人の巨匠が生み出したショーカーの物語を振り返る。

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1960年代末のイタリアは魅惑的な場所だった。人々は表現の自由を謳歌し、好景気はピークに達して中産階級の購買力を押し上げ、自動車産業も大いに潤っていた。そんな中、アルファロメオは戦後の絶頂期を迎えた。優れた量産車を次々に生み出して、ハンドリングとドライビングの楽しさを次のレベルに押し上げた。スポーツカーレースでは、ティーポ33が2リッターと3リッタークラスで主要レースを席巻していた。

イタリア自動車業界の首都はトリノだった。トリノを拠点とするフィアットが国内シェアの60%を占めていたからだが、それだけではない。そこで多くのコーチビルダーが繁栄のときを迎えていた。"カロッツェリア"はイタリア車をとりまく文化の象徴として世界中でもてはやされた。カロッツェリアがいかに多くの重要な作品を生み出していたかは、どこのクラシックカーショーに足を運んでも一目瞭然だ。



カロッツェリアは新たなスタイルを生み出し、斬新なコンセプトで実験的な作品を発表した。また、メーカーもこぞって数千台規模の量産車のデザインをカロッツェリアに依頼した。トリノは伝統的に保守的な街である。それにも関わらず、新たなデザインやデザイナーが相次いで現れた。イギリス人ジャーナリストのリチャード・サットンは、「1937年冬に北イタリアの夜を包み込んでいた魅惑的ムードの結果」だとしている。というのも、イタリア・カーデザイン界の"問題児"、やがて20世紀屈指のカーデザイナーとして名声を築き上げる3人が、同じ年に生を受けていたからである。

最初に生まれたのがレオナルド・フィオラヴァンティだ。1938年1月31日に、最も離れたミラノで生まれた。次がジョルジェット・ジウジアーロで、トリノから100km足らずのクーネオ県ガレッシオで同年8月7日に誕生。その数週間後の8月26日、トリノでマルチェロ・ガンディーニが生まれた。1960年代末、3人はいずれもカロッツェリアに所属し、自身の名を世に知らしめると同時に、会社のスタイルを牽引していた。フィオラバンティはピニンファリーナで、ジウジアーロはベルトーネを出て立ち上げたイタルデザインで、ガンディーニはその後を継いでベルトーネで。ここに並ぶ3台は、その3人の作品である。

一方、"旧世代"を代表するカーデザイナーがフランコ・スカリオーネだった。スカリオーネは1916年にフィレンツ
ェで生まれたが、長年トリノに住み、そこを拠点に活動した。空力のスペシャリストだったスカリオーネは、1950年代にベルトーネでベルリネッタ・アエロディナミカ・テクニカ(B.A.T)プロトタイプを生み出し、その後フリーランスのカーデザイナーとなった。



同じ頃、アルファロメオ社長のジュゼッペ・ルラーギは、会社のイメージを象徴するロードカーが必要だと考えていた。そして、それを始める場所は、エンジニアのカルロ・キティ率いるレース部門のアウトデルタだと判断した。

ルラーギの構想は、アウトデルタに送った指示書に明確に示されている。「新たなスポーツカーはティーポ33のシャシーをベースにし、メカニカルの搭載位置も同じミド・リアとする」さらに目標も明確だった。「私が求めるのは、パフォーマンスも含めて、レーシングカーの65%を引き継いだ公道走行可能な車だ」 



キティとスカリオーネは旧知の仲だった。スカリオーネからキティの元に、新たなロードカーの仕事を引き受ける旨を
記した手紙が1966年12月16日に届いている。これがのちに33ストラダーレと名付けられるのだ。キティの意向で、プロジェクトはミラノ郊外のアウトデルタで進めることになり、スカリオーネは毎日トリノから通った。

スカリオーネは回顧録に次のように記している。「あれは人生最大の過ちのひとつだった。アウトデルタには、ボディ製作で私を補助できる技術を持つ者がいなかったからだ。その上、私にあてがわれたのはレーシングチームのメカニックだから、しばしばレースの仕事に戻る必要があった。私はプロジェクトリーダーから一転、ブルーカラーの労働者になって、自分の手で必要なものを製作したり溶接したりしなければならなかった。しかも作業場にはボディの製作に必要な設備が整っていなかった」

予定より遅れて完成したプロトタイプをルラーギに見せると、製造に移る許可が下りた。33ストラダーレは、ティーポ33のシャシーを10cm延長してベースにしている。サスペンションは、複雑なマグネシウム(エレクトロン)製アッパーストラットのないシンプルな仕様とした。その製造は、アルファロメオ本社にほど近いカロンノ・ペルトゥゼッラにあったカロッツェリア・マラッツィに任された。

「33ロードカー・プロジェクト全体の中でも最大の過ちがここにあった」と話すのは、アルファロメオの歴史家、ファビオ・マルラッキだ。特にこの時代がお気に入りで、子どもの頃は両親ともにアルファロメオで働いていたという。

「マラッツィにはこの仕事をする態勢が整っていなかった。軽量アルミニウム合金を扱う必要があったのに、その知識も経験も持ち合わせていなかった」

では、なぜカロッツェリア・マラッツィはこの仕事を勝ち取ることができたのだろうか。マルラッキは次のように説明する。「当時のアルファロメオはイタリア産業復興公社の一部だったが、経営は厳しく管理されていた。入札を行い、最も安く引き受ける業者が選ばれた。マラッツィは最安値を提示したのかもしれない。ひょっとすると、会社から近いことが、製造期間の短縮につながると考える者がアルファロメオの中にいたのかもしれない」

「いずれにしても、その結果、スカリオーネはこのプロジェクトに自分の時間を100%費やすことになった。マラッツィの職人に仕事のやり方を教え、やって見せることも多かった。アウトデルタの最初のプロトタイプはもちろん、マラッツィで製造された11台すべてにも、スカリオーネの手が入っていることが分かっている。コレクターや歴史家にとっては素晴らしいことだが、スカリオーネにとってはいい迷惑だった。なにしろ、すべて込みの契約でこのプロジェクトを引き受けていたのだから」

「彼にとって余分に費やす時間は顧客への無償のプレゼントだった。しかしその分、他の顧客に対する責任を果たせなくなる。スカリオーネはキティとルラーギに宛てた手紙の中で、プロジェクトが終わる頃には、時給に換算した自分の利益は肉体労働者より低くなるだろうと書いているよ」

どれほど不満がたまっていても、スカリオーネはその魔術を振るわずにはいられなかった。こうして33ストラダーレは、史上最も魅力的な美しい車となったのである。そのボディは、ぴったりとフィットしたスーツに機能的な筋肉を包み込んだ完璧なアスリートのようだ。1967年11月のトリノ・モーターショーでストラダーレがベールを脱ぐと、世界は言葉を失った。

魅力は外観だけではない。33ストラダーレは、パフォーマンスでもルラーギの要求を満たしていた。車重はわずか700kgで、バロッコにあるアルファのテストコースでは、9000rpmで260km/hを叩き出した。唯一の問題は価格だった。33ストラダーレは、世界で最も高価なスポーツカーとなっていた。

鮮烈なデビューから半世紀が過ぎた。その後の33ストラダーレについてマルラッキはこう話す。「アルファ・コレクターのジッポ・サルヴェッティは、白髪交じりになった今でもよく覚えているそうだよ。10代の頃、ミラノのセンピオーネ大通りにあったアキッリモーターズのショールームで、33ストラダーレを指をくわえて眺めていたことをね。つまりは、1970年代の初め頃にも、まだ売れずにそこにあったんだ。あの車を買う余裕のある者はわずかだった」



販売を困難にしていたのは価格だけではない。1970年代初頭に、カロッツェリアがストラダーレのローリングシャシーを使って未来的なスクウェアシェイプのショーカーを発表したのだ。ミウラに代表される丸みを帯びた1960年代のデザインは、カウンタックに代表されるエッジの効いた1970年代のデザインに取って代わられようとしていた。33ストラダーレのデザインはただでさえ時代遅れになりつつあった。

さらに、それをベースにしたショーカーの製作をアルファ自らがカロッツェリアに依頼して追い打ちをかけたのである。これによって、標準の33ストラダーレが売れる可能性はゼロに等しくなってしまった。

その背景をマルラッキに聞いた。「当代随一のイタリアのコーチビルダー3社にローリングシャシーを与えるというアイデアが、どんな経緯で出てきたのかは分かっていない。とはいえ、ローリングシャシーの提供を除いて、アルファロメオが何かを支払った可能性は極めて低いだろう。アルファの経営陣は、最初から3台を提供することにしていたのか、それとも1台目の成功を目にして他の2社にも機会を与えることにしたのか、それも定かではない。あるいは、他のコーチビルダーから要請があったのかもしれない」

33ストラダーレをベースにした3台のショーカーのうち、最初の1台は1968年10月にパリ・サロンで発表された。それがカラボである。シャシーナンバーは105.33.750.33109で、カロッツェリア・ベルトーネのマルチェロ・ガンディーニの作品だ。カラボ・ベルトーネこそ、この時代のカーデザインの革命を象徴する1台である。あらゆる面で常識を覆していたが、盛り込まれたアイデアはすべて数年のうちに市販車に採用された。ガンディーニ作品の中でも傑作のひとつといえる。その影響はすぐにプロトタイプのストラトス・ゼロに表れ、ランボルギーニ・カウンタックとして結実した。

車高は信じられないほど低く(ルーフまでわずか99cm)、シザードアを採用。フラットな広いフロントウィンドウを含め、ガラスはすべてゴールドにきらめく熱線反射ガラスだ。ベルギーのガラスメーカー、グラバーベル社が開発した新技術で、車への採用はカラボが初だった。そのゴールドの反射と、真珠光沢を帯びた鮮やかなグリーンのボディパネル、エアインテークなどテクニカルパーツのマットな鋳鉄グレー。この姿が車名の元となった。

イタリア語には中性がない。車は普通なら女性だが、"Il Carabo"は明らかに男性だ。この名前は、メタリックグリーンに輝く甲虫のCarabus Auratus(和名:キンイロオサムシ)から来ている。飛び立つ前に羽を広げた姿は、まさにドアを開けたカラボそのものである。

次に33ストラダーレで腕を振るったのがピニンファリーナのレオナルド・フィオラヴァンティだ。翌1969 年10月のパリ・サロンで33クーペ・ピニンファリーナが発表された。ベースとなったシャシーは105.33.750.35115 。実は、前年のフェラーリのショーカー、250 P5 のデザインを適用したものだった。250 P5はレーシングカーとなる予定だったが、スポーツカー選手権のルール変更によってワンオフで終わっていた。



アルファロメオのルラーギは、エンツォ・フェラーリと友好な関係を築いていた。そこで、P5を元にピニンファリーナがアルファのショーカーをデザインしてもよいか、エンツォに打診して了解を得たのである。変更点は少ない。主には前灯のアレンジと、サイドとリアのエアベントの形状だけで、大部分はそのまま使われた。1969年には古くささを感じさせるデザインだったとはいえ、60年代レーシングカーの完璧な曲線は、実に美しい。



3台目のショーカーがイタルデザインの"イグアナ"だ。ベースとしたシャシーは105.33.750.35116で、1969年11月のトリノ・モーターショーで発表された。車高は3台の中で最も高い105cmだ。ジウジアーロは、現実離れした見せ物というショーカーの概念を越えて、すぐにでも市販できる車を造り上げた。

1970年代のウェッジシェイプを採用した点はカラボと同じだが、ジウジアーロはスチールによる耐荷重構造を付け加え、元のレーシングシャシーの強度を高めた。それを外から分かる形で残し、デザインの一部としたのである。S字を描くベルトラインがその好例で、低いノーズとテールのラインを見事に強調している。イグアナもガラスエリアが広く、コクピットは降り注ぐ光に包まれる。



3台のうち、エンジンを外から見える形で誇示しているのはピニンファリーナだけだ。バンク角90゜のアルファロメオV8が誇る美しさと斬新さを考えると少々解せない。だから、ピニンファリーナだけが現在もオリジナルのV8を搭載しているのかもしれない。他の2台は、スピカ製インジェクションを備えるアルファロメオ・モントリオールのエンジンなのだ。

FCAヘリテージ部門でアルファロメオ・クラシケコレクションを任されているステファノ・アガッツィは、次のように推測している。「コーチビルダーに提供されたシャシーがどのエンジンを備えていたのかは分かっていません。しかし、33と同じツインスパーク・インジェクションの2.0リッターV8だったことは容易に想像できます。確かなのは、現在はカラボもイグアナも、33ユニットから直接派生したモントリオールの2.6リッターエンジン、ティーポ564を搭載していることです」

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「時期は分かりませんが、おそらく同時に換装したのでしょう。エンジンナンバーがカラボは00564.0172で、イグアナは00564.0174だからです。アルファロメオでは何ひとつ無駄にしませんでした。レーシングカーに搭載したりスペアにしたりする必要がいつ生じるかも分からない貴重なレース用エンジンが2基、走らないショーカーに収まっている。宝の持ち腐れだとみなされたとしても、不思議ではありません」

33ストラダーレのシャシーは合わせて18台造られた。現在アルファロメオ歴史博物館に収蔵されているプロトタイプは、マラッツィで組み立てられた11台の標準仕様とはわずかに異なる。やはりアルファロメオ歴史博物館にある残りの6台は、ショーカー用としてカロッツェリアに提供された。つまり、製造台数の半数近くがワンオフなのである。しかも、スカリオーネによる標準のストラダーレ11台は、現在も史上最も美しい車との呼び声が高い。要するに、どれをとっても魅惑的であることに変わりはないのだ。