デビュー40周年のASKA、「万里の河」をめぐる出会いのストーリー

2018年9月に復帰し、現在復帰後2本目のツアー中のASKA。そのツアー「ASKA CONCERT TOUR 2019 Made in ASKA - 40年のありったけ -」でのパフォーマンスが本当に素晴らしい。現在61歳にしてデビュー40周年イヤーで再び高みを目指すASKAに、本ツアーのこと、デビュー40周年のこと、音楽性の変遷、本ツアーへの想いなど膝を交えて聞いた。

ー復帰後初となるバンドでのツアー『ASKA CONCERT TOUR 2019 Made in ASKA - 40年のありったけ -』、3月23日の宇都宮公演を拝見しました。ASKAさんのバンドでのライブを拝見するのは2012年12月の仙台公演以来で、再びバンドで歌う姿を観れること自体感無量だったんですが、それよりもライブの内容が素晴らしく本当に感動しました。

ASKA:ありがとうございます。そう言って頂けて本当にうれしいです。

―少し振り返りたいのですが、復帰最初のコンサートツアーはオーケストラを従えての「billboard classics ASKA PREMIUM SYMPHONIC CONCERT 2018 -THE PRIDE-」(2018年11月、12月 9都市11公演)だったんですよね?

ASKA:世間的にはオーケストラとのツアーで復帰に見えたと思うんですが、実はあれはカラクリがあったんですよ。コンサートホールは(執行猶予)明け(2018年9月)に貸すことはできるけどその前のプロモーションで「○○の会場でやる」と告知するのは控えてほしいと。会場名を告知出来ないということは実質上ライブができないってことでしょ。復帰を迎えてコンサートを立ち上げたら、ライブが出来るのは復帰してから半年以上は後になるんです。さて困ったなぁと言っていたらありがたいお話をいただいたんです。オーケストラのゲスト・ヴォーカリストとして出てくれないかって。なので、あのツアーは僕はあくまでもゲスト・ヴォーカリスト。それなら告知も出来るということで、無事にライブの開催のこぎつけられたんです。

―そうだったんですね。残念ながらそのツアーは拝見出来なかったんですが、オーケストラツアーではASKAさんはツアー中に風邪を引いて喉の調子が十分ではなかったと聞いています。

ASKA:実はツアー初日も既に風邪をひいていたような気がしていて。その後は熱が出て、しかも風邪が喉を直撃。でも回復する間もなく次のコンサートだったので、結局、初日以外は出来としては全滅でした。

―待望の復帰ツアーだっただけに本人的には、肉体的にも精神的にもつらかったですね。

ASKA:本人としては自分自身のことだから仕方がないとういか大丈夫なんです。だけど復帰を待ってくれていてライブをすごく楽しみにしてくれていたお客さん達に、あんな声であんなステージを見せてしまったことに本当に申し訳ないなぁと思ってました。でも、少しでも心からのお返しができないだろうかという気持ちが気力になって歌いましたね。普通は声を割ると次が怖いからちょっと引くんですけど、でも声を割ってでも毎日歌いましたね。治らないまま。

―じゃあ今回のツアーは前回のリベンジも兼ねているんですね。

ASKA:リベンジというよりは、来ていただいた方にはちゃんとお返しをしたいと思っています。



―そして、迎えた今回のツアー。先日の宇都宮でのライブでは、とにかくASKAさんが楽しんでいる姿が印象的でしたし、古くからのCHAGE and ASKAファンの友人も、今回のツアー初日の八王子公演を観て、「あんなに楽しそうに歌うASKAさんの姿は本当に久しぶり!」と興奮していました。

ASKA:ありがとうございます。楽しそうに歌っていると見えてくれているのは、自分が心から楽しんでいるからです。それと、今回のツアーは何はどうあれ、何を歌っても、どう積み上げてもこういうコンサートになるのは自分では分かっていました。<40年のありったけ>と謳ったその決め台詞を出した当初は、40年間の自分のヒット曲、世の中に認知されている楽曲、求められている楽曲を並べようと最初は思っていたんです。だけどね、考えているうちにそんなことやってもしょうがないなって。初めて来られるお客さんはそれでも喜んでくれるだろうけど、僕の復帰を待ってくれていた人達に、アーティスト人生40年間で蓄えた今の自分を見せるのが一番自然じゃないかと思ったんです。なので、結局新しい曲も沢山セットリストに入っています。


―改めて、デビュー40周年ということで、デビュー当時の話も聞かせてください。

ASKA:はい。1979年8月25日がCHAGE and ASKAのレコードデビューの日です。

―当日のこと、覚えていますか?

ASKA:覚えていますね。札幌にいたんですよ、その日。それで、すすきのの小さなレコードショップに入って、本当に自分のデビュー曲「ひとり咲き」のEPレコードがあるかどうかを確かめたんです。所謂”えさ箱”の中に4、5枚あるのを見て、デビューしたんだなって実感はそこで沸きましたね。僕らはヤマハからデビューしたんですけど、当時はヤマハのパワーがすごくて、そのヤマハが総力を挙げて宣伝してくれたんですよ。異例のデビューですよね。それで発売直後は10何位までは行ったんだけど続かなくて、75、76位になったんです。そしたら突然『夜のヒットスタジオ』から連絡があって、来週番組に出演出来ると。『夜のヒットスタジオ』って月曜の夜10時からの1時間番組だったんだけど、ものすごい視聴率で、ヒットチャート50位以内に入っていないと出られないというルールのようなものがありましたからね。でも、俺達70位代なわけで……何が起こったんだろうと思って。レコード会社もビックリしているわけ(笑)。

―ええ(笑)。

ASKA:で、当日、当時のプロデューサーが「初めまして。よろしくお願いします」ってことで、リハに臨みました。デビュー間もない新人でしたが、なんと4分半のTVサイズをもらいました。新人で4分半はどう考えても異例。そして歌った直後に「フルサイズの譜面はないのか?」と。「ありますが、持って来ていません」と、当時のレコード会社の担当が答えると、「取ってこい!」と。慌ててそれを取りに帰りましたね。リハーサルはTVサイズでやったんですけど、ランスルーは急遽フルサイズでやったんです。で、本番。歌う僕らに雪がバンバン降るわの(笑)、すごい演出で。なぜ「ひとり咲き」で雪なのか分からなかったけど、とに角、新人で初出演でフルサイズの5分半。それで、翌日からレコードが一気に動き始めた。そこで初めて全国区になったんです。で、何でそのことが起きたかというと吉田拓郎さんがドタキャンしたらしく、拓郎さんが歌う予定だったのが「外は白い雪の夜」(笑)。

―それで雪だったと(笑)。

ASKA:そう(笑)。拓郎さんが1週間前にドタキャンして、5分半に合う曲はどれだって探した結果が「ひとり咲き」。あの曲、5分27秒の曲で、ほぼ尺が一緒だった。それで、じゃあチャゲアスで!って出演出来たわけです。拓郎さんがその後、「俺のドタキャンも新人のためになるんだな」って(笑)。

―(笑)。でも、先日発売になったASKAさんの散文詩詩集『ASKA書きおろし詩集』の発売を記念して行われた谷川俊太郎さんとの対談の中でも言っていましたけど、ASKAさんはデビューした時から絶対売れるっていう自信はあったんですよね?

ASKA:売れる自信はありました。僕はずっと剣道をやっていて、日体大、国士舘、専修大学など、そうそうたる大学の剣道部からお誘いを受けていました。しかし、そこは行かなかった。もう歌い始めていましたし、どこかで「剣道に縛られたくない」という気持ちがあったんですね。自衛官だった親父は何とか警察官か自衛官か教員のどれかになってほしかったみたいです。僕も子どもの頃からそうなるものだと思って生きてきたけど、ところが歌を歌い始めて、全てが変わってしまった。それで、音楽でプロになるために、東京に行くと父親を説得する時、「心配しないでくれ。必ず売れるから行かせてくれよ」って言い切った。それぐらい売れるという確信しかなかった。実際、「ひとり咲き」で名前が知られて、「万里の河」でいわゆるヒット曲の仲間入りをさせてもらいました。でも、その後は、売れるなんてことは忘れていましたね。常にスケジュールが3年先まで決まっていたから。だから自分達の活動がどこかで止まるっていう不安がなかったので、売れることを考えなくなりましたね。

―もしかしたら売れないなかもという不安は全然なかったんですか?

ASKA:それはなかったですね。売れないわけがないと思っていたので。

―それは歌に自信があったということですか?

ASKA:うーん、何だろう。子どもの頃から根拠のない自信みたいなものがあったんですよ。これはこうなる、みたいなのが自分の中にあって、で、本当にそうなってきたんです。歌をやり始めたら、売れるっていうことしか考えてなかったから、それはもう絶対に売れるだろうって。で、今になってそれをまた実践してます。あの時の気持ちをもう一回取り返して、「こうなるんだ』」っていう風に決めて、自分をコントロールしていこうと思っています。


―根拠のない自信というのも実にASKAさんらしいですが、ASKAさんは音楽制作に関しても自分は根無し草だと公言していますよね。要は誰かのカバーをしたことがなく、いきなりオリジナルを作り出したと。

ASKA:ええ。もちろんステージをやる時に、松崎しげるさんや西城秀樹さんの曲を歌ったりしていたんですけど、ただ歌ったというだけでいわゆるコピーをした覚えはないんです。普通はコピーから入ってそれを突き詰めてオリジナルを作り出すんですが、そういう経験が何もなくて、いきなり曲を作り始めたんで。

―これまでいろいろなミュージシャンにインタビューしてきましたけど、ASKAさん世代の方だとビートルズ、ローリング・ストーンズ、カーペンターズ、ギター好きだったらクラプトン、ジェフベック、ジミー・ペイジとかのコピーから入った方がほとんどです。

ASKA:今述べられた中で聴いていたのはカーペンターズぐらい(笑)。誰も知らない中で、曲を作り始めた。聴いていたと言えば、大好きだった映画音楽です。今でも『映画音楽大全集』というレコードは捨てられなくて持っています。当時はそれをずっと聴いていましたね。それこそポール・モーリアさんが大好きで。だからメロディには敏感だったんだと思うんです。

―なるほど。言葉=歌詞は重視していなかったと?

ASKA:そうですね。言葉に関しては、歌を歌う時に語呂がいいものが乗っかっていればそれでいいやって思っていましたら。ただ、「ひとり咲き」は今から考えても、若い作品だけどそれなりに狙って書いているので、20歳の作品にしては、それなりに完成度の高い作品だと思っています。それは、楽曲の完成度ではなく、コンテスト用としてという意味です。それ以外の当時の曲は本当に「ど」が付くほどアマチュアで。特に詞に関しては全くダメでした。デビューした時、プロデューサーがすごく厳しい人で、歌詞の大切さをこんこんと突きつけられたんですよ。ところが本人は、「歌詞なんて」ってところがまだあったので。

―大事なのはメロディでしょ?みたいな。

ASKA:そうですね。でも、ちゃんとした歌詞が上がらないとプロデューサー権限で次のレコーディングをやらせてもらえなくて。で、2枚目のシングル「流恋情歌」は、結局書いた楽曲があまりに駄作だったんでしょうね、順位がやっぱりへこんで、ヤマハの僕らへの応援ムードも一気にへこみかけたんだけど、ここは踏ん張りどころだなと思って、ヤマハの当時の部長に直接会いに行ったんですよ。

―どうしたんですか?

ASKA:「次の曲は絶対ヒットさせるので応援お願いします。必ずヒット曲書きます」と公言しましたね。それで書いたのが「万里の河」。なので「万里の河」は何もかもヒット曲狙いで書いた曲です。今にして思えば、若造の大したことのないものですが、ヒット曲はどうやって作るかの自分なりのhow toみたいなのがあって、そのhow toで書いた曲です。で、それがヒットしたために、「ひとり咲き」と「万里の河」でアーティスト色が決まってしまって、今度はそこで苦しむことになるんです。いわゆる「CHAGE and ASKA=演歌フォーク的なものを歌う人」「CHAGE and ASKA=大陸的な歌を歌う人」ってやつです。僕自身は映画音やカーペンターズ、サイモン&ガーファンクルとかが大好きで、当時、ヒット曲になりそうな「演歌フォーク」的な曲を書きました。しかし、体の中から自然に湧いてきたものじゃないから、底が見えるわけです。

―ええ。

ASKA:それで、従来自分が聴いてきたポップス路線に早く乗り換えないと駄目になるなと思ったんです。しかし、プロデューサーは、「演歌フォークだから売れた。ポップスの世界はお前が考えているものより幅があり激戦区だ。それだと、きっと埋もれてしまう可能性が高いから、そこに行くことはすすめない」と。けれど、自分としては行き詰まっているのが分かっていたので、少しずつ路線を変更して行ったんですけど、一度ついた印象を払拭するのは本当に大変で。ラジオに出ても、「CHAGE and ASKAと言えば大陸的な〜」っていう類の紹介しかしてくれなくて。で、これを変えるには、もう根底からイメージを変えなくちゃと思ってロンドンに行ったんです。1年になるか2年になるか分からないっていう気持ちで行ったんですけど、結果は半年で帰ってきちゃいました。ただ、たかが半年向こうに住んだだけで、日本のメディアは「ASKA、ロンドンへ音楽留学」とか取り上げてくれて。あれは体を張ったイメチェンで、成功しましたね。

―マスコミのそういうところって凄いですよね。

ASKA:向こうに行って3カ月経った頃かな。せっかくだからメディアに乗っかろうと。で、レコーディングをロンドンでおこなうことになったんですよ。ある日、1枚のファックスが送られてきた。「そちらでレコーディングをやりたいので、スタジオとミュージシャンを決めておいてくれ」と言われて(笑)。でも2、3カ月ぐらいじゃ英語なんて喋れない。しかも、ロンドンは音楽をしに行ったわけじゃなくて、イメージを変えに行っただけのつもりでしたからね。しかし、妙に風が吹いて来ているのが分かったんです。「今だ!」という風です。問題なのはスタジオとミュージシャンを押さえることでした。向こうに知り合いはいない。頼りは、NHKの英会話のテキストとカセットだけです(笑)。向こうに行ってから、3カ月間、1日中ずーっとそれをやり続けていました。それでも、たったの3カ月……。その間に知り合った日本人の手助けもあり、何とか「スタジオ」「ミュージシャン」「ホテルの予約」を完了し、CHAGEが到着する日を待ちました。スタジオに一人で交渉に行った時は、本当に大変でしたが、今思えば良い経験です (笑)。


―(笑)。さっきおっしゃっていた、「万里の河」の時に試してみたヒットのhow toって何だったんですか?

ASKA:僕が注目していたのは2ビート。その中でちょっとエスニックな感じで、サイモン&ガーファンクルの「コンドルは飛んでいく」みたいな音と、自分が持っているポップス的な要素と歌謡曲っぽい要素を全部織り交ぜて、すごく覚えやすいものをサビをリズムに乗せてぶち込んでいくっていう方法でしたね。実際それを組み合わせてできたのが「万里の河」だったんですよね。

―頭の中のhow to を実践して実際にヒットさせられるのも考えてみたら凄い話ですよね。

ASKA:まぁ当時の若さが生んだ思い込みですよ。だって部長のところまで行って「今度、必ず売れる曲を書きますので、プロモーションにはお金を使ってください」っていうヤツなんて普通いないでしょ? デビューしたてで21歳で「ヒット曲出すのでお金使ってください」ってどう考えてもヘン (笑)!

―その”変”を人は才能と呼ぶんだと思うんです。ところで、最初は歌詞はなかなかOKが出なかったとのことですが、歌詞の部分で納得が出来るようになったのはいつ頃ですか?

ASKA:プロデューサーから何度も歌詞を突き返されていたので、1stアルバム『風舞』を出した時には、すごく自信はついていましたね。それともう一つ、ライバルの先輩がいたから。長渕剛っていう。一緒に遊んだり話したり飲み食いしたりしていたんです。彼もヒット曲が出ないって悩んでいた時に、「順子」がヒットして、それを横で見ていて、後輩としてはただ先輩を見送るだけじゃ駄目だなぁと。やはり並び立たなきゃという気持ちがあって、それをすごく意識したんです。とはいえ、音楽を意識したんじゃなくて、ああいうしっかりとしたポジションを意識しましたね。剛さんは当時からライブで男性ファンを相手にすると公言してやっていたので。僕達はセブンティーンや明星や平凡に出たりでノンポリだったので、音楽をやる上でいい刺激になりましたね。それは今でもそうですけど。

―音楽的な変化ということで言うと、今回のライブのMCでデイヴィッド・フォスターの影響を口にしていましたね。

ASKA:デイヴィッド・フォスターとは去年とうとうお会い出来ました。彼のブルーノートのライブにお邪魔して、終演後に楽屋に行ったんです。そしたらいきなり「歌ってみなさい」って言われてね。ピアノが横にあったので即興で歌ったんです。それで彼にアルバムを渡して、一緒に仕事をしてみたいということを伝えたんです。僕はデイヴィッド・フォスターと出会って本当にまるっきり楽曲をつくることへのアプローチが変わったので。

―具体的にはデイヴィッド・フォスターからどんな影響を受けたんですか?

ASKA:音楽的な話をすると1度から4度っていうサビの進行があるですが、デイヴィッド・フォスターは、1度、4度を多用する人なんです。その技法はとっても基本的なことなんだけど、その基本的なことを気持ちよく聴かせる手法を持っている人なんです。当たり前なことをしてるのに、なんでこんなに気持ちいいんだろうって思っていて。彼に影響されて初めて書いたのが「LOVE SONG」。それから「MY Mr. LONELY HEART」という曲はもろシカゴだしね。それから「はじまりもいつも雨」もデイヴィッド・フォスターに影響されています。そして、その頃から、自分の楽曲がどんどん変わっていって。今でこそ「転調と言えばASKA」と語ってくれるミュージシャンがいたりもしますが、その転調もデイヴィッド・フォスターの影響です。





―デイヴィッド・フォスターの作品としては何が一番お気に入りですか?

ASAK:『シカゴ16』ですね。あのアルバムが出た時にはビックリして、慌てて『16』から遡ってシカゴのアルバムを買い揃えましたね。だけど、『16』より前のアルバムは自分の趣味とは違うわけです。『15』と『16』でまるっきり違うわけです。何でこんなに変わったんだろうと調べてみるとプロデューサーがデイヴィッド・フォスターに変わったことが分かった。それでデイヴィッド・フォスター作品を意識して集めましたね。『セント・エルモス・ファイアー』という映画のサントラも前から大好きで、よく聴いていました。ところが、それもデイヴィッドの作品だった。その時思いましたね。彼の音楽には、自分を変えるヒントが散らばっているんだと。ミュージシャンとかプロデューサーにこんなに刺激を受けて崇拝することは生まれて初めてでした。もちろんビートルズは、この上なく素晴らしい。でも、僕が初めて衝撃を受けたのはデイヴィッド・フォスターでした。それからは楽曲の作り方が全面的に変わったし、一斉に世間が注目し始めてくれました。

―そうだったんですね。ちなみに、谷川俊太郎さんとの対談の中で、ASKAさんは「メロディは振り向かせるもの。言葉は掴むもの」と言っていましたが、ASKAさんが凄いのはヒットする=振り向かせるだけではなく、世代や時代を超えて、長い間その曲が愛されている=心を掴む点だと思うんです。しかもそうした曲が何曲もあるのは凄いとか言いようがない。

ASKA:でも、ものすごく簡潔で、全てが出会いなんです。出会いと別れで人生は全て説明が出来るんです。僕は、本当にたくさんの人と出会って、たくさんの刺激を受けた。刺激とは与えるモノではなくて、勝手に受けるモノですから。自分が反応しなければ何も起こりません。そのような出会いを、「僕はラッキーだった」と言っています。本当に「出会い」。これだけでした。


―デイヴィッド・フォスター以外の大きな出会いを挙げるとすると?

ASKA:プロとして音楽をやるってことはそういうことなんだなって思わせてくれた井上大輔さん(2000年5月逝去。享年58歳)との出会いも大きかったですね。一時期、大輔さんの家に週に3〜4回遊びに行ってた。当時はまだ若くて、迷惑掛けているなんて考えなくて。遊んでいると、朝方3〜4時になるわけですよ。で、「大輔さん、これからどうするんですか?」って聞くと「俺、明日の12時までに7曲ぐらい書かないといけないから」なんて言うわけです。とにかくビックリでした。大輔さんはCM曲が多かったので「15秒でいいんだ」って言うんですが、僕にはわかるわけですよ、15秒であろうと普通に1曲であろうと、そこにかける集中力は一緒だってことは。15秒という1曲を7曲ですから。大輔さんと会って、ポップスとは何かを教わって、それを意識して書いた曲が「恋人はワイン色」です。自分は本当に人との出会いがないとここまで来れていないし、これからもそうなんだろうなと思っています。

―ちなみにASKAさんが思うポップスの定義とは?

ASKA:ポップスは分かりやすくて大衆的であるということ。それに尽きると思う。だから、ポップスが別に素晴らしいわけじゃなくて、ポップスといううつろいゆく世界の中で音楽を続けられることが素晴らしいことだと思っていますね。なので、大衆的だし流行りものだから消えては現れ消えては現れするのがポップスなんだけど、そこでちゃんと残っていくには残るだけのことをしなきゃいけないんだとは思っています。

―残るに相応しい歌と、歌がこの世界に残るように祈るかの如く歌う姿も、今回のライブでは印象的でした。

ASKA:正直言うと、去年の年末のライブで一回(喉を)潰したでしょ? 潰すと回復するまでに時間掛かるんですよ。ライブ終わって一カ月ちょっとで今回のツアーに入ったので、表面的な喉のガサつきだとか声の割れは治ってるように聴こえるでしょうが、自分ではまだ達していないところがあって。だからまだ回復中です。

―宇都宮のライブを拝見した限りでは、セットリスト中盤以降のクライマックスに向けては無敵な感じがしました。ちなみに、歌うことそのものの意味も変わってきていますか?

ASKA:歌に込めるものがハッキリしてる時に相手に伝わるものです。谷川さんも「言葉にしている時には相手に届かない。心から伝えようとする時には届いてる」っておっしゃっていました。そのとおりです。本当にそうなんですよ。歌にはそれが一番必要で。もちろん歌には、声やピッチの良さや、それなりの歌詞も付いてないといけないとか、いろんな要素があるだろうけど、ど真ん中にあるのは伝えるってことです。伝えるっていうことがやっぱりすごく大切で、これに気がついたシンガーだけが残るのだと思っています。そうは思っても、それを自然に成し遂げるのは至難です。僕も、まだまだ模索中です。

―”伝える”ということで言えば今回のツアーでは、愛を謳った歌がセットリストに多いし、ライブを観ていて”愛”について考える瞬間が何度も訪れました。野暮な質問ですが、ASKAさんにとって愛ってどんな存在ですか?

ASKA:愛の前には何をもっても勝てない。絶対勝てない。どんだけ嘘をつこうが、どんだけ裏切ろうが、どんなことをしようが愛に包み込まれたらそれで終わり。結局、長く歌っている人はみんなそこに気がつくんですよね。ジョン・レノンもそうだし、みんな結局たどり着くところは愛しかない。どの世代も気がついた人たちがそれを歌って、その曲を聴いて気がつく世代がいる。それがずっと繋がっていくだけの話なんですよ。

―音楽は”愛のリレー”をしているんですね。そして、今回のツアーの本編ラストで歌っている未発表の新曲「歌になりたい」は40年間の、そして、愛を謳ってきたASKAさんの集大成的な名曲だと思います。

ASKA:ありがとうございます。「歌になりたい」の最後は”人間愛だから”と歌ってます。そう謳えたのは、命は自分たちの中にあるからです。僕は、命が消えることはないっていうのはハッキリしていると思ってます。だって命って意識だから。物理的な意味での命っていうのは肉体のことを言うし、その肉体に寿命があるのは当然です。それはもう、この世の中に生まれてきた宿命、ルールなんです。でも、肉体の中に宿るものは何かって考えたら意識です。じゃあ、その意識っていうのは生まれてからつくものかと言えば、生まれてつくのは知識です。知識と意識は違う。じゃあ、その意識はどこから芽生えてきたのか考えると、もともとあったモノだなって気がつくんです。その意識が、肉体の中に飛びこんで来て、肉体が亡くなった時に、意識は再び元のところに戻る。これを繰り返して、これを輪廻と呼んでいるんです。意識=魂と言ってもいいだけど、死ぬことがない意識は本当に永遠なんです。「歌になりたい」はそんな死生観のもと、人間は愛だという結論に至っています。こうやって言葉にすると理屈っぽいですけど、歌で聴いてもらえたら伝わると思います。

―4月23日の武道館がどんなステージになるのか楽しみです。

ASKA:全ては会場に来てのお楽しみで。もちろん、僕は最高に楽しむつもりです。


「ASKA CONCERT TOUR 2019 Made in ASKA - 40年のありったけ -」追加公演

<東京>
2019年4月23日(火) 日本武道館
開場 17:30 / 開演 18:30
一般発売日:2019年3月24日(日)
問合先:ディスクガレージ
TEL 050-5533-0888 (平日12:00~19:00)
https://www.diskgarage.com/ticket/detail/no080950

<大阪>
2019年4月25日(木) フェスティバルホール
開場 17:30 / 開演 18:30
問合先:夢番地 大阪
一般発売日:2019年3月24日(日)
TEL 06-6341-3525 (平日11:00~19:00)
https://www.yumebanchi.jp/artists/29954

<愛知>
2019年4月30日(火) 愛知県芸術劇場 大ホール
開場 16:30 / 開演 17:00
一般発売日:2019年4月6日(土)
問合先:サンデーフォークプロモーション
TEL 052-320-9100
http://www.sundayfolk.com/liveinfo/6w4n4jy