Adobeは、10月15日~10月17日の3日間に渡り、同社の主力製品であるサブスクリプション型クリエイターツールの「Creative Cloud」に関する年次イベント「Adobe MAX」を、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス市のロサンゼルス・コンベンション・センターで開催した。

この初日にあたる10月15日に行なわれた基調講演の中で、Adobeは「Photoshop CC for iPad」、「Project Gemini」、「Project Aero」と呼ばれる新製品を、2019年に投入することを明らかにした。

この中でAdobeは、同社の新戦略として「マルチデバイス、マルチプラットフォーム」という新戦略を明らかにした。この新戦略は、今までAppleのMacBookシリーズがリードしてきたクリエイター向けのデバイス市場に、激震をもたらす事になる。

最も注目を浴びた「Photoshop CC for iPad」

AdobeのCreative Cloudユーザー向けの年次イベントとして行なわれているAdobe MAXにおいて、Adobeは18年向けのCreative Cloudアプリケーションの各種アップデートと19年に投入する計画の新アプリケーションについて説明を行なった。この中で最も注目されたのは、「Photoshop CC for iPad」と呼ばれる新製品だ。

これまでAdobeは、モバイルアプリ(スマートフォンやタブレット向けのアプリという意味)として、Photoshopのブランドを冠した製品を複数提供してきたが、いずれも機能は限定的で、プロのクリエイターからは"使えない存在"という扱いをされていた。

多くのクリエイターは、作画などにデスクトップアプリ(PC向けのアプリという意味、WindowsやmacOS向けのソフトウェアのこと)の「Photoshop CC」を長年利用しており、レイヤー(層のこと、作画に複数層をもうけることで書き終わった後の編集などを容易にする)、ブラシ(Photoshopではクリエイターが自前のブラシを作成し、それを利用して効率よく作画できるようになっている)といった、Photoshopを特徴付けている機能を必要としている。従来のPhotoshopブランドのモバイルアプリは、そうした機能が搭載されていないか、一部の機能に限定されていたのだ。

レイヤーやブラシなどPhotoshopの主要機能を実装しているPhotoshop CC for iPadの画面

だが、Photoshop CC for iPadは違う。レイヤーやブラシの機能などは皆搭載されており、デスクトップアプリと全く同じように使える。Adobe MAXのデモでは200のレイヤーを使って編集している様子、そして独自のブラシを利用して作画している様子などがデモされ、詰めかけた「Photoshop使い」のクリエイターから拍手喝采を浴びた。

「フル機能モバイルアプリ」実現の背景

AdobeがPhotoshop CC for iPadのようなモバイルアプリケーションに取り組むには、いくつかの背景がある。

1つは、モバイルデバイスの処理能力がここ数年で大きく上がったこと。AppleのiPhone/iPadに搭載されているAシリーズのSoCは、既にノートPCのCPUやGPUに匹敵するような性能を備えつつあり、メモリも4GBなど大容量に強化され始めている。このため、クリエイターがPhotoshopにさせようと考えているような重たい処理でも十分にこなせる性能になりつつある。

iPadでノートPCに匹敵する処理が可能になり、「フル機能」が実現した。

もう1つは、AdobeがCreative Cloudの導入と共に進めてきたクラウドストレージの活用、そしてクラウドを利用した各種サービスの提供というモバイルアプリを必要とするための前提条件が整いつつあることだ。

モバイルデバイスは、デスクトップPCに比べると大容量のストレージを持っていない場合が多く、同時にOS側の制約でローカルにファイルを保存したりしない仕様になっていることも多々ある。このため、ファイルを更新するときには、ファイルサイズが大きくなってしまい、通信費の増大を招きかねない。

AdobeのPhotoshop CC for iPadでは、「クラウドPSD」という新しい仕組みを導入してこの課題をクリアする。Photoshopでは.psdの拡張子が付けられたPSD(Photoshop format、日本語だとPhotoshop形式)ファイルが標準のファイル形式とされている。このPSD形式で保存することで、レイヤーやブラシなどの情報を含めて保存して、他のPCで続きを編集したりすることができる。Photoshop CC for iPadで導入されるクラウドPSDはそうしたレイヤーやブラシの機能を含みながら差分だけを更新することが可能になっており、iPadのようなモバイル機器でも効率の良い取り扱いが可能になる。

Adobeではこうしたクラウドをハブとして、そこにモバイル向けのPhotoshop CC for iPad、デスクトップ向けのPhotoshop CCがぶら下がり相互にやりとりができる仕組みのことを「マルチサーフェス」と呼んでおり、モバイルとデスクトップ、モバイル同士、あるいはデスクトップ同士でシームレスにコンテンツをやりとりできる仕組みを既に構築している。

Adobeの本当の狙いは「モバイルファースト」

このように、モバイル機器の処理能力が向上し、マルチサーフェス戦略によりどのデバイスからでもシームレスにデータにアクセスできる環境が整え終わっているからこそ、Adobeは満を持してPhotoshop CC for iPadを導入できる訳だ。

Adobeの製品面での最高責任者になるAdobe CPO(最高製品責任者) 兼 Creative Cloud担当上席副社長 スコット・ベルスキー氏は、「我々のお客様が欲しがっているモノは、プラットフォームに依存しないということだ」と述べ、Adobeがプラットフォーム(AppleのmacOS/iOS 、GoogleのAndroid、MicrosoftのWindows)に依存しないソフトウェア展開を真剣に検討していると強調した。

このことを素直に解釈すれば、今の時点ではPhotoshop CC for iPadはiPadのみとなっているが、今後はiPhone版も登場するだろうし、Android版もいつかは登場する、そういうことだろう。

これまでPhotoshopのフル機能を使いたいと思っているクリエイターにとっての選択肢はWindowsかmacOSしかなかった。しかし、今後はまずiPad向けにPhotoshop CC for iPadが登場し、将来的にはスマートフォンで使えるようなフル機能のPhotoshopだって登場する可能性がある。

それが何を意味しているのかと言えば、Adobeはデスクトップファーストのクリエイターツールから、今後はモバイルファースト(モバイル優先)でクリエイターツールを提供していく方向に大きく舵を切ったということだ。

もちろん、今すぐデスクトップアプリを廃止する訳ではない。今後も相当な期間、併存していくことになるだろう。だからこそAdobeのメッセージは「マルチデバイス、マルチプラットフォーム」なのだ。

だが、Photoshop CC for iPadがAdobe MAXの最大の発表だったこと、同じくAdobe MAXでデモをした新しいアプリProject GeminiやProject AeroのデモがいずれもiPad版で行なわれたことを考えれば、そこに隠されたメッセージがモバイルファーストであることは明らかだ。

Adobeが舵を切ったことで、市場は大きく変わっていく

こうしてモバイルファーストへとAdobeが舵を切ったことで、クリエイターのデバイス環境はどう変わっていくのだろうか? 1つには、iPad Proのようなタッチとペンが使えるモバイルデバイスへのシフトが発生することは容易に想像ができる。同時に、MicrosoftのSurfaceシリーズのようなiPad Proと同じようにタッチとペンが使える2-in-1デバイスも選択肢になっていくだろう。

Adobe MAXのステージには、Apple ワールドワイドマーケティング担当上級副社長 フィル・シラー氏も登壇し、両社が協力してPhotoshop CC for iPadをアピール。Adobeだけでなく、AppleもiPad Proをクリエイターツールとしていくことに本気だ。

それに対して、トラディショナルなクラムシェル型のノートPCへのニーズは減っていくだろう。AppleのMacBookはiPad Proに代替され、Windowsのクラムシェル型ノートPCは2-in-1型デバイスへと置き換えられていくだろう。クリエイターにとって、その方が生産性は向上するからだ。

これまで、クリエイターのデバイスと言えば、長らくMacBookシリーズが大きなシェアを占めており、その後にWindowsのワークステーションというのが一般的だった。だが、そのクリエイターにツールを提供しているAdobeがモバイルファーストへ大きく舵を切ったことにより、クリエイター向けのデバイスも今後はモバイルへのシフトが進んでいくことになりそうだ。

(笠原一輝)