妻沼線跡が歩道しかない理由

田んぼの中に建つ大幡中学校を左手に見ながら歩いていくと、前方が車両通行止めになっている。この先およそ2.5kmにわたって、妻沼線跡は歩道のみ整備され、中央の車道が未整備状態になっている。

旧大幡駅(写真上・PAYLESSIMAGES提供)と現在の大幡駅跡の様子

なぜこのような状態になっているのか、熊谷市建設部道路課に問い合わせたところ、県道359号線および県道341号線と交差する地点で、どのように接続するか等について警察と協議中であり、整備が進んでいないのだという。廃線から30年以上経過するのに、土地が有効活用されていないのはなんとももったいない。

さて先へ行くと、前方に熊谷バイパスの高架が見えてくるので、その手前でちょっと立ち止まってみよう。この付近は途中駅である大幡駅が存在した場所だ。昔の大幡駅のホームの写真を見ると、熊谷バイパスの高架が写り込んでいるので、駅のおおよその位置が特定できる。熊谷バイパスの全線開通が昭和57(1982)年であることも考え合わせれば、この写真は廃線間際の昭和57~58年頃の大幡駅の様子なのだろう。

ちなみに、大幡駅には昭和18(1943)年の妻沼線開業と同時に建てられた駅舎があったが、昭和29(1954)年以降、無人駅になると荒れ果てた。その後、昭和52(1977)年3月に取り壊され、同年4月より、雨除け屋根の付いた待合室とトイレが供用開始になったという。

鉄道がなくなっても人々の営みは変わらず

大幡駅跡から先は、2kmほどのどかな田園風景の中を歩いていく。気分転換の散歩にはいいが、鉄道に関係する遺跡はほとんどなく、廃線跡探索という意味ではいささか物足りない。わずかに、道路と田んぼの間に埋められた境界標に「東武」の文字があるのが、鉄道跡であることを示している。実は、廃線後も敷地は東武鉄道が所有し続けており、熊谷市に道路用地として無期限・無償で貸与しているというから、この境界標は現状を正しく表しているのだ。

道路と田んぼの「東武」と刻まれた境界標が、鉄道跡であることをわずかに伝える

さて、県道359号線および県道341号線を越えると、廃線跡は再び舗装道路に戻る。この付近ものどかな風景が広がっており、途中、田んぼから稲の収穫後に野焼きをする白い煙がモクモク上がっているのを見かけた。

入手した昔の写真の中に、野焼き後の煤(すす)けた田んぼの中を行く、妻沼線のディーゼルカーが写されたものがあるが、撮影されたのは今回の取材時と同じ、晩秋の頃だろう。鉄道がなくなったことを除けば、昔も今も風景に大きな違いはない。生活に根付いた風習は幾百年の間、四季の訪れとともに変わらず、行われ続けてきたのだろう。

野焼き後の田んぼの中を行くキハ2000。朝夕の混雑時は2両運転、日中は1両での運転だった(写真提供: 熊谷市)

この先で廃線跡は福川という川を渡るが、ここに架けられている橋が、その名も「東武橋」という。昔と今の写真を比べてみると橋の上物は交換されているが、橋桁は当時のままのようにも見える。熊谷市建設部維持課に問い合わせてみたが、資料が残っておらず、橋桁が鉄道時代のものがそのまま使われているかは判然としなかった。

昔の「東武橋」(写真上・撮影: 田中実)と現在の様子

キハ2002号に乗ってみよう!

福川を越えれば、妻沼線廃線跡の旅もいよいよラストスパートだ。2kmほどで、かつての妻沼線の終着駅であった妻沼駅跡付近にたどり着く。昔の写真を頼りに駅跡の場所を探せば、現在の「ニュータウン入口」バス停付近が駅前ロータリーだったと見て間違いない。また、バス停付近の交差点から南に向かって道路脇に続く土盛りは、当時の航空写真や地元の人の証言を総合すると、妻沼駅ホームの痕跡だ。

旧妻沼駅(写真上・PAYLESSIMAGES提供)と現在の妻沼駅跡の様子

さて、今回の旅のクライマックスとなる「熊谷市立妻沼展示館」を訪問しよう。妻沼駅跡のすぐ近くにある同館は、地元の歴史資料や文化財資料を展示する資料館で、館内に妻沼線の写真も展示されているほか、建物に隣接して妻沼線のディーゼルカーが1両保存されている。

妻沼展示館に保存されているキハ2002号車。当時流行した前方2枚窓の「湘南スタイル」や、側面窓に上段Hゴム固定の「バス窓」などが採用されているのが特徴

この車両は、昭和29(1954)年に妻沼線に導入された3両のディーゼルカーのうちの1両であるキハ2002号車だ。展示館受付で職員に声をかければ車内見学もできるので、中に入ってみよう。まるで、昭和の時代にタイムスリップしたような感覚が味わえる。

なお、残りの2両の行方はというと、キハ2001号は展示用に東武動物公園に回送されたとする資料があるが、同園に問い合わせたところ現有していないという。2003号は船橋市の個人が所有していたが、老朽化のため解体されたという。

昭和を感じさせる車内には、5組のクロスシートとロングシートが設置されている

余裕があれば群馬まで足を伸ばして

妻沼線は妻沼駅が終点だったわけだが、先にも述べた通り、利根川を越えて群馬県側へ延伸する計画があり、実際に利根川に橋脚を建てる工事も進められていた。橋脚は、昭和54(1979)年3月までに撤去されたが、利根川北岸の土手の外側、「いずみ総合公園 町民野球場」付近に、なぜか1脚だけポツンと残されている。

高さ7~8mはあろうかという橋脚は、戦中戦後の物資不足の折につくられたからだろうか、なんとなく不格好な印象を受ける。ちなみに、妻沼展示館から橋脚のある群馬県側へは、刀水橋(とうすいばし)を渡り、徒歩30分ほどだ。

利根川北岸に1脚だけ残された橋脚(群馬県大泉町)

さて、この先は妻沼線と接続予定だった貨物線・仙石河岸線の廃線跡が、「いずみ緑道」として整備されており、たどっていけば東武小泉線の「西小泉」駅方面に抜けることができる。さらに小泉線で太田市へ行き、名物の「上州太田焼きそば」を食べるのなどもオススメだ。

太田駅そばの「おもひで横丁なつかし屋」の上州太田焼きそば(大盛り/税別450円)

取材を進めると、廃線から30年以上が経過し、かつて鉄道が走った痕跡も少なくなり、地元の人々の記憶も風化しつつあるという印象を受けた。なお、本文では紹介できなかったが、廃線跡周辺の見所としては「妻沼聖天山 歓喜院」という歴史ある寺院がある。桜の季節や、春秋に開かれる縁日にあわせて訪問してみてはいかがだろうか。

最後に、本稿を執筆するに当たっては、熊谷市立図書館が編纂した『写真でみる東武熊谷線』を参考にさせていただいた。この場を借りて感謝申し上げたい。

筆者プロフィール: 森川 孝郎(もりかわ たかお)

旅行コラムニスト、オールアバウト公式国内旅行ガイド。大磯町観光協会理事。鎌倉ペンクラブ会員。京都・奈良・鎌倉など歴史ある街を中心に取材・撮影を行い、「楽しいだけではなく上質な旅の情報」をメディアにて発信。観光庁が中心となって行っている外国人旅行者の訪日促進活動「ビジット・ジャパン・キャンペーン」の公式サイトにも寄稿している。鎌倉の観光情報は、自身で運営する「鎌倉紀行」で更新。