家族としての在り方や価値観の多様化などに伴い、「新しいお墓の形」も生まれてきている。例えば、老人ホームなどで終の棲家(ついのすみか)を過ごした人たち同士で一緒にお墓に入ったり、生活協同組合などのような会員同士での埋葬を希望したりといった具合だ。先祖代々の「縦のつながり」ではなく、血縁を持たない人たちによる「横のつながり」を重視する人たちが増えてきているようだ。

今回の取材に同行した作家・重松清さんは、番組内で「遺骨の扱い方が変わっていくということは、僕たちの死んだ後がどう変わるか、残された人が亡くなった人とどう付き合っていくかの変化にもつながっていく」と持論を展開。そして、残された人と亡くなった人との関係性は一様ではないため、遺骨との付き合い方には選択肢があるべきと話した。

生きている間の他者との縁の必要性

番組の放映後、インターネット上には「避けては通れない現実だ」「家族と死という、最近少し考えていたことを再考させられた」などのように、0葬と自分は決して無関係ではないと考えている人のコメントが散見された。

また、「自分の遺骨の扱いの準備をしておかねば」「自分が亡くなった後はどうするか決めているが、親類とよく話しておかないといけない」「いろいろと思うところがある」といった趣旨の意見も見られるなど、自身の立場に照らし合わせて共感に似た思いを抱く人が多かったようだ。

重松さんは、「引き取ってもらえない遺骨も哀れだが、引き取りたくない遺骨を引き取らないといけない家族も哀れ」と話した。生きている間に家族を含め、他人とどれだけ強い縁を結べたかが、弔いの形を左右する現実をまざまざと見せつけられた。

諸行無常。生あるものは、いつしか必ず滅ぶ。自分の死後の在り方に興味を示さない人もいるが、それは個人の自由として尊ばれるべきだろう。ただ、多くの人は泣き叫びながら生まれ落ちた姿を、周囲の人から笑顔で迎え入れられているはずだ。それならば、死にゆくときはその逆に、満足いく生に自ら笑みを浮かべたまま、周囲の人に惜しまれつつ旅立ちたいものだ。

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