週刊野球太郎
    


 2016年4月26日午後10時、携帯電話の着信がすべての始まりだった。

 阪神タイガース・高野球団本部長から原口文仁への電話は、育成契約から支配下選手登録、そして即日の1軍選手登録を告げるものであった。

 その時点で阪神は26試合を消化。うち19試合出場と最も多くマスクを被っていた梅野隆太郎に代わり、育成選手だった原口の1軍昇格を、金本知憲監督が即断してのことだった。

 この夢のような昇格劇をシンデレラストーリーと呼ぶ人もいる。しかし、原口にとってのプロ野球人生のストーリーは、まだ始まったばかりだ。いまはまだ誰もが予想しない、大きな夢を秘めた原口に迫る。

◎強肩、強打を生かした捕手として生きる

 原口は2009年ドラフト6位で帝京高校から阪神に入団。高校時代から二塁送球スピードは1.8秒台と強肩を誇り、長打も秘めた強打が売りの選手であった。

 2011年のファームでの成績は、48試合に出場。打率.329、2本塁打、11打点と、少しずつその潜在能力を開花させ、その後の成長を期待させた。

 しかし、原口は2012年に椎間板ヘルニアを患い、シーズン途中でリタイア。翌2013年は背番号124の育成選手となり、支配下登録から外されてしまう。

 それ以降、腰痛の再発や右肩の脱臼などに悩まされ、捕手ではなく、内野手としての出場を余儀なくされる。

 ただ原口にとって捕手は自分自身の野球の原点であり、こだわりのポジション、後に矢野燿大バッテリーコーチには「捕手で勝負したい!」と直訴することになる。

 もともと原口は、人一倍野球に熱心に取り組む「コツコツ型」の選手である。矢野コーチが原口の希望を受け入れたのには、そんな彼の人となりによるところも大きい。


◎原口に多大な影響を与えた下柳剛と掛布2軍監督

 ファームの捕手時代、当時現役だった下柳剛とバッテリーを組んだ際、下柳から多くのことを学び、捕手として必要な知識を蓄え、経験を積めたという。

「投手は球速で抑えるのではなく、それぞれの打者の傾向やボールの軌道の使い方などが大事」と、いかにも下柳らしいアドバイスが、原口の捕手としての引き出しを増やすことになった。

 また、掛布雅之2軍監督との出会いが、原口の打撃を変えていった。

 インパクトのタイミングが上手く取れないという原口の悩みを聞いた掛布2軍監督は、「マシンではどうしても1球ごとにボールが変化する。フォームを固めるためには、素振りしかない」と素振りの徹底を指示している。

 これは現役時代、独身寮・虎風荘の屋上で毎日欠かさずバットを振り続けた掛布2軍監督だからこそ言えるアドバイスで、原口には十分すぎるくらいその思いは伝わったはずだ。

◎阪神の主軸で守りの要の捕手としてチームを引っ張る存在へ

 1軍選手登録後、原口は金本監督や矢野バッテリーコーチの期待に応え、5月4日までで、打席数は少ないながらも打率は5割をキープ。また、守ってもスタメンマスクで岩貞祐太など投手陣を好リード。横山雄哉のプロ初勝利(7回無失点)も見事にアシストしている。

 そして、5月4日にはプロ初ホームランをナゴヤドームのレフトスタンドに叩きこんだ。

 中日・吉見一起から放ったその当たりは滞空時間が長く、美しい放物線を描いた。1970年代にファンを魅了した、三代目ミスタータイガース・田淵幸一を彷彿とさせる打球だった。

 今回のサプライズな昇格劇は、大きな夢のストーリーの序章でしかない。

 田淵のような天才的な素養を持ち、かつ掛布2軍監督のように地道な努力も惜しまない原口。原口が阪神の主軸で守りの要としてチームを引っ張る存在になれば、今後将来、タイガースが強くなっていくことは間違いない。


文=まろ麻呂
企業コンサルタントに携わった経験を活かし、子供のころから愛してやまない野球を、鋭い視点と深い洞察力で見つめる。「野球をよりわかりやすく、より面白く観るには!」をモットーに、日々書き綴っている。