中間子論を提唱して日本人初のノーベル賞受賞者となった湯川秀樹(1907~81年)が米コロンビア大学で愛用した黒板が、大阪大学理学部物理学教室(豊中市)で復活した。大阪大学がコロンビア大学から譲り受けたもので、ニューヨークから船便ではるばる運ばれ、3月に物理学教室の談話室(7階コミュニケーションスペース)に設置された。

写真1. 湯川秀樹がコロンビア大学で愛用した黒板を使って勉強する大阪大学の学生たち(提供:大阪大学)

湯川秀樹は創設間もない大阪大学で1933~39年の6年間、講師、助教授として研究した。講師時代の27歳のときに「原子核の中の陽子や中性子の間に働く核力が未知の素粒子、中間子の交換によっている」と予言する中間子論を発表した。その後、宇宙線の観測で中間子が発見され、湯川は一躍、世界の物理学の最前線に立ち、素粒子論の開拓者になった。日本の科学が世界を初めてリードした歴史的な業績だった。この中間子論で49年にノーベル物理学賞を受賞し、戦後の疲弊した日本を励ました。

写真2. 黒板の横に掲示された「湯川秀樹と大阪大学」のパネル(提供:大阪大学)

湯川は49年から53年まで、コロンビア大学の客員教授を務めた。その教授室で使っていたのが、この黒板である。黒板は研究者同士の議論や思索を深めるのに欠かせない。湯川が中間子のアイデアを思いついた兵庫県西宮市苦楽園の自宅にも黒板があったくらいだ。コロンビア大学の物理学教室が最近、改築されることになり、この黒板は、中間子論ゆかりの大阪大学が譲り受けることになった。

黒板にも物語がある。湯川の後にコロンビア大学の教授室を使ったのが、57年にノーベル物理学賞を受賞した李政道(リー・ヂョンダオ)さんだった。リーさんはコロンビア大学教授を退官するに当たり、湯川も愛用した黒板が誰も知らないまま、スクラップとして廃棄されるのを惜しみ、理化学研究所などの日本の素粒子論研究者に連絡してきた。最終的には、大阪大学が受け入れる話が進んだ。

談話室に設置された長さ3メートルの黒板に向かって、学生たちは初め、恐る恐る書き込んでいたが、最近はすっかり慣れて、毎日のように、議論する際に数式を書いたりして活用しているという。5月初めの大阪大学祭の「いちょう祭」では一般にも公開された。

黒板の譲り受けに関わった橋本幸士(はしもと こうじ)大阪大教授は「湯川秀樹先生が愛用した黒板を学生たちが使って議論するのはとても有効だろう。学問の継承を日常的に感じ取ってほしい」と話している。