筑波大学は1月8日、ベンゼンとシクロブタジエンが反応し、ベンゼン環(C6H6)が形式的にC4H4とC2H2の2つのフラグメントに開裂する反応を発見したと発表した。

成果は、筑波大 数理物質系の関口章教授らの研究チームによるもの。研究の詳細な内容は、1月8日付けで英オンライン科学誌「Nature Communications」のオンライン速報版に掲載された。

有機化学の教科書を開くと、亀の甲に似たおなじみの六角形の分子を見つけることができる。それがベンゼンだ。ベンゼンは代表的な「芳香族」分子の1つで、6個の炭素原子が平面上に並んだ安定した構造をしており、多<の有機化合物の基本骨格となっている。同時に最も基本的な有機分子の1つであり、炭素のでできたサッカーボールのフラーレン(C60)や鉛筆でおなじみのグラファイト(黒鉛)もベンゼン環の連なりでできている。

6個の「パイ(π)電子」が非局在化した環構造は「芳香族性」を獲得し、極めて安定な分子となることが知られている。これを「ヒュッケル則」という。結合軸から直交する方向に広がった2つのp軌道で形成される結合をπ結合と呼び、π電子とはそれによって共有される電子のことだ(結合軸上にある電子はシグマ(σ)電子と呼ばれ、パイ電子とは区別される)。π電子はσ電子に比べてエネルギー準位の高い軌道にあるため、化合物の性質、物性を決める最も重要な要素の1つとなる。

またヒュッケル則についてもう少し説明すると、環状にπ電子が共役した単環式の分子あるいはイオンにおいて、4n+2個(n=0、1、2…)のπ電子を持つものは、芳香族性を獲得し、安定化するという法則のこという。また、π電子の数が4n個(n=1、2…)の場合は、逆に反芳香族性を示して不安定化する。

前述したようにベンゼンは芳香族分子であり、温和な条件での付加反応や分解反応は起きない。ベンゼンの反応は、一般にベンゼン環の水素原子をほかの原子や置換基に置き換える置換反応であり、ベンゼン環構造そのものを壊すためには、芳香族性の基になっている安定化の大きなエネルギーを越えることが必要なのだ。

よって、ベンゼンの分子式はC6H6で表されるが、これを2つのフラグメントに分解する反応は極めて過酷な条件でない限り、進行しないと考えられていた。事実、環境汚染物質として知られるダイオキシンやPCB(ポリ塩化ビフェニル)の構造には塩素で置換されたベンゼン環があり、環境中で分解されないことが問題となっていることは周知の通りだ。ベンゼン環を壊すには、例えば金属触媒を用いて高温高圧下で行う水素化のように、大きなエネルギーが必要なのである。

そして、ベンゼンとよく似た環状構造を持つのが、シクロブタジエン(C4H4)という分子だ。シクロは「環」、ブタ(ン)は「炭素が4つ」、ジエンは「二重結合が2つ共役している」ことを指す。同じ平面の環状構造ではあるが、六角形ではなく四角形であるために反応性はまったく異なり、不安定で反応性が高いという性質を有している。

2つの二重結合は1つの環の中で隣り合っており、4個のπ電子が共役可能な配置になっているという具合だ。この電子配置はヒュッケル則に反しており、不安定な反芳香族分子となる(典型的な反芳香族分子として挙げられることが多い)。そのためにシクロブタジエンは反応性が非常に高く、近づくものとすぐに反応してしまうため、周辺置換基を工夫しなければ単離することもできないというほどだ。

そこで関口教授らは「ケイ素置換基」などを組み込むことによって、高い反応性を保ちつつ単離する方法を開発。さらに「電子求引性」に富む置換基を導入し、ベンゼンと反応させたところ、ベンゼンを形式的にC4H4とC2H2の2つのフラグメントに分解できることが確認されたのである。つまり、シクロブタジエンの極めて高い反応性を利用して、ベンゼンの環構造を活性化し、その炭素骨格を壊すことに成功したというわけだ。この反応は、化学的に安定な分子を容易に活性化する方法として、画期的な発見だという。

今回の研究では、ベンゼンとシクロブタジエンの反応により、ベンゼンが2つのフラグメントに分解する反応が発見されたわけだが、まず光反応によって3つのケイ素置換基と1つの電子求引基を有するシクロブタジエンを合成し、単離、構造解析などが行われた。置換基を持たないシクロブタジエンは、非常に不安定で単離することはできないが、ケイ素置換基の立体電子的効果によって安定に単離することができるのである(画像1・2)。

画像1(左):シクロブタジエンの分子構造。青=炭素原子、赤=ケイ素原子、緑=フッ素原子。 画像2(右):シクロブタジエンの中心の4員環の骨格は長方形であることがX線結品構造解析によって明らかになった

また、「ペンタフルオロフェニル基(C6F5)」は強い電子求引基であり、分子軌道計算の結果、C6F5基の導入によりシクロブタジエンの「最低画像3はシクロブタジエンの分子軌道図で、母体のシクロブタジエン(左)に比べて、ケイ素置換基とペンタフルオロフェニル基を導入した化合物(右)の方が、最低空軌道(LUM0)のエネルギー準位が低下していることがわかる。空軌道」のエネルギー準位が大きく下がっていることが明らかになった。

なお最低空軌道とは、分子軌道における電子の軌道に関する用語だ。分子軌道において、エネルギーの低い(つまり安定な)方の軌道から電子を配置していくと、電子の満たされている軌道(占有軌道)と電子の満たされていない軌道(空軌道)ができる。占有軌道の内、エネルギーの最も低い軌道を最低空軌道(Lowest Unoccupied Molecular Orbital:LUMO)といい、反対に最も高い軌道を「最高占有軌道(Highest Occupied Molecular Orbital:HOMO)」という。

画像3。シクロブタジエンの分子軌道図

そこで、このシクロブタジエンをベンゼンと共に120℃に加熱したところ、「付加環化反応」に続いて、ベンゼン環の開裂反応が起こったのである(画像4)。通常、ベンゼンの「ディールス・アルダー反応」(共役ジエンにアルケンが協奏的に付加して6員環生成物を与える反応のことで、代表的な[4+2]型付加環化反応)では、活性化された基質を用いたとしても、200℃以上の高温加圧の条件が必要とされる。例えば、ベンゼンと「ヘキサクロロシクロシクロペンタジエン」との反応は、240℃、1万気圧という非常に過酷な条件で進行すると報告されているほどだ。

それが今回のシクロブタジエンをベンゼンでは同様の反応が常圧、120℃程度の加熱で進行したのだから、シクロブタジエンの反応性がいかに強力であるかがわかる。シクロブタジエンのπ電子は極めて反応性に富む軌道を作り出し、また周辺置換基の効果によって、反応性をさまざまにコントロールすることが可能だ。その結果、非常に強固な結合として知られるベンゼンの炭素-炭素結合すら切断することを可能にしたというわけである(画像5)。

画像4(左):シクロブタジエンによるベンゼン環の開裂反応。比較的温和な条件で、ベンゼン環のC-C結合の開裂が進行している。 画像5(右):ベンゼンとシクロブタジエンとのディールス・アルダー反応

シクロブタジエンの反応性の高さは、π軌道エネルギーが高いことに由来する。シクロブタジエンの最大の特徴は、この特異なπ共役系にあるといっても過言ではないという。エネルギー単位の高いHOM0と、エネルギー準位の低いLUM0を合わせもつシクロブタジエンでは、さまざまな有機分子との反応に必要なエネルギー(活性化エネルギー)を簡単に越えることが可能だ。これを発展させると、ベンゼン環のほかにも、化学的に極めて安定であるがため反応性に乏しい分子を容易に活性化できるようになると考えられ、さまざまな新規物質の創成につながるものと期待されるとしている。