九州大学(九大)は3月15日、名古屋大学(名大)との共同研究により、遺伝学的手法とイメージング技術とを組み合わせて記憶の忘却について解析し、神経細胞が「忘却促進シグナル」を放出することによって、記憶を積極的に忘れさせる仕組みがあることを明らかにしたと発表した。

成果は、九大大学院 理学研究院の石原健 教授、同・システム生命科学府博士5年の井上明俊氏、名大大学院 理学研究科の松本邦弘教授、同・久本直毅准教授らの共同研究グループによるもの。研究の詳細な内容は、米国東部時間3月21日付けで米科学誌「Cell Reports」に掲載された。

線虫からヒトに至るまで、あらゆる動物はさまざまな情報を記憶することができるが、獲得された記憶は適切な時間だけ保持されて、その後に忘れられることも必要だ。単純にヒトでいえば、生まれて以降のありとあらゆる記憶が頭の中に残っていたら、とてもではないが精神的にどうかなってしまうだろう。また、生存面で有利となる可能性だってある。例えば、エサがある場所を記憶したとしてもエサがなくなるころには忘れている方が、無駄足を踏んだ上に捕食者に襲われるというエネルギーの無駄遣いと生命の危険を避けられるわけで、有利になるはずだ。

記憶を忘却することは、記憶することと一般的にはワンセットのイメージがあるため、これまでのさまざまな研究によって忘却についてもかなり研究が進んでいると思う方も多いことだろう。実際、記憶の獲得や保持に関するさまざまな制御機構は、分子・神経回路レベルで明らかにされてきている。しかし、ヒトは誰しも忘れてしまうという体験を日常的にしているにもかかわらず、記憶を忘れるというメカニズムに関しての研究は実をいうとほとんど進んでいない。積極的な制御機構があるかどうかさえ議論がある状態なのだ。

そこで研究グループは今回、多細胞生物のモデル生物であり、単純な神経回路を持つ線虫「C.elegans」を用いて、記憶を忘れにくい(記憶を忘れるメカニズムが壊れている)突然変異体を単離し、遺伝学的手法とイメージング技術を組み合わせて解析することによって、記憶の忘却を制御する分子・神経回路メカニズムを明らかにすることにした。ちなみにC.elegansは、302個の神経細胞からなる比較的単純な神経系を持ち、その神経回路は電子顕微鏡を用いて完全に明らかになっていることから、神経科学研究においても優れたモデル生物として使われている。

今回作り出された突然変異体の特徴は、匂いの記憶が24時間以上続くというもの。ヒトを含めてほとんどの動物は、強い匂いにさらされると、その匂いに対して応答しにくくなる。つまり、その匂いにマヒしてしまうわけだ。このような行動の変化は、単純な学習の1種と考えられており、線虫の場合はこのような匂いの記憶は4時間ほど保持されることがわかっている。よって、24時間以上続くということが、どれだけ忘れられない状態かわかるというものだ。

そんな変異体を解析したところ、大きな発見があった。記憶を忘れさせるための神経細胞が存在することが明らかになったのである。さらにその神経細胞は、忘却促進シグナルを放出することによりほかの神経細胞に保持された記憶を積極的に忘れさせていることも判明。

さらに解析を進めたところ、忘却を促進する神経細胞内で働く「TIR-1/JNK-1シグナル経路」が壊れているために忘却シグナルが放出されず、記憶が忘れにくくなっていることがわかった。TIR-1/JNK-1シグナル経路とは、ほ乳動物から線虫まで共通に存在している細胞内シグナル経路である。その一部が自然免疫反応などに使われていることは確認されていたが、学習や記憶の制御における詳しい働きはこれまでわかっていなかったことから、今回の発見は大きな成果といえるだろう。

また、神経活動を「カルシウムイメージング」(その神経細胞のカルシウムイオン濃度の変化を見ることで、神経の活動をリアルタイムに蛍光顕微鏡で観察できるシステム)により測定することによって、記憶を保持している神経細胞の同定にも成功。

匂いを感じる神経細胞では、強い匂いにさらすとその匂い物質に対する応答がなくなり、4時間エサの上で飼育すると応答が回復することがわかった。このことは、匂いを感じる神経細胞に記憶が保持されていることを示唆している。その一方で、記憶を忘れにくい変異体では、この応答が4時間後でも回復しないことが確認された。これらの結果から、忘却促進シグナルは、記憶を保持している神経細胞の応答の回復を促進していると考えられたというわけだ。

研究グループによれば、今回の成果は、忘却の制御に関わるシグナル経路や神経細胞の働き、神経回路の役割を明らかにした最初の研究だという。さらに、忘却促進シグナルを介した積極的な忘却制御機構があることも、今回の研究によって明らかになったとしており、今後は、忘却促進シグナルの分子実体の解明、その下流で働く細胞内シグナル経路の解明などを通じて、忘却を制御するメカニズムを明らかにすることが期待されるとした。

いうまでもないが、記憶の保持時間はヒトなどの高等動物においても適切に制御されている必要がある。今回の研究で明らかになった、忘却を積極的に制御しているメカニズムは、高等動物の中枢神経系においても類似の仕組みが働いている可能性があると、研究グループは語っており、今回の成果は、高等動物における忘却の制御機構を解明する上での基盤としても重要であると考えているとしている。

記憶の忘却に関する今回の発見を表した模式図