東京大学大学院総合文化研究科複雑系生命システム研究センターの菅原正特任研究員(東京大学名誉教授)の研究グループは、2009年ノーベル賞生理学・医学賞受賞者であるショスタック氏らが2001年に提唱した要件を満たす人工細胞を、有機化学的方法によって構築することに、成功したことを明らかにした。同成果は「Nature Chemistry」電子版に掲載された。

ショスタックらは、細胞として最低限備わるべき要素として、「境界」「情報」「触媒」の3つをあげている。細胞には外界から内部を守る細胞膜(境界)の内側に、細胞の個性を記述する遺伝子(情報)が存在し、さらに内部にある酵素(触媒)反応系が細胞を維持する代謝を行い、細胞分裂により増殖し次世代へと生命をつなぐ活動を維持している。

これら3要素を持ち合わせる物質を人工的に作り出し、情報の自己複製と境界の事故生産のダイナミクスが連携すると、その物質はもはや単なる物質ではなく、生命と呼んでもよいのではないか、というのが、同氏らの主張であり、このような存在を作り出すことは、生命誕生の謎を解き明かす大きな鍵となり得るとされている。

同研究グループはすでに、細胞の「境界」となるベシクル(μmサイズの袋状分子集合体)が膜構成分子の原料となる分子を外部から加えると、ベシクルがその分子を内部に取り込み、触媒の作用で膜分子へと変換し、肥大し分裂することで自らの数を増やす、「自己生産するベシクルモデル」の構築に成功しており、後は同モデルに、いかに情報複製系を持たせるかが課題となっていた。

今回の研究では、単純な熱サイクルでDNAを増幅できるPCR((ポリメラーゼ連鎖反応)に着目、この増幅反応を効率的に行えるように最適化した「自己生産するベシクル」内部で、情報物質に見立てた(塩基対1229個からなる)DNAを増殖させた。また、ベシクル自己生産に必要な養分となる分子を外部から与えることで、ベシクルを肥大・分裂させたほか、この細胞分裂に似た形態変化で生まれた新しいベシクルの内部に、元のベシクルと同じ情報物質(DNA)が分配されることを確認した。

さらに、この過程を注意深く観察すると、DNAの複製がうまく行われたベシクルほど、その後の自己生産が効率的に進行することが判明。この事実は、「生存に適した個体ほど、より多く子孫を後世に残すことができる」という、自然淘汰の原理を示すものであるという。

今回、構築された人工細胞モデルは、ヒトが生命体と呼ぶものと比較して、単純なモデル系ではあるものの、このような振る舞いを示したことは驚きであり、この事実は、生命と非生命の境界にあるような原始的な細胞においても、生存競争があったことを想像させると研究グループでは説明している。

なお、今回の結果から研究グループでは、このような熱サイクルは海底の熱水噴出孔付近に存在するため、従来から言われているような、深海底環境での生命誕生に関連していた可能性があるとしている。

また、現在、生命誕生に関わる仮説として、RNAやDNAのような情報物質が先に誕生したとするRNAワールド仮説や、タンパク質のような高度な機能を持つ分子群の登場が生命誕生に繋がったとするプロテインワールド仮説が有力であるが、合成化学の側からすると、両仮説の鍵となる物質群は、きわめて複雑な構造をしており、これらが出現するまで生命が誕生しなかったとする考えは、受け入れがたく、ベシクルのような境界となる膜構造こそが、生命誕生の鍵であるとするリピッドワールド仮説に基づく今回の実験により、生命進化における膜の役割が明確化されたものであるとしており、同成果から導かれる仮説として、まずはベシクルのような単純な袋状集合体が、自己増殖能を獲得した後で、その活動維持に必要な生体高分子(RNA、DNA、タンパク質)を取り込み、それらが共進化することで今の生命へと進化していったとのシナリオが考えられるとしている。