理化学研究所(理研)は6月6日、欧州原子核研究所(CERN)の反陽子減速器(AD)を使って、反陽子(陽子の反粒子)と陽電子が水素様に結合した原子で、物理学の基本的対称性を高精度で検証するために適した系として注目されている極低温の「反水素原子」を生成し、磁気瓶に1,000秒以上閉じ込めることに成功したことを発表した。

同成果は理研基幹研究所の山崎原子物理研究室のDaniel de Miranda Silveira客員研究員、山崎泰規上席研究員や、東京大学の早野龍五教授を含むデンマーク、カナダ、米国、英国、ブラジル、スウェーデン、イスラエルらによるALPHAグループの研究によるもので、同客員研究員でもあるカナダのTRIUMF研究所の藤原真琴研究員は今回の研究の企画段階からデータ解析まで一貫して重要な役割を果たしたという。「日本学術振興会 科学研究費補助金 特別推進研究 反水素原子と反水素イオンによる反物質科学の展開」の一環として行われたもので、科学雑誌「Nature Physics」(オンライン版)の6月5日号(日本時間6月6日)に掲載された。

反水素原子は、陽子の反粒子である反陽子と電子の反粒子である陽電子が結合したもので、反物質世界の代表格である。反水素原子と水素原子の性質を詳しく調べることで(CPT対称性テスト:物理学において最も基本的だと考えられている対称性。荷電共役変換(C)、空間反転(P)、時間反転(T)の3つの変換を同時に行うことを意味する。水素と反水素の振る舞いに違いが見つかれば、CPT対称性が破れていることになる)、反物質の世界が人が住む宇宙とどのように違うか、あるいは同じかを、これまでにない精度で明らかにすることができるとされている。CPT対称性は、それ自身も基礎物理学の重要な研究対象だが、同時に、人の住むこの宇宙がなぜ物質だけでできているのかについての情報も提供すると期待されている。

反水素原子の性質を詳細に知るためには、反水素原子を生成して磁気瓶に閉じ込める、あるいは、冷たい反水素ビームを作る、などを実現し、その様子を時間をかけて調べる必要がある。しかし、反水素原子の重要な構成要素である反陽子は、数百億eVに加速した陽子ビームをイリジウムの金属ブロックにぶつけて生成するため、数十億eVのエネルギーを持つことから、取り扱いは容易ではない。

実際の実験では、この熱い反陽子をさまざまな方法で冷やし、絶対温度(-273℃)付近の極低温にした後、極低温の陽電子と混ぜ合わせることで反水素原子を生成しているが、さまざまな技術的課題を克服する必要があったため、2002年にようやく生成が実現した程度であった。

2002年の実験は磁場が一様であったため、生成した反水素原子を蓄積することはできず、研究グループは2010年11月に、0.1秒程度の時間、反水素原子を補足することに成功したものの、十分な数の反水素原子が励起状態から基底状態に遷移する時間を確保し、精密な高精度レーザー分光実験を行うためには、さらに長時間反水素原子を閉じ込める必要が残されていた。

今回用いた反水素原子捕捉用の磁気瓶は、2010年11月の発表で用いたものと同じで、八重極コイルとミラーコイルを組み合わせ、さらにその内部に多重の円筒電極をおいて、必要な電場と磁場をかけることができるようにしたもの。

図1 八重極磁気瓶の構造(円筒電極内径4.45cm、長さ約50cm)

(a):八重極磁場コイルとミラーコイル、そしてソレノイドコイル(図には示されていない)のすべてが超伝導磁石でできており、強い磁場を発生することができる。しかし、それでも0.6K程度の極低温の反水素原子しか補足することができないため、低温の反水素原子を長時間、多数、閉じ込める技術を開発することが実験成功の鍵となっていた。
(b):反陽子と陽電子を混合し、反水素原子を生成するための入れ子ポテンシャル。陽電子があると、空間電荷のためポテンシャルの底が平坦になる

この電場と磁場を調整することで、反陽子と陽電子を捕捉、混ぜ合わせることができる。混ぜ合わせた反陽子と陽電子は互いのクーロン力により引き合い、やがて、さまざまな衝突過程を経て反水素原子が生成される。反水素原子は電気的に中性の小さな磁石であり、電場には反応しないが、八重極磁場コイルとミラーコイルにより形成されている磁気瓶には閉じこめることができる。

その後、反陽子と陽電子を混ぜ合わせ、反水素原子が生成したころ(1秒後)を見計らい円筒電極にかける電圧を操作、余った反陽子と陽電子を磁気瓶の外へ捨てた後、一定の時間待って磁気瓶の磁場をゼロにすると、生成した反水素原子は束縛を逃れ、いずれ円筒電極にぶつかって消滅し、パイ中間子などさまざまな高エネルギー粒子を放出。この消滅に伴う放出粒子を観測することで、反水素原子の閉じ込めの有無が確認できるという。

今回の実験では、共鳴用高周波の振幅や周波数制御を含め、さまざまなパラメータを細かく最適化することで、反陽子の運動エネルギーを陽電子の運動エネルギーに極力近づけるようにして、より"そっと"混ぜ合わせることに成功したという。

実際に、磁気瓶の周りを取り囲む三重の検出器を用いて、磁気瓶の磁場をゼロにしてからの時刻と、磁場軸方向の消滅位置を測定した結果、反水素原子の捕捉率が改善しただけでなく、1,000秒以上の時間、反水素原子を閉じ込めることができたことが確認された。

図2 試行ごとに捕捉できた反水素の数と捕捉時間の関係。捕捉時間を数十秒より長くしても捕捉した反水素原子の数はほぼ一定で、安定な長時間捕捉を実現していることが分かる。また、2010年の論文では0.1秒の捕捉時間でも10回に1個程度の捕捉率であったものが、今回は10秒程度の捕捉時間でも捕捉率が5倍程度改善している

また、閉じ込め時間が異なる反水素原子の消滅位置分布と、磁気トラップに捕まっていると仮定したシミュレーションの消滅位置分布がよく一致していることも確認されたという。

図3 磁気瓶の磁場をゼロにしてからの時刻とその消滅位置。異なる記号は閉じ込め時間の違いに対応する(図の右上参照)。細かなグレーのドットは、反水素原子が磁気トラップに捕まっていると仮定したシミュレーションデータ

今回、反水素原子を閉じ込める時間を、0.1秒から1,000秒以上と1万倍以上に更新することができたことは、励起した反水素原子が基底状態に遷移する十分な時間を確保しただけでなく、高精度レーザー分光実験をじっくりと行うことができるようになったことを意味する。水素原子についてはすでに、基底状態(1S状態)から初めの励起状態(2S状態)への遷移エネルギーが100兆分の1という高い精度で決定されている。

高精度レーザー分光により反水素原子の精密な分光が可能になると、物質(水素原子)と反物質(反水素原子)の違いを高い精度で測定できるようになり、CPT対称性のテストが現実のものになるとともに、なぜ人の住む宇宙が物質ばかりからできているのか、という謎解きの手がかりも得られるようになる可能性も出てくることが期待され、これからいよいよ基礎物理学の根幹に関わる実験が始まると研究グループでは説明している。