森美術館の前回展(「英国美術の現在史 : ターナー賞の歩み展」)で展示されていたダミアン・ハーストの「母と子、分断されて」に比べれば、メサジェの作品はよっぽど可愛らしく見える。しかし、鳥や小動物の屍骸を使った剥製の生々しい姿を覆い隠すように、手仕事で編まれた愛らしいケープを羽織わせるなど、その視線から逃れるようにキャラクターなどの可愛らしい仮面を被せたそれらの作品を見ていると、死せる者を愛でるようなメサジェの視線には、子どもの持つ悪意のない残忍さのようなものも感じられる。

それにしてもこのおびただしいまでの剥製の数には驚かされる。メサジェの一面であるコレクターとして作品には剥製以外のものもある。

真っ白な壁に思わずと覗きこみたくなるように開けられた四角い窓がある。そこから覗くと壁や床に切り抜きを貼った冊子や額装された写真、ドローイングなど夥しいまでのコレクションの数々を垣間見ることができる。「アネット・メサジェ、コレクター」と称して制作した70年代前半の<アルバムコレクション>を集めて展示した部屋で、本展のためにデザインされた。なんだか人のプライベートルームを覗いているようななんとも後ろめたい感じがする作品だ。

『コレクターの秘密の部屋』 男性にもコレクターはいるが、包装紙やショッピングバッグなど、やはりコレクションは女性の方が上手なのだろうか?

グロカワの傾向は、年を経て2002年の作品『つながれたり 分かれたり』に繋がり、そのさらに進化した形に目を奪われ、思わず足が前に進んでしまうのだ。

『つながれたり分かれたり』でも、ぬいぐるみに置き換えられた動物たちは吊るされたり、床に打ち捨てられたように転がっている。この作品は、2002年にドイツの「ドクメンタ11」に出品され、注目されたもので、この作品でメサジェははじめてコンピュータ制御によって動かしており、吊られた動物たちが上げたり、降ろされたり、床を引きずり回されたりするインスタレーションになっている。当時、ヨーロッパで社会問題となった狂牛病に触発されて制作されたもので、これらのぬいぐるみたちは多くの死んだ牛や人間も含めたその他の動物たちの姿を表現しているという。そして続く『吊るされた者たちのバラード』では吊るされたぬいぐるみたちは吊るされたまま、空を引きずり回される。

吊るされている動物たちはメサジェにとってどんな意味を持つのだろう。メサジェは「私が動きを使うときは、その反対の動かないものを示す事でもある」としている。メサジェは狂牛病について、「大量の牛が死んでいる写真を見てショックを受けました。狂ったのは牛ではなく、牛肉(ビーフ)でしょう」と『つながれたり分かれたり』を制作した経緯を語っている。メサジェの作品には常にこうした生と死、動くものと動かないもの、動物と機械といった、相反するものが共存している。

『つながれたり分かれたり』2001-2002/ポンピドゥーセン ター・パリ国立美術館蔵 展示の外周を引きずり回されるぬいぐるみはいつも動いているわけ ではない。動き出すのを辛抱強く待ってみるのも一興か?

『吊るされた者たちのバラード』2002 思った以上に早く吊り下げられたぬいぐるみがサークルを回っている

2006年の「第51回ヴェネツィア・ビエンナーレ」にフランス代表として出品した『カジノ』は広い空間に真っ赤な布が敷き詰められ、奥にある隙間から送り出される空気でふわりと膨らませ、上から吊り下がっている仮面? で押さえつけられたりしている。座って眺めていると妙に落ち着くこの空間は、まるで胎内のようなイメージを受ける。この作品はまさに、ピノキオの重要な場面である鮫のおなかの中(原作では鯨ではなく鮫)の様子を描いているようだ。

メサジェがピノキオを題材に選んだのは、開催地のヴェネツィアが原作『ピノッキオの冒険』(コローディオ)の生まれたイタリアだと言う事もあるが、それ以上にピノキオはたくさんの動物が登場する物語であり、ピノキオが人に生まれ変わる操り人形という存在だという事にあるだろう。現代はいまやロボットをはじめ、人の身体も人工物に置き換わる時代であり、動物と機械という対比の中で、ピノキオの存在は非現実から現実の存在へと意味が変化してきている。機械仕掛けになった『カジノ』の空間もまた人工的であり、そこには同時に人工子宮といった意味も持つ。

これまでは生と死、動物と機械という明快な対比があったが、これからの時代はその対比が曖昧に見えてしまう時代と言える。メサジェは『カジノ』を通じて、今日的な「命」の話題を提示している。

『カジノ』2005 一通り一巡するまで見るとさまざまな発見のある作品だ。奥に反転した時計が現れるのを見逃さないように