――弘兼憲史先生のところでアシスタントをなさっていたのは、どのくらいの期間ですか?

「1年弱ぐらいなんですけどね。でも、ホントに使えないアシスタントだったにもかかわらず、いろいろなことを教えていただいて大変感謝しております」

――当時の弘兼先生の作品には、どのようなものがあったんでしょう?

「『夢工場』『ハロー張りネズミ』『人間交差点』とか。ちょうど、そろそろ辞めようかっていうときに『課長島耕作』の第1話がやっとできたぐらいですね」

――今では、『社長島耕作』ですもんね(笑)。お辞めになったのは、一本立ちしようとして?

「一本立ちして、なんとかやろうと。で、また、同じ『少年サンデー』に持ち込みしたんですけど」

――また行くんですね……。

「まだ行くんですね(笑)。でも、そこでもやっぱりおんなじこと言われまして。なんか1年間、弘兼先生のところで勉強しても、まだこれかよという感じでね。あんまりオレ、進歩してなかったんだなあとさらに落ち込んじゃって。とうとう『少年サンデー』は諦めました。じゃあ青年誌のほうに行こうということで、弘兼先生の仕事場に行ってたころに担当さんとかと知り合いになった『ヤングマガジン』にも持って行ったりもしたんですけど、青年誌に持って行くと"ギャグはなかなかシビアでいいんだけど、絵柄が少年誌っぽいね"みたいな。"これじゃ青年誌じゃやってけないよ"って言われて、そこでまた門前払いなんですな。そこで、やっぱりオレは少年誌かと思ってべつの少年誌に持っていくと、ギャグがキツすぎて少年誌には向かないよ」

――どないせいちゅうんじゃ、という感じですね。

「それを2、3回繰り返すんですよ。そういうことやってるうちに、もう最初にマンガ家になろうと決心してから、2年、3年経っちゃったわけですね」

――その間の生活は、どうされてたんですか?

「ギリギリ切り詰めたり、貯金をちょっとずつ切り崩したり」

――弘兼先生のところへ行かれた後は……。

「弘兼先生のところではね、もうずーっと仕事で、ほとんど帰る時間もなかったくらいなんで、もらったお金ほとんど使わないで貯金していました。それを切り崩してなんとか、ていうことだったんですよ。ま、さすがにもう、後半はだんだんツラくなってきてね、道路を走る車の数を数えるバイトとか、スーパーでヨーグルトの販売とか、そういうところまでいったんですけれども(笑)。2、3年経って、まだ、芽も出ないということになると、さすがに焦ってきて、これはイカンだろうと。なにより自分は、なんでもいいからデビューしてマンガ家になりたいんじゃなくて、ギャグマンガやりたいんだ、ギャグでいこう、と。じゃ、どこの編集部がギャグに理解があるのか、ということを考えたとき、今の『ヤングアニマル』の前身の前身ぐらいですかね、当時、白泉社が『月刊コミコミ』っていう少年誌を出してたんです」

――それは、どういった雑誌だったんでしょう?

「そこはとり・みき先生が載ってる、なんきん先生が載ってる、いがらしみきお先生が載ってる、しかもギャグの特集号なんかも出していて、しりあがり寿先生がデビューされたりしてたぐらいギャグマンガにすごく理解がある雑誌だったんですね。あ、ここだったらなんとかなるんじゃないかと(笑)。藁にもすがる思いで。それで持ってったんですけど、そこでなんとか、なかなかおもしろじゃないのという感じでね。ま、こういうところをチョイチョイと直せばコレ使えるんじゃないか、みたいなところで引っかかりまして、そこでやっと日の目を見たかな、という感じです。長かったなあ(笑)」