毎日コミュニケーションズから1月31日、ニンテンドーDS向けの囲碁入門ソフト『梅沢由香里のやさしい囲碁』が発売された。ゲームタイトルからもわかるとおり、このソフトは、週刊少年ジャンプ(集英社刊)に連載され、TVアニメなどで大人気となった『ヒカルの碁』の監修として有名な女流棋聖・梅沢由香里さんがメインキャラクターを務めている。そこで今回、同ゲームの発売を記念して、梅沢由香里さんに囲碁の魅力などについてのお話を伺った。

 

囲碁との出会いは6歳の6月!?

――梅沢さんが囲碁をはじめたきっかけは何だったんですか?

梅沢由香里女流棋聖

「あまり面白い答えではないんですが、父親にムリヤリやらされたのが最初ですね(笑)。"6歳の6月にはじめた習い事は長続きする"みたいな言葉があるようで、6歳の6月に何かをやらせようとずっと考えていたみたいです。それで、お正月に祖父が囲碁をやっているのを見て、じゃあ、これをやらせようと。『こどもの日のプレゼントだよ』って碁盤と碁石を買ってくれました。6月ですから1カ月ちがうんですけどね(笑)」

――碁盤と碁石をいきなりもらっても困りますよね

「何にもわからないですよね。最初は、『新しいゲームか、ふーん』ぐらいの感想でした。それで、父といっしょにルールブックなどを読みながら、石は線と線がぶつかったところに置くんだ、みたいな感じで覚えていきました」

――実際に囲碁をはじめて、ルールはすぐに覚えられましたか?

「まだ6歳の子どもだったので、あまり記憶はないんですけど、適当に遊んでいるうちになんとなく覚えましたね。それで、ちょうど囲碁をはじめたころに、たまたま"囲碁教室はじめました"ってチラシが配られてきたんですよ。本当に偶然なんですけど。それで父と2人でその教室に通いだして、ちゃんと打てるようになった、という感じですね」

――最初は教室に行くのが嫌で嫌で仕方がなかった、というお話ですが?

「教室に行くと、途中でお菓子を買ってくれるんですよ。当時はそれだけが楽しみでしたね。囲碁はまったくのおまけみたいなものでした」

――それが"好き"だという感情に変わったのはいつごろですか?

「結構時間はかかりましたね。でも、私は負けず嫌いなので、"負けるのはくやしい"という感覚は早くからありました。"なんかくやしいから勝ちたいなあ"って。とにかく負けるのは嫌だったんですよ。何でも一番でいたかった」

――好きではなかったけれど、囲碁のほうは連戦連勝みたいな感じですか?

「そんなこともなかったですよ。結構負けてましたね。教室で先生が問題を出したときに私一人だけが答えられないということもありましたし、そこそこ強くなったと思ったころに、教室の大会で格下の子にハンデキャップなしで負けた、なんてこともありました。そういったことは、当時の私にとってはかなり屈辱的な出来事だったわけですよ(笑)。そういった出来事を経て、もっと囲碁がうまくなりたい、強くなりたいって、思うようになりましたね」

――そこで囲碁をやめてしまわずに続けたモチベーションは何だったんでしょう?

「囲碁って勝ち負けがはっきり出るじゃないですか。ピアノとかと違って、すごくはっきりと結果が出るので、目標が立てやすかったんでしょうね。"この人に勝てるようになりたい"とか。まあ、こんなモチベーションが良いかどうかはわからないですけど(笑)。とにかく負けず嫌い一辺倒だった気がしますね」

 

恩師との出会いがプロ棋士へのキッカケ

――プロ棋士になるまでに、囲碁以外で熱中したことはありますか?

「"遊び"に熱中していた時代もありますよ(笑)。私も将来をすごく悩んでいた時期がありまして、そのころは、学校の勉強をまじめにやってみようとか、政治だとか、経済だとか、いろいろなことにチャレンジしてみたんです。だけど、本当にダメで(笑)。全然わからないし、自分には向いていなし、まったく面白いとも思えなかったんですよ」

――そういった時期でも囲碁はずっと続けていたんですか?

「いえ、やめていた時期もあります。大学生の頃、なかなかプロになれなくて……。私、プレッシャーに弱いんですよ。『頑張れ―』とかいわれるとお腹が痛くちゃうみたいな。イザっていうときに力が出せない。それで、どうせ頑張っても肝心なときにまたお腹が痛くなっちゃうんだろうなって(笑)。それで大学2年生のころは、合コンだとか飲み会だとか、あまり褒められた生活はしてなかったんですよ。そうやって遊んだり、自分探しをしたりしていた時期もあったんですが、そこで悩んで悩んで、最終的に囲碁のプロになろうって決断しました」

――ちなみに、最初にプロになろうと意識したのはいつごろですか?

「師匠である加藤先生に出会って、『弟子にならないか』と言われたのが最初のキッカケですね。これって野球で言えば、イチロー選手に『君は才能があるから僕が育てるよ』って言ってもらったようなものなんですよ。そんなこと言われたら、野球少年はみんな夢見ちゃいますよね。そういう感じだったんです、最初は。それで日本棋院の院生になって、囲碁のプロを目指すことになりました」