――現在の会社に入ることになった経緯について教えていただけますか。

「映画館を退職した後、また学校に戻って、1年ほど今度は学校の職員として仕事をしたり、仲間と映像作品を作ったりしました。僕が商業作品の制作に関わったのは、それが最初ですね。で、『やりたいことの下準備はできた』、『だけど今後、東京で活動をしても、なかなか目立たないだろうと。でも、名古屋だったら地理的にもホームグラウンドだし、おもしろいことをやれば目立つんじゃないか』……ということで、名古屋に帰りました。とりあえず、腕を落とさないように美術関係のアルバイトをやりながら、職探しをしてました。名古屋に戻ってから半年後くらいに、中京テレビ映像企画の募集を新聞で見たんですよ。当時はバブルの絶頂期に向かっている時期で、就職のチャンスに恵まれましたね」

――そこでのお仕事は?

「就職して最初の5年間は、OL向けのバラエティ番組をやりました。つまり、OL向けにブランド物なんかを扱うバラエティの企画があったんで、採用されたわけです」

――その番組をおやりになって、いかがでしたか?

「もうとにかくねえ、困りましたねえ(笑)。OLには興味ないし、ブランド物にも興味ないし、ディスコなんか行かないし。自分本来の趣味とは、全然関係ない世界なんですよ。でもそこでAD(アシスタントディレクター)として、VTRの作り方なんかを憶えました」

――その後、ご自身の興味に沿った番組を手がけることはできたんでしょうか?

「その5年間の後、特番を作る部署に異動になりました。当時のローカル局というのはわりと自由で、『予算はほんのちょっぴりしかないけど、それだけの費用で90分の枠を埋められるんなら、好きな企画を立ててもかまわない』っていう枠があったんですよ。1日の終わり、深夜2時から放送終了までの間の枠です」

――そこで、どのような番組を作られたんでしょうか?

「その時に専門学校でお世話になった井上先生にご連絡しまして、『"ガメラ"の座談会をやりたいんですが』と、お願いしたんです。当時はまだ『平成シリーズ』の話もなにもない頃で、『今、なぜ"ガメラ"なの?』って聞かれたら、なんにも答えられなかったんですが(笑)。『とにかく"ガメラ"をやりたい』ということで、先ほど言いました専門学校で教わってコネがあったもんですから、講師であられた井上章さんに間に入っていただいて、築地米三郎さん、『ガメラ』シリーズの脚本をお書きになった高橋二三さんと監督をなさった湯浅憲明さんにご出演をお願いしました」

――ディレクターとしての初仕事というわけですか?

「この4人の方に、中京テレビ東京支社の一室に集まっていただいて、座談会というのを15年ぐらい前にやったんですよ。この座談会のために久しぶりに再会されたという方もいらして、皆さん和気あいあいとして、おかげさまですごくいい番組ができました。この座談会の模様は昨年、角川から発売された『ガメラ』のDVD-BOXに特典映像として入ってます。この番組が、僕がディレクターとして独り立ちしたデビュー作になります」