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ドラマにありがちなシチュエーション、バラエティで一瞬だけ静まる瞬間、
わずかに取り乱すニュースキャスター……テレビが繰り広げるワンシーン。
敢えて人名も番組名も出さず、ある一瞬だけにフォーカスする異色のテレビ論。
その視点からは、仕事でも人生の様々なシーンでも役立つ(かもしれない)
「ものの見方」が見えてくる。
ライター・武田砂鉄さんが
執拗にワンシーンを追い求める連載です。
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私たちは時間を確認しすぎている

ハイソを気取る男性ファッション誌が「男の価値は時計と靴で決まる」と繰り返してくるのだが、時計もせずにサンダルで方々へ出かけていくこちらは、男としての価値を保有していないのだろうか。もしくは、本当はとてつもない価値を持っているのに時計と靴を得ていないから気付かれていない、ということなのだろうか。後者だとしたら、私は没後、「あの人は時計さえしていれば……」と近親者に悔やまれるのだろうか。

みんな、腕時計をしすぎである。バレンタインなんてチョコレート業界の戦略だろ、ハロウィンなんて広告代理店が盛り上げているだけだろ、という意見はあちこちで聞くが、私はそれよりも「腕時計は時計業界の策謀である」と力強く訴えたい。こちらが腕時計をしないのには明確な理由がある。そこらじゅうに時計が溢れているからだ。例えば自分の家から最寄り駅までの12分の間に、マンションの管理人室、児童館、ミッション系女子大学のチャペル、コンビニ、パチンコ屋の電光掲示板、商店街のゲートの下と、少なくとも6ヵ所は時計が存在している。平均して2分に1度も他人様が時間を教えてくれるというのに、なぜ腕に縛り付けてまでも時間を確認しなければならないのか。それに今は、携帯がある。携帯電話・PHS・スマートフォンの普及率は、今年3月に総務省がまとめたデータによれば138.5%である。私たちは時間を確認しすぎている。

本当に「男の価値は時計で決まる」のか

もやしみたいな細さの時計を腕に巻いている女性を見かけるが、なぜあそこまで細かい短針を見てまで時間を確認しようとするのだろう。本屋を通りかかる度に、片付け術の本が大量に出ているという大いなる矛盾状態を確認するが、断捨離のターゲットから時計の部類が除外されているのは納得がいかない。「携帯を持たずに出かけて自分を見つめ直す自由な時間を」なんてスローガンも時たま聞こえるが、無駄に哲学的な問答を繰り広げれば、「時間」が意識されている限り、それは純粋に「自分」と言えるのかどうか。時間を自分で専有するという意識が、時間から自由になれていない証左ではないか。

これだけどこでも何度でも時間が確認できるというのに、時計産業は拡大を続けている。一般社団法人日本時計協会によれば、2013年のデータで、前年比120%の6,955億円、2010年以降4年連続のプラス成長だったという。その内訳はウォッチ(腕時計)市場が前年比121%、クロック(置時計・掛時計・目覚まし時計)市場が107%の成長である。この2つの数値を単純計算で合わせれば、前年比の成長は110%くらいになるはずだが、そうならないのは市場規模の差だ。確認して驚く。ウォッチ市場が6,405億円であるのに比べ、クロック市場は550億円。わずか8%なのである。街中では、腕時計が頻繁に巻き替えられ、その一方で、家の中ではおんなじ時計が使われる。この市場成長率は「腕時計は時折替えるべき」、つまり、「男の価値は時計で決まる」方向がリアルに機能していることを意味する。

時計の役割は目を覚まさせることだけだ

時計とは本来、日々の暮らしを運搬するための、切実な要望に答えながら使われてきたものだ。決して男の価値を高めるためのものではなかった。「1円単位まで割り勘しようとする男」は漏れなく嫌われるが、「1分刻みで行動しようとする男」は嫌われないどころか、仕事の出来る人間として男の価値をどこまでも高めていくらしい。屁のつく理屈と自覚しつつも、「何事にも捕われないオレ」の豪快さを語るビジネスマンが高級時計をぎらつかせているのを見ると、時計嫌いとしては「え、捕われてんじゃん」と突っ込むのを忘れない。しかし、この意見に賛同者は少ないだろう。

時計の役割とは何か。目を覚まさせることである。個人的にはそこに絞られる。7時なら7時に「7時です」と伝えることだ。「6時50分だ」と知らせて、まだ7時ではないけれどそろそろ起きておくべきと伝えてくれることだ。「いい加減起きろ」と何度も知らせ続けてくれることだ。単身で上京した学生が親のありがたみを痛感するのは、目覚まし時計をかけ忘れて眠りこけてしまっていたお昼前、と決まっているのだ。しかし、その役割も普及率138.5%の携帯電話が奪っていく。「望郷の目覚まし時計」はもはや朽ちていくアイテムである。

寝坊のエンタメ化

毎度ながらの長い前置きをいい加減終えて本題へ入ると、テレビドラマではまだまだクラシックな目覚ましシーンが散見されるのである。これまで時計嫌いを徹底し、時計の役割とは目覚ましのみにあり、と強く信じてきたこちらは、そのシーンを観て「これぞ時計の真骨頂」と独りで興奮に包まれてきた。いくつかのパターンに分けられる。最もクラシックなスタイルは、ハッと飛び起き、目覚まし時計を持ち、その音に気付かなかった自分、慌てて時刻を見て、「やっばっ」と顔面蒼白になるパターン。デートへの遅延ならば、彼女からの着信が15件入っているスマホの画面を見て、青ざめる。

急いで身支度を整えている最中に、ベッドの角に小指をぶつけるシーンが目立つが、あれはいったい誰が始めたのだろう。切迫した状況を際立たせる効果があるものの、ドジっぷりを強調する行動としての頻度が高すぎる。そこだけものすごく、振る舞いが昭和っぽい。「このシーンなんだけど、もう1アクセント入れられないかな~」が口癖の監督を納得させるための行為が今に引き続いているのだろうか。実際の事象としては、寝坊はただただ残酷であり、リアルに人間関係やビジネスを決壊させるわけだが、寝坊をポップに撮りたがる人々は、寝坊をエンタメ化させる。目覚まし時計を両手で持って「えーうそー」なんて言っている暇はないのだが、じっくり寝坊と向き合うのである。

このドラマはベタですと知らせる

鳴り響く目覚まし時計に気付かずに寝たまんま、という描写も根強い。目覚ましの音にちょっとだけ反応して「むにゃむにゃ」と小声を出したりするのだが、起きることはない。一度手にした目覚ましが、寝相の流れのなかでベッドから落としてしまうというケースを見かけるが、本来はなかなかの偶然である。偶然をカウントしてみる。寝ぼけ眼で自分のところに目覚まし時計をたぐり寄せて(1)、その後で落としてしまう(2)。落としたことによって自分の耳元ではないところで再度鳴る(3)、その音に気付くことがない(4)。奇跡的な連鎖だが、寝坊とはもっとシンプルに、鳴る、でも起きない、という残酷なものである。

時間に追われているオレが好き、という人は一向に減らない。経験上「あっ、そこの時間だったら何とかなります」とか言ってくる人は、往々にして、その前後の時間を指定し直しても別に大丈夫であることが多い。忙しいことが美徳であるとする風習は、もちろんドラマの中身にも影響を与え、寝坊シーンの量産に一役買う。目覚まし時計はこれまでの名作ドラマを支えてきた。しかしながら、腕時計ファシズムの進行によって、置き時計軽視が進むと、目覚ましドタバタシチュエーションは低減していくのだろうか。黒電話にかかってきた男の子からの電話に出たオヤジが不機嫌そうに「由実香とはどうゆう関係だい!?」と凄むシーンは、もはや現代のホームドラマではありえない。目覚まし時計が鳴り響くシーンも、次の時代では「まあコレは平成のホームドラマだよね、古い古い」と、すっかり過去のものとして語られるアイテムとなってしまうのだろうか。そうならないために、ベタな目覚ましシーンを意識的に愛でる。動物の耳のようにベルが付いている目覚まし時計がけたたましく鳴る、このドラマはベタですと知らせるベルだ。私は、そのベルを心から歓迎する。

<著者プロフィール>
武田砂鉄
ライター/編集。1982年生まれ。2014年秋、出版社勤務を経てフリーへ。「CINRA.NET」「cakes」「Yahoo!ニュース個人」「beatleg」「TRASH-UP!!」「LITERA」で連載を持ち、雑誌「AERA」「SPA!」「週刊金曜日」「beatleg」「STRANGE DAYS」等で執筆中。近著に『紋切型社会 言葉で固まる現代を解きほぐす』(朝日出版社)がある。

イラスト: 川崎タカオ