エチケット袋といえば、乗り物酔いで気分が悪くなったときに使うもの。飛行機やバスの座席のポケットに常備されている紙袋だ。日本の航空業界では「吐袋」ともいうそうで、列車では見かけない備品である。しかし、日本では唯一、エチケット袋を備えた列車がある。岡山~出雲市間を結ぶJR西日本の特急列車「やくも」だ。

最後の381系特急「やくも」。列車名は短歌の枕詞「八雲立つ」から

特急「やくも」は1972年に誕生した。運転区間は岡山~出雲市間で、一部列車は益田駅まで達した。山陽新幹線が岡山駅へ延伸したため、それまで山陰本線などを経由して京都・大阪と山陰地域を結んだ特急列車に変わり、岡山駅で新幹線に接続して山陰地域を結ぶ列車だった。しかし、当時はエチケット袋は用意されていなかった。

エチケット袋の装備は1982年から。その理由は使用車両の変更だ。ディーゼルカーのキハ181系から電車の381系になった。すると乗客に乗り物酔いの症状が増えてしまったという。つまり、エチケット袋を装備した理由は「やくも」ではなく381系にあった。

381系は曲線区間を高速に通過するため、日本で初めて振り子式車体傾斜機構を採用した。曲線区間で列車の速度を上げると、列車は安全に通過できたとしても、乗客は遠心力でカーブの外側に押しつけられてしまう。自動車で急カーブにさしかかって片側に押しやられるような感じだ。そんな遠心力で揺らせては、乗客にとって不快だし危険だ。しかし曲線通過速度は上げたい。そこで曲線区間では車体を内側に傾けて、外へ向かう遠心力を下へ向かう力へ分散させようと考えた。それが振り子式車体傾斜機構である。

車体傾斜機構は新幹線のN700系やE5系にも使われている。空気バネを使った電子制御式だ。しかし、381系の振り子式は原始的な構造だった。台車に左右方向に動くコロを設置し、車体の重心を下げる。こうすると、カーブで遠心力が働いたときに、車体の下側が先にカーブの外へ出ようとする。振り子の原理で、車体は内側に傾く。

振り子機構は、一定の遠心力がかかるまで、摩擦力に押さえられている。そのおかげで、些細な車体の揺れでは振り子機構は働かない。駅構内の分岐を通過するときや直線区間では安定する。時速50km以下では振り子機構が作動しないしくみになっている。

ところがこれが裏目に出てしまう。列車が曲線区間に入り、一定の遠心力がかかった瞬間にガクンと揺れる。カーブが終わっても、振り子の揺れ戻しがある。その結果、従来の列車にはない独特の揺れが発生し、時速50km以上では収束しない。振り子機構の副作用だ。これが乗り物酔いの原因となったという。そこでエチケット袋の登場となった。

特急「やくも」は381系を導入した3番目の列車だ。最初に導入された列車は大阪・名古屋~長野間の特急「しなの」で、1973年だった。1978年には天王寺~白浜・新宮間の特急「くろしお」に導入された。これら3列車はすべてエチケット袋が用意された。

その後、「しなの」は2008年、「くろしお」は2015年に381系の運用を終了した。現在、381系を使用する列車は「やくも」だけ。つまり、日本でエチケット袋を常備する唯一の列車となった。全席の座席ポケットに入れられていたエチケット袋は、現在は車端部の洗面台横に配置されている。

振り子機構は改良され、その後に開発された車両では制御付き自然振り子式を採用している。曲線区間の位置をコンピュータに登録しておき、電子制御で車体を少しずつ傾ける。N700系やE5系の車体傾斜方式は前述のように、振り子機構は持たず、電子制御で空気バネの圧力を調整して車体を傾ける。

国鉄時代に製造され、原始的な振り子機構を搭載した381系は、最も新しい車両でも1981年生まれ。製造から35年経っている。筆者が2016年3月に乗車したときは、乗り物酔いしそうなほどの独特な揺れは感じなかった。鈍感だからかもしれないが……。このとき、ある駅でJR西日本の関係者に聞いたところ、「ここの381系はまだまだ走りますよ。現場としては新しくしてほしいんだけど」と話していた。