沖縄県を除く都道府県の主要鉄道路線はJRグループ各社により運行されている。JR北海道・JR東日本・JR東海・JR西日本・JR四国・JR九州だ。JR貨物も少しだけど専用路線を持っている。そのJRグループの前身が日本国有鉄道だった。国鉄の巨額な赤字その他の問題を解決する手段として、1987年に分割民営化してJRグループになった。JRグループの発足から28年、国鉄という言葉も一般にはあまり聞かなくなった。

東京駅丸の内北口(写真左)と国鉄本社ビル(同右)。写真はイメージ

日本国有鉄道は独立採算制の公共事業体という特殊な形態で、国の関与が強かった。それ以前は運輸省管轄の国営鉄道だった。なぜ国営事業だった鉄道が日本国有鉄道という会社になったのだろう? そこには、戦後の日本を統治した連合国軍司令部(GHQ)と、最高司令官マッカーサーが関わっていた。

1945(昭和20)年8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾して無条件降伏した。その翌日の8月15日、昭和天皇が玉音放送で国民に敗戦を伝えた。8月28日にアメリカが中心となって連合国軍本部を設置。8月30日にマッカーサーが来日。9月2日にGHQが第1号指令を出し、日本軍は解体された。9月8日に連合国軍が東京を占領した。

GHQは日本を民主主義に導くため、労働組合の結成を促した。しかし日本国民は生きていくために精一杯で、労働運動どころではなかった。一方、まず範を示せとばかりに公務員が労働運動を活発化させていった。ところが、労働運動はストライキ、団体交渉にとどまらず、暴力的な闘争へと進展してしまった。

そこでGHQは方針を転換し、アメリカと同じように公務員の労働組合活動を禁止しようとした。1948(昭和23)年7月、マッカーサーは吉田茂首相に対し、書簡を通じて公務員法を制定するよう命令した。公務員の団体交渉権を規制し、争議権を剥奪するという内容だった。

1952(昭和27)年に出版された山川三平著『桜木町日記』(駿河台書房)によると、鉄道や塩などの専売事業は独立採算制の公共企業体として発足させ、職員組合の罷業権(ストライキ)は認めず、団体交渉権のみ認め、労働争議は仲裁委員及び調停委員によって解決することになったという。

国が管掌していた鉄道事業は、塩やたばこの専売事業と同じように公共事業体とする。これがマッカーサーの指令だ。そこには国家権力とは関係ない公共的な事業は独立採算性にしようという意図があった。運輸省側には、「いっそ民間会社にする」という意見もあったけれど、鉄道も専売も国策としての役割があった。民間企業なら赤字として撤退できる事業部門であっても、公共事業体は他の黒字部門で補うことで赤字事業を維持しなくてはいけない。『桜木町日記』によれば、当時の日本の上層部にとって公共事業体という考え方を理解しにくかったらしい。

鉄道部門を公共事業体にするため、1948年11月30日に日本国有鉄道法が成立し、1949年6月1日に日本国有鉄道が発足した。国鉄は国の直轄ではないけれど、最高責任者の総裁は内閣が任命する。予算案は運輸省に提出し、政府関係機関予算として国会で審議された。完全な民営会社ではなく、政府系の企業体だから、民業を圧迫するため鉄道・運輸事業に直接関係ない事業は制限された。さらに、国鉄が赤字であっても、政府が決議した鉄道路線は建設し運行を引き受けなくてはいけなかった。

国鉄はもともと赤字を抱えなくてはいけない企業の上に、人件費がかさんだ。国鉄になる前から国営の鉄道事業は戦争引き揚げ者や退役軍人の受け皿となっていたからだ。退職させても年金の負担が重くなっていた。その上で合理化が進まず、赤字路線を抱えて業績が悪化。ついに破綻して、国鉄は1987年に分割民営化し、精算することになった。

国鉄末期からJR発足後にかけて、赤字ローカル線の廃止が進められた。そして現在も、JR北海道やJR西日本の閑散路線などで赤字路線の存廃が取りざたされている。とくにJR北海道の近年の事故や不祥事については、そもそも国鉄の分割民営化が得策だったかという議論まで起きている。

こうした事象はすべて、マッカーサーが吉田茂首相に宛てた書簡の「鉄道は公共事業体とせよ」から始まっている。玉音放送から今年で70年。「日本の鉄道はまだ戦後処理が済んでいない」ともいえそうだ。

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